『江島氏物語』 

歴史推理ブログ「筑後江島氏とその庶流」
    通史に無い歴史物語

Vol 62 違い鷹ノ羽の謎 4 「屋形尾の城と杖立竹原文書に見る江島氏」

2018年09月22日 | 肥前(小国)江島氏



●屋形尾とは鷹の尾羽の模様

「古城考」によれば、田原の江島城は「屋形尾の城」と呼ばれていたようです。「屋形尾」は「矢形尾」とも書きます。この名は鷹の尾羽の先にある白い斑の三角の模様の呼び名です。模様が舘の切妻屋根や矢の鏃の形に似ている事からついた名称です。

鷹や鷲の尾羽は丈夫でまっすぐな為、矢の矢羽にするには最高の品です。また1羽から12~14枚しか取れない為、大変貴重な物でした。武家の間では尾羽は高級な贈答品として珍重されました。鷹の羽が武家に好まれる理由の一端が分かるような気がします。

田原の江島城に何故この名が付いたのか。グーグルマップでご覧になればわかるように城がある山はなだらかな丘陵状をなしています。ストリートビューで確認しても、川沿いの日田街道からは手前の山が邪魔をして、この山を見ることが出来ません。

下から見えないという事は、山上からも街道の様子が見えないという事です。現在は植林の結果、木々の高さは統一され、さほど高くはありませんが、室町末期の頃は大木が生い茂り、視界は一層良くなかったと思われます。

矢形尾の城の主たる任務は、日田街道の往来の監視と近接する豊後との国境を越境する者の監視にあったのではないかと考えています。

ですから、城から下の様子が良く見えるように、通常より一段高い城柵で囲まれており、城の中心にはさらに高い望楼が設けられていたと思います。そしてその望楼からは眼下の日田街道だけでなく、主要街道が交差する宮原(現小国町の中心)辺りまでも見通せたのではないでしょうか。

周囲の地域から城を遠望すると、城柵を底辺とし望楼を頂点する三角形のシルエットが、笠を伏せたような濃緑の山肌の頂上に映えて、鷹の尾羽の模様のよう見えたのではと想像します。

鷹羽に因んだ「矢形尾」という名は、肥後の山城に真に相応しい名だとお思いになりませんか。


●杖立竹原氏蔵文書から見えるもの

小国郷史(1960)は杖立竹原氏蔵文書について、次のように説明しています。
「比文献は高村某から竹原氏の数代前の人に借金の質にいれたものという。古城考と年代もあっている」というだけで、この文書を誰が、何時頃、何のために書いたかの説明がありません。

この文書が書かれた時代は江戸の初期頃ではないかと推察します。理由は和泉守の知行を「石高表示」としている事。また家老と家臣の俸禄について「人扶持」を使っていることです。石高表示になるのは文禄、慶長期の太閤検地以降の事です。

この文書の内容から見ますと、文書が書かれた時には三つのお寺と江島一党の墓がまだ存在していたようです。

文書の筆者は寺に残る過去帳もしくは記録文書、墓碑銘等を参考にして書いたものだと思われます。しかも欠字や抜字がある事、文章的にやや雑な事などから、江戸期初頭、領主の命によって、各村の由緒来歴等を提出する際に作成した書類の下書きまたは資料の一部ではないかと推察しています。


では文書を具体的に見てみましょう。

一.文明二年(1470)七月九日、江島和泉守の●領御儀家中十二人御知行五百石、墓前は鹿の向塚なり。
一.河内九郎左衛門重家 右御家老四人扶持なり、下形野に墓あり上に在り。 
一.宇田五郎左衛門兼水 二人扶持、文明十四年(1482)八月十五日五十二才、下屋形野に墓あり上に在り。
一.兼水女房、下屋形野に墓あり上に在り。
一.真言宗高野山末寺、五角山雲山寺専林院、上屋形の上にあり。
一.天台宗鳥巣山向林寺幸林院、秋原向に在り、和泉守の寺なり。
一.金角山円林寺法春院、秋原上にあり。

●命日、石高、家臣数

年月日は江島和泉守が亡くなった年月日に間違いないと思われます。知行地は500石とありますから、元の資料には50町と書いてあったのでしょうか。そうであれば田原以外にもう1~2村(集落)の知行地があったのかもしれません。

「●領御儀家中十二人御知行五百石」は●は欠字か判読不明の様です。一体何の文字が書かれていたのでしょうか。気になるところです。

家中十二人とは侍身分の者の家臣数と思われます。家老の河内九郎左衛門は四人扶持とあります。江戸時代なら一人扶持は約一石に相当しますが家老身分で四石というもおかしな話ですので、4人の家来(陪臣)がいたと解釈した方が良いのかも。同様に宇田五郎左衛門には二人の家来がいたという事になります。

50町の知行から推測すると和泉守の親族、家臣、郎党合わせて戦闘員はおよそ30〰40人、戦時の領民からの徴兵を合わせて兵力100人程度の小規模な城塞ではなかったかと思います。

江島氏と家臣達は半世紀以上の年月を小国郷田原で過ごした訳ですから、田原を去る頃は、一族のほとんどがこの地で誕生した第二世代であり、第三世代も大きく成長していたことでしょう。

和泉守が文明二年に没したとすれば移住時期を考えれば相当な高齢であったと思われます。ひょっとすればこの墓に埋葬された人物は二代目和泉守であった可能性も考えられます。

宇田五郎左衛門は年齢を考えると田原で誕生した第二世代か、中途採用の家臣でしょう。また彼の没年から見ると、江島氏の一党は文明14年迄は、確実に田原に在住していたという証明になります。


●屋敷、寺、墓所の配置位置

現在グーグルマップである程度の配置が確認できます。山頂部に城、山の東面斜面の中腹上部辺り(上屋形野)に城主一族の住む屋敷が、そして屋敷の上の辺りに真言宗の寺、雲山寺があったようです。和泉守の墓所、鹿の向塚は特定出来ませんが、おそらく上屋形の上の場所に在ったと思われます。

中世の豪族の居館配置は傾斜地の場合、上部に領主の館、その下部に階級順に上から下へと建物が続くのが定番です。

家老の九郎左衛門、と家臣の五郎左衛門とその妻の墓は、士分の家臣達の家屋がある、下屋形野の上の場所にあったようです。


次回に続く


★違い鷹ノ羽の謎



その1 何故、筑後江島氏が家紋に違い鷹ノ羽を用いたのか?
その2 何故、福岡には違い鷹ノ羽を家紋にした江島家がないのか?
その3 何故、違い鷹ノ羽を家紋とする江島家が九州5県に拡がったか?

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