藤原隆家 画像:出典 Wikipedia 米国版
●筑後江島氏の祖、藤原隆家とは
筑後江島村を本貫とする筑後江島氏の出自は「藤原隆家」を祖とする肥前高木氏の庶流とされています。
藤原隆家(979~1044)は平安時代中期の公卿。藤原北家、摂政関白内大臣・藤原道隆の四男として誕生しました。官位は正二位・中納言。隆家の父、藤原道隆は正二位、摂政、関白、内大臣を勤めました。従って隆家の氏族は「藤原北家中関白家」とも呼ばれます。
また道隆は藤原兼家(従一位、摂政、関白、太政大臣)の長男で、弟に藤原道長(五男、または四男)がいます。従って道長と隆家は叔父、甥の関係です。
ここで藤原隆家と九州(太宰府)との繋がりと人物像をご紹介しましょう。
●藤原隆家と大宰府
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隆家は長和元年(1012年)末頃より先の尖った物による外傷を原因とした眼病を患い、出仕や交際もできず邸宅に籠居するようになる。ここで、大宰府には眼の治療を行う唐人の名医がいるとの話を聞きつけて、隆家は進んで大宰権帥への任官を望む。この任官希望に対しては、未だ声望高い中関白家と九州在地勢力との結合を抑止したい道長に強く妨害されるが、結局同じ眼病に悩む三条天皇の隆家への同情は深く、決定までに9ヶ月を要した末、長和3年(1014年)11月になってようやく大宰権帥に任ぜられた。
長和4年(1015年)には赴任の功労により正二位に叙せられている。大宰府では善政を施し、九州の在地勢力はすっかり心服したという。在任中の寛仁3年(1019年)刀伊の入寇が発生。刀伊(女真族と考えられている)が対馬・壱岐に続いて、同年4月に博多を襲うが、隆家は総指揮官として大宰大監・大蔵種材らを指揮してこれに応戦・撃退している。同年6月には高麗が虜人送使・鄭子良を派遣し、刀伊から奪回した日本人捕虜259名を送還する。隆家は鄭子良に対して朝廷の返牒を遣わし禄物を与えるなど後処理を行った。
同年12月に大宰権帥を辞して帰京(後任は藤原行成)。帰京後の朝廷において、刀伊を撃退したことに対する功績により隆家の大臣・大納言への登用を求める声もあったが、帰京後の隆家は内裏出仕を控えていたため昇進の沙汰はなかったという。
一方で、翌寛仁4年には都に疱瘡が大流行し、刀伊が大陸から持ち込んだものが隆家に憑いて京に及んだものと噂された。治安3年(1023年)次男の経輔を右中弁に昇任させる代わりに中納言を辞退する。その後、大蔵卿などを務めるが、後朱雀朝の長暦元年(1037年)藤原実成に代わって再度大宰権帥に任ぜられ、長久3年(1042年)までこれを務めた。
長久5年(1044年)1月1日薨去。享年66。最終官位は前中納言正二位。
●藤原隆家の人物像
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天下の「さがな者」(荒くれ者)として有名であった隆家は、王権をかさに着る花山院との賭け事や、姉の中宮定子の女房清少納言との応酬など、『枕草子』『大鏡』『古今著聞集』にも多彩な逸話が伝えられている。
姉が生んだ敦康親王の立太子を実現できなかった一条天皇を「人非人」と非難したり、権力者の叔父道長の嫌がらせに屈せず三条天皇皇后娍子の皇后宮大夫を引き受けたりするなど、気骨のある人物として知られた。
その「こころたましひ」(気概)は政敵の道長も一目置く存在であり、「長徳の変の黒幕」と衆目の一致する所であった道長は、後年、賀茂詣のついでにわざわざ隆家を招いて同車させ、その弁明に努めている。
「もし敦康親王が即位して隆家が政治を補佐したならば、天下はよく治まるだろう」という世人の密かな期待があり、その期待に反して敦康が立太子できなかったのは、さすがの隆家も気落ちしているだろう、という世間の忖度を逆手にとって、隆家は三条天皇の大嘗会では華美な正装で煌びやかに振る舞ったという。
(引用終了)
●新興土豪勢力(在地官人)と藤原党の成立
この時代の貴族階層の生活は、源氏物語や枕草子に代表される王朝文学によって多くの人々が知るところです。
これらの物語の影響で、ともすれば公卿は恋愛に明け暮れる、なよなよとした女性的なイメージがついて回ります。しかしながら、隆家はそれとは真逆な剛の者で、刀伊入寇の際は自ら甲冑を纏い、馬を駆って奮戦しています。その様子は貴族というよりは武人と呼んだ方が相応しく思われます。
当時の大宰府は九州の政治、軍事の中心だけではなく、外交や大陸文化、学問の中心都市であり、古くは「遠の朝廷」(とおのみかど)と呼ばれ、京の都と並ぶ繁栄を誇っていました。
大宰府政庁の長官である、「権師(ごんのそつ)」は皇族や有力貴族から任命され、その多くは直接大宰府には任官せず、家臣などを代理として派遣する「遥任」でありました。また大宰府の政務にあたる官人の多くは九州の有力豪族や土豪達が任官し、在地官人として政務や軍事の職についていました。
そのような状況の中で、前の関白の嫡男で武名も高い隆家が着任して来たのですから、貴種として歓迎されたのは言うまでもないでしょう。筑前、筑後、肥前の国では古代氏族を祖とする豪族や帰化人を祖とする豪族達が隆盛を誇っていました。格式と権威に劣る新興の土豪勢力とって、隆家は出自、人柄共に、権威付けには申し分のない人物でした。
隆家配下として政務や軍事を担当した土豪勢力の中には、隆家や京から隆家に臣従してきた藤原北家一門の血を受け継ぐ者も現れたでしょう。また藤原北家一門の中には土豪の娘を娶り、九州に土着する者も出て来たと思われます。
藤原北家一門と土豪間の婚姻関係や同盟関係のなかで、藤原党としての同族意識が形成されていった事が想像出来ます。こうした状況の中で頭角を現した氏族が、肥前高木氏であり、後に肥後で勢力を拡大する菊池氏等の前身であったと思われます。私はこれらのプレ高木氏やプレ菊池氏を仮に「藤原党」と呼んでいます。
藤原隆家を祖と称する、これら藤原党は当初家紋に「日足紋」を使用しました。
高木氏は「十二日足」、菊池氏は「八つ日足」です。
日足紋は高木氏の庶流とされる草野氏は「六つ日足」、上妻氏も同じく「六つ日足」、龍造寺氏「十二日足」、於保氏「八つ日足」等が使用されていました。
大村直の後裔、藤原北家純友流とも称する肥前大村氏も、初めは「大村日足」と呼ばれる日足紋を使用していたようです。
肥前高木氏/十二日足
菊池氏/八つ日足
肥前大村氏/大村日足
16条の旭日旗
●筑後江島氏の家紋の変遷
久留米藩士「矢野一貞」(1794-1879)著の「筑後将士軍談」では、江島氏は藤原中関白隆家を祖とする藤原姓と紹介していますが、同書の中の「筑後領主附」の添え書きでは「少弐末中関白」とも記しています。
筑後江島氏も高木党の一員として当初は日足紋を使用していたと推測されます。
日足紋は太陽と光芒を著し、後の国旗の「日章旗」や第二の国旗「旭日旗」の元となった紋です。
過去記事「Vol 21筑後領主附に見る戦国期の所領」でもご紹介しましたが、高木党が少弐氏との関係を深めるに従って、江島氏も少弐氏に接近し、高木氏の衰退に従って少弐氏との関係が深まり、少弐氏の「四ツ目結(ゆい)紋」に因み「丸に四ツ目」紋を戦国期迄、定紋として使用します。
男子直系の家系というのは徳川家や諸大名家の例を見ても、長くても4~5代しか続く事は無く、他家からの養子を迎えて、家名を存続させる事が度々行われています。当然ながら江島氏も他家から養子を迎えた事でしょう。少弐氏全盛の頃には勢力維持の為に、積極的に主家筋の少弐氏から養子を迎え入れる事もあったと思われます。そして少弐氏の四ツ目結紋を家紋とし、少弐氏の末裔を名乗った時期があったのではないでしょうか。
次回、『少弐氏、目結紋の由緒と庶流』へ続く。
刀伊入寇 - 藤原隆家の闘い
葉室麟(著)
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