『江島氏物語』 

歴史推理ブログ「筑後江島氏とその庶流」
    通史に無い歴史物語

Vol 50 江島吉左衛門の朱印船貿易の真相

2018年07月29日 | 江島氏



資料の確認をしておりましたので、少し間が空きましたが前回の続きです。


●朱印船の概要

室町時代の勘合貿易に使用された遣明船は積載量が100トンあまりの千石船で外洋を航海するにはあまり適していませんでした。文禄・慶長の役には全長20間(約36m)前後の大船が建造されるようになりました。さらに西洋の造船術や航海術も取り入れられ、従来の和船には無かった防水隔壁構造や固定式の梶などが取り入れられ、荒海の航海に耐える船が作られるようになりました。慶長9年に進水した、加藤清正の朱印船は長さ二十間、幅5間、270〰280トンの積載量と推定されています。茶屋又次郎の船は長さ25間、幅4.5間、積載量約300トン、乗り込み人員約300人と推定されています。朱印船の多くは乗組員200〰300名。積載量200~300トンの二千石〰三千石船と推定されています。


●船員と乗組員

朱印船の乗組員は船主(船長)、按針(航海士)、書記、水夫などで、その大多数は日本人でした。初期の頃は南洋の水域に詳しいシナ人航海士が雇われた事もありました。
西類子や長崎の荒木宗太郎などは自ら船に乗り込み、投資家、船の所有者、船長を兼ねていました。また投資家がその一族や腹心の部下を船長に任命して、船の運航や貿易を指揮監督させた場合もありました。
操船など航海に必要な船員の総数は50〰80名ほどで、残りの人員は「客商」とその従業員達でした。


●朱印船の客商

客商とは朱印船に便乗した商人たちの事です。室町時代の勘合貿易以来、朱印船貿易においても、客商は貿易上重要な役割を果たしました。船主(投資家)は客商に対し船賃や貿易品の荷駄の運賃を徴収し、造船、または借船、艤装の資金に充て、貿易地の王侯や役人、幕府への献上品の購入費用に充てたようです。
現存する記録では、客商の朱印船一隻の貿易額に占める割合は4割近くを占めたようです。

朱印船の船主、および客商たちは貿易の資金を自己資本だけでなく、広く投資家から資金を借り入れました。今に残る投銀証文によれば、その利率は3割5分から11割に上っており、高額な利息を払っても彼らが行った貿易に利益があった事を示しています。ちなみに西類子は数回の貿易の為に銀6000貫(現在の銀価格換算75億円)を借り入れたと記録に残っています。朱印船貿易家となる為には自己資金力と同時に出資者や客商を集める事の出来る豊富な人脈が必要でした。



●朱印船貿易家、江島吉左衛門

さて、本題に戻りましょう。江島吉左衛門という朱印船貿易家の名を知った当初、はたしてこの人物の出自が筑後江島氏なのか、俄かには信じることが出来ませんでした。何故ならば、朱印船貿易の船主を務めるには巨額の資本と外洋航海と外国貿易の経験が不可欠だと考えたからです。しかし様々な史料を読み込むうちに、朱印船貿易を行った可能性が十分ある事が判ってきました。

筑後江島氏は大友氏の支配下から脱した後、文禄・慶長の役にかけて、対馬江島氏との交流が深まると同時に、外洋航海の経験を積みました。さらに朱印船貿易が始まって、交易拠点を長崎に移してから客商としての活動を始め、海外渡航と貿易の経験を積み、貿易家としての資本と人脈を形成していったと思われます。

また当初、江島吉左衛門は対馬江島氏の者かと考え、記録をあたりました。古60人の中に同名の人物を発見しましたが、吉左衛門の時代から遥か後世の人物で、年齢を考えれば別人であることが分かりました。

朱印船貿易に船主として名を遺す事は名誉な事であり、慶長の朱印船貿易家吉左衛門にあやかって同名を名乗ったと推察できます。また、対馬江島氏は対馬藩の御用商人ですから、大村喜前家人として朱印状を貰う事は不自然です。但し、対馬江島氏が表に出ずに、この朱印船貿易に関わった事は当時の状況から十分に考えられます。吉左衛門の偉業を手伝ったからこそ、子孫がその名を名乗ったのかもしれません。


●吉左衛門は柳川藩士江島家の祖か?

江島吉左衛門が筑後江島氏の本家筋の人物であることを証明する史料が、以前ご紹介しました柳河藩享保八年藩士系図です。この資料によって江島吉左衛門の人物像と足跡がかなり判明出来たのです。

この系図によれば享保八年藩士であった江島繁之丞幸繁の曾祖父江島幸利の名乗り(通称)が当初は四郎左衛門で次が吉左衛門です。幸利の次男幸親(幸繁の祖父)の名乗りも吉左衛門です。この藩士系図に書かれた年代から推測すると幸利が慶長15年(1611)に朱印船貿易を行った江島吉左衛門では年齢的に無理がありますが、初代吉左衛門の子で二代目吉左衛門を名乗ったのであれば、辻褄があうのです。
では何故、幸利が当初四郎左衛門を名乗っていたか、それは初代吉左衛門がまだ存命であったからです。

青木島開発で記録に残る四郎丸村の住人、江島四郎左衛門が開発に着手するのが慶長6年(1605)頃で、開発終了後藤原正喜と改名しています。江島四郎左衛門も本家筋の人物のようですから、先祖代々由緒あるその名を貰って四郎左衛門と名乗り、初代吉左衛門が引退するか、亡くなった後、二代目吉左衛門を襲名したと考えられます。

私は三代目吉左衛門の幸親の代までは、堺か大坂を本拠として廻船業を営んでいたのではないかと推察しています。何故なら元和期以降、禁教令の強化や朱印船貿易の固定化によって商売のうま味が無くなり、貿易家の多くが長崎から上方に本拠を移しているからです。堺や長崎に代わって各藩の蔵屋敷が立ち並ぶ大坂に商業の中心がシフトしていきました。

二代目吉左衛門、幸利の妻は京生まれでした。吉左衛門一家が上方に拠点を移していれば説明は不要でしょう。さらに元和八年(1622)紀州和歌山、中之島村(紀の川沿いに位置する)の江島藤六が藩許を得て和歌山城下の新富町開発を行います。この和歌山の江島氏が筑後江島氏の分家であることは、私の家の伝承にも残っています。また、昭和の初期ごろまでは私の祖父は、和歌山の江島家の子孫の方と手紙のやり取りを行っていました。
紀の川は水運による紀州の商業活動の大動脈でした。初代吉左衛門が上方に本拠を移していれば、和歌山城下の新地開発に至った経緯も容易に説明が出来ます。



山田長政奉納絵馬模写絵


●大村喜前の忠誠心

大村喜前と西類子との関係は前回にお話ししました。喜前は切支丹を棄て、切支丹との関係を断とうと計っていました。喜前が大御所家康に切支丹の西類子を紹介したのは、類子を通じて朱印船貿易を有利に行おうとしたことでは無く、ルソンの情報を欲しがっていた家康、しいては幕府に対する忠誠の証であったと思われます。
その証拠に類子は拠点をマニラに移し、大村藩とは距離を置いています。

では何故大村藩は江島吉左衛門を大村藩の家人として幕府に仲介し、朱印状を賜ったのでしょうか。私はその理由を次のように考えています。

朱印状が下賜された慶長15年(1611)は、大村藩ではご一門払いが無事に終わって藩政改革が軌道に乗り始めた頃でした。九州の有力大名や喜前の従兄弟にあたる有馬晴信などは再三朱印船貿易を行っており、支配体制が強化されるに従い、内外に喜前と大村藩の存在をアピールするには朱印船貿易はうってつけの事業でした。しかし、まだ大村藩は財政的には苦しく、藩主が船主として貿易を行う資金が不足していました。

また短期に巨額の利役を生み出す反面、万一派遣した船が遭難するような事があれば、その補償も莫大な金額になってしまいます。実高二万数千石の小藩にとってそれは危険な賭けでもありました。

喜前にとって、貿易による利益より、何より優先したい朱印船貿易の動機があったのではないかと思います。それは、渡海先に選んだ暹羅と柬埔寨が示しているように思われます。暹羅と柬埔寨の主な産出品は沈香に代表される香木でした。沈香のさらに上等なものは伽羅と呼ばれ大変貴重なものでした。

我が国でも、正倉院の御物の中に大きな伽羅の香木があるように、古くから宝物に等しい価値を持っていました。インドシナ半島の国々で政変が起こると、王侯貴族たちは黄金ではなく、香木を背負って逃げたと言われます。香木一本が黄金、宝石に勝る価値を持っていたという証拠です。

この伽羅を大変珍重し愛好したのが誰あろう徳川家康でした。記録によれば有馬晴信も家康に伽羅を献上したとあります。

喜前は何よりも徳川幕府に忠誠を誓い、献身的に仕えました。喜前に始まって代々の藩主の努力もあって、後に大村藩は外様でありながら、正月一日に将軍への参賀の登城を行うなど譜代と同じ扱いを受けるようになります。
九州の大名が長崎奉行に挨拶に伺う時は、割とぞんざいな扱いを受けるのですが、大村藩主だけは親戚扱いで丁重に応対されたと言われます。

また「島原の乱」の時には九州の諸大名は実高以上の兵役が課された上に、多数の犠牲者を出しました。しかし大村藩は長崎警護の役が言い渡され、実戦に加わることなく、経済的な負担や人的な被害は少なく済んでいます。これも大村藩の不断の忠義に対する幕府の温情措置ではなかったのでしょうか。


喜前は伽羅を手に入れ家康に献上し、その忠誠心を示したかったのではないでしょうか。

そこで、藩自ら朱印船を仕立てることもなく、江島吉左衛門を船主として幕府に朱印状の仲介を取りました。大名の権威を持ってすれば強圧的に船主を喜前とし、陰で江島氏に実務を行わせる事も可能であったはずですが、敢てそれをしなかったのは二つの理由があったと思われます。

その一つは船主を喜前とすることによって、幕府から財政的に余裕があると思われ、普請など更なる役を仰せつかる事になるという恐れ。二つ目は喜前が他者に対して誠実な人物であったという事でしょう。いずれにしろ大村喜前という人物は誠に思慮深く、賢明な藩主であったに違いありません。


●江島吉左衛門と家紋(五つ木瓜と剣唐花)

喜前は貿易の主導権を吉左衛門に譲る代わりに、一つ条件をつけたものと思われます。それは大村家の家紋を吉左衛門に下賜する事でした。何故ならば、朱印船は船主の旗印を船尾に掲げることが通例となっていたからです。
吉左衛門が船尾に下賜された家紋「五つ木瓜に剣唐花」を掲げれば、その船を見た者は大村藩が派遣した船と認知するからです。(暹羅も柬埔寨にも在留日本人が大勢いました)そして吉左衛門を名目上大村藩の家臣とし、喜前の名代とすれば、立派に大村藩の面目が立つことになります。

一方吉左衛門にすれば、身は商人(浪人)とは言え元は武士、大名家の家紋を下賜されることは武門の誉です。さらに大村藩主喜前の名代となれば、暹羅や柬埔寨の王侯や役人の接遇や信用も違ってきます。また朱印船貿易の船主を務める事は商人仲間の信用度が格段に高まり、商人としての箔が付きました。


朱印船派遣の件は大村藩が江島氏に持ちかけたのか、江島氏が大村藩に売り込んだのかは今となっては不明ですが、喜前も吉左衛門(筑後江島氏)も互いに「名を棄て実を取る」ということで、シャンシャンと目出度く手打ち式となったのではないでしょうか。


江島本家の家紋が「丸に四ツ目」から「大村瓜」に代わった背景は以上の様ではなかったかと推察する次第です。


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Vol 49 暹羅に於ける朱印船貿易と貿易額

2018年07月22日 | 江島氏

暹羅の日本人兵士


●朱印船の貿易家

朱印状を発給された船主名から岩生成一氏は著書「朱印船と日本町」で朱印船貿易家を次のように分類しています。

1.大名  10氏(大村氏は含まれず)
2.武士・幕吏  4氏
3.商人と推定される者 65氏  
4.女性 2氏(家康の側室と商人の妻)
5.琉球人  1氏
6.在留シナ人11名
7.在留欧州人12名

朱印船開始から鎖国に至る間にのべ355隻が渡海しています。
江島吉左衛門は商人のうちの一人に分類されています。
日本人の朱印船貿易家のうち居住地や出身地の分かる者60人の内訳は、九州32氏、京・堺・大坂24氏、因幡、江戸、琉球、暹羅各1氏、不明22氏、合計82氏とされています。


●暹羅(シャム)に於ける朱印船貿易

暹羅に於ける朱印船貿易も、主としてその首府アユタヤを中心として行われました。朱印船は晩秋か初冬に長崎を出帆し、順調な航海の場合、季節風の北風に乗って35〰36日でメナム河の河口に到着しました。   
※日本〰東埔寨(カンボジア)間は57日。(メコン河遡行に80里を要す為)

到着後直ちに河を遡ってバンコックに達し、知事か港務長の元に出頭して、国王に謁するために艀(はしけ)を借り受けて、献上品を積み込み国都アユタヤまで河を遡航することを要請します。当時はすでに多くの日本人が現地に移り住んでおり、日本人町を形成すると共に官吏として採用される者も多く、日本船の入港手続きを担当しました。
朱印船の場合は朱印状を検査し、これを国王に伝え遡航の諾否を決定しました。後に山田長政も奉行として入港船の検問を担当した事があるようです。

メナム河を遡航すること9日目にアユタヤ郊外に達し、国王や高官達に贈り物を持って謁見しました。

またアユタヤの日本人町の頭に挨拶をして商売の便宜を図ってもらいました。当初はオークブラ純広という日本人が頭でした。「オークブラ」というのはアユタヤ王家から授爵された冠位で、上位からチャオピヤ、オークヤー、オークブラ、ルアン、クンの五階級ありました。純弘の次は津田又右衛門、続いて白井久右衛門が日本人町の頭となり、その後に山田長政の時代となるわけです。長政はオークヤー・セーナーピムックの称号が与えられました。

江島吉左衛門は国王に拝謁したのでしょうか。また当時の日本人町の頭は誰であったのでしょうか。ちなみに吉左衛門が渡海した年には、まだ山田長政は渡海をしておりません。

翌年春ごろまでに、日本人町の住民の協力を得て商品を売り捌き。鹿皮、鮫皮、蘇木や鉛などの現地の生産品や支那船のもたらす生糸の買い付けを行いましたが、集荷、鑑別、荷造り、積み込み等一切は在留日本人の手によって行われました。暹羅における貿易活動はオランダ人の貿易組織をもってしても、在留日本人の協力無くしては円滑有利に運ぶことは出来なかったそうです。

こうして数か月の滞在の後、季節風の南風に乗って帰国の途につきました。中には商品が揃わず、1年以上、現地に滞在する船もあったそうです。吉左衛門の暹羅、柬埔寨への渡海は二隻をもって行われたと思われます。もう一隻の船長は誰が務めたのでしょうか・・・。


山田長政 肖像


●朱印船の貿易額

では朱印船の貿易額はどの位であったのでしょうか。前述の岩生成一氏は著書の中で外国船による輸入額と対比して、次のように分析しています。貿易額とは積み荷の売り上げ総価額であり、利益率はおよそ100%、つまり仕入れ額の2倍で売れたという計算です。また船の借料や乗組員の人件費や滞在費等の諸経費を除いても利益率は100%確保できたようです。

【年平均貿易額】  価格は銀で計算
朱印船   15,800貫目・・・・15隻

【年平均輸入額】
支那船    12,444貫目・・・・52隻
ポルトガル船 15,000貫目・・・・3隻
オランダ船   4,857貫目・・・・9隻

朱印船1隻の貿易額は1,000貫目で、オランダ船の倍額、支那船の4倍半となります。
また当時は貿易の決済は銀で行われており、世界中の年間銀産出額の3~4割を日本船によって海外に搬出されており、当時の世界の貿易に占める日本の位置は大変重要であったようです。


●朱印船一隻当たりの貿易額の価値

では朱印船一隻あたりの銀1,000貫目というのはどの位の価値があったのでしょうか。その当時の銀1貫目は現在の価値でおよそ125万円です。したがって12億5,000万円相当になります。現代の巨大化した経済社会では海外貿易額12億5,000万円はさほど多額とは思えません。そこで当時の米価で換算してみました。

慶長期の大坂での米相場では米一石の価格が銀20匁です。 1,000匁=1貫目ですから1,000貫目で買える米は50,000石になります。

朱印船1隻の貿易額は50,000石の大名の領地の年間総生産高と同等で、当時の年貢を五公五民とすれば、利益額は100,000石の大名の年間収入と同じという事になります。
吉左衛門が2隻の朱印船を出していたとすれば、一航海で2隻合わせてなんと200,000石の大名の年間収入に相当する商いを行った事になります。

親代々商人で長崎代官を勤め、密貿易に関係したとして、幕府によって斬罪となった朱印船貿易家、末次平蔵は財産を没収されます。その広大な屋敷と敷地を含まぬ、家具、調度、宝蔵の宝物の売却見積額が何と60万両(約600〰700億円)だったそうです。国持大名をも凌ぐ経済力に圧倒されてしまいます。朱印船貿易家の中でも平蔵は特別な存在であったでしょうが、海外貿易が如何に高い利潤を生んだかが容易に想像できます。


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Vol 48 大村藩の対外貿易と西類子 その2

2018年07月17日 | 江島氏

ボストン国立古美術館蔵


大村喜前の政策を見ると、喜前の父、大村純忠が行った政策の全否定のように思えます。
喜前は父親が進めてきた政策の真逆を行って、大村藩を立て直し、明治の代まで存続させる礎を築きます。

大村純忠は有馬晴純の次男で、大村純前の養嗣子となり家督を継ぎます。この頃大村氏は領地も5000石ほどしかなく、海外貿易による財政施策を行い勢力拡大を図ります。

まず、ポルトガル船の為に領内の横瀬浦を開放します。またイエズス会がポルトガル人に対して大きな影響力を持つことを知り、イエズス会宣教師などに対して住居を提供するなど、便宜をはかります。この結果横瀬浦は繁栄し、貿易による財力で戦国大名としての基礎を築きました。

また自らキリスト教に入信し、領民にキリスト教信仰を奨励するあまり、神社仏閣や墓所を破壊し、僧侶や神官、改宗を拒んだ領民等を殺害しました。これらの過激な弾圧は家臣や領民の反発を招きました。日本初の切支丹大名として天下に知られた大村氏は内部に様々な問題を抱えることになります。

このような状況の中で喜前は大村氏の家督を継ぎます。
文禄・慶長の役では若干19歳にして、兵1000名を率いて朝鮮に渡海し武功を建て、秀吉から豊臣姓を下賜されます。武人としても優れた人物であったのでしょう。しかし領主としての優れた才能が発揮されるのはその後です。

関ケ原の戦いの翌年の慶長6年、寺沢広高が大村・有馬氏の領地を家康に求めた為、国替えの危機が訪れます。喜前は幕閣に働きかけてこれを阻止し大村領が安堵されます。

慶長十年には秀忠二代将軍就任の為、伏見城に下向した家康、秀忠に祝賀の拝謁を行い、江戸へ下向する秀忠に嫡男純頼を同行させます。純頼は秀忠近習として2年を江戸で過ごした後帰国します。

喜前が洗礼を受けたのは父親純忠の意を受けてであり、自ら望んだものではなかったと思われます。身近に宣教師達と接する機会が多かっただけに、彼らの真の目的と弊害を早くから見抜いていたのかもしれません。史実が示すようにイエズス会であれ、他の宗派の宣教師にしろ、彼らの母国の植民地政策の先兵として日本に送り込まれた事は紛れもない事実です。

徳川幕府は貿易による利益を優先して、切支丹に対する規制は緩やかでしたが、喜前は慶長10年に大村からパードレを追放、ドミニコ会神父に退去命令を出すなどキリスト教勢力を排除します。
おそらく純頼を通じ、幕府の宣教師や切支丹に対する本音を察知して、素早く手を打っていったのではないでしょうか

また慶長11年には日蓮宗に改宗。慶長12年に御一門払いを行い、藩政改革を断行します。
一門払いとなった大村庶家は大村姓を名乗りながらも、純忠が養子であった為に喜前とは血縁が無かったり、切支丹を棄教しない者が含まれていたようです。
一門払いは下手をすれば武力による抵抗もあり、お家騒動、しいてはお家お取りつぶしになりかねない決断であった訳ですが、喜前は事前に幕府の承認を得ていたと言われ、その政治的手腕には敬服する次第です。

そしていよいよ慶長12年の徳川家康への西類子引見の段となります。
これには喜前自ら家康の元に伺候しますが、その主たる目的は一門払いの報告とお礼の言上であったと考えます。西類子を家康に引き合わせたのは、ルソン政府の日本への働きかけに対し、ルソンの情報を知りたがっている家康への何よりの手土産であったと思われます。

引見にあたり、類子は大変名誉な事だと喜び、衣服を整えて謁見に臨んだそうです。また家康も類子の事情通に感服し、大層喜んで着ていた羽織を類子に与えたと伝えられています。おそらく家康は「その方に褒美を取らす、何なりと申してみよ」と言ったのでしょう。類子はすかさず「ルソンへのご朱印状を頂戴つかまつりとう御座います」と言ったのではないでしょうか。

朱印状は日本政府公認の証であり、相手国は記載された船主に対し安全の保障と最大の便宜を図らなければなりません。また類子に対するルソン政府の信用度が格段にあがります。
類子はここぞとばかりに家康におねだりした事でしょう。

ここが家康の食えないところで、類子に朱印状の下賜を快諾し、同時に外交官としての役目を命じました。幕府が正式の使者をルソンに送るには莫大な費用が掛かりますが、類子なら喜んで自費で使者の役目を果たしてくれる訳です。さらに朱印船貿易での莫大な利益の一部が幕府の懐に転がり込むという次第です。喜前はこのやりとりを見て、苦笑いをしたのではないでしょうか。

キリスト教や宣教師を領地から排除しようと試みている喜前が、切支丹の類子と組んで、スペイン人支配下のルソンとの貿易を行うとは到底考えられません。類子は度々朱印状を下賜され貿易を行いますが、それは類子個人の商いであって、喜前(大村藩)との関係は希薄であったろうと推測しています。またキリスト教排斥を断行する喜前に対し、類子が何らかのわだかまりを持っていた事は否めないでしょう。

家康の死後日蓮宗に改宗し、名を宗真と改めた類子に対し、(喜前も家康と同じ年に亡くなります)大村市史は「大村氏は彼の財力に期待して御用商人として登用することになるが、類子は大村氏との間に距離をおくかのように堺に転住したようである」と記述しています。この距離感こそが、生前の喜前と類子の関係を如実に表しているのではないでしょうか。

喜前の従兄弟でもある日野江藩藩主、有馬晴信は自ら船主となって朱印船貿易を盛んに展開します。慶長14年(1609)、マカオで晴信の朱印船の乗組員がマカオ市民と争いになり、乗組員と家臣あわせて48人が殺されるという事件が発端になって、「ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件」、「岡本大八事件」と次々に事件を起こします。晴信は幕府の裁定によって甲斐の国に流され、切腹を申し付けられます。岡本大八、有馬晴信ともに切支丹であった事から幕府はキリスト教の禁教令を出して諸大名に棄教を迫ります。

喜前の藩政は、宣教師の弊害だけに限らず、海外貿易のリスクをも予見していたかのように思えてなりません。真に賢明な藩主であったようです。



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Vol 47 大村藩の対外貿易と西類子 その1

2018年07月12日 | 江島氏


狩野内膳 南蛮屏風 - リスボン国立古美術館


大村氏の海外貿易に関する記述を大村市史から拾ってみますと。


●天正期の大村氏の対外貿易 

大村市史 近世編 第一章
幕藩体制の成立と大村藩より引用


大村氏は天正八年四月二十七日(一五八〇年六月九日)付の譲り状によってイエズス会に長崎と茂木を寄進して長崎内町の統治と司法を同会に委ね、自らは長崎港に関する関税と入港税を保有した。

ルセナ神父のヴァリニャーノ宛一五八七年三月十二日付、大村発信の書翰によると、大村氏はイエズス会を介してマカオのアルマサン貿易に参加して生糸を調達していた。ルセナは喜前から四〇タエス(両)の銀を託されて一五八六年にマカオに送った。日本イエズス会がマカオ市との間にアルマサン契約を結んでマカオ・長崎間の生糸貿易に参加したのは、巡察師ヴァリニャーノが一五七八年にマカオに来てからのことであった。

大村氏の生糸貿易への投資は、同氏がイエズス会に長崎を割譲した以後のことと思われるが、一五八六年のみの投資であったか否については明確でない。管見ではルセナの記事のみである。秀吉が長崎内町を収公したため、大村氏のイエズス会仲介によるマカオへの投資は継続しなかったように思われる。

(引用終了)

●慶長期の大村藩

秀吉が長崎を直轄地としたことによって、大村氏の関税収入は途絶えてしまいます。天正15年(1587)キリシタン大名で知られる、父大村純忠の死によって家督を相続した喜前(よしあき)は文禄・慶長の役に出陣しました。

帰国した喜前は城の整備や領内の治世に力を注ぎます。慶長四年(1599)に行った検地によると石高21,427石4斗で、藩権力の基盤となる蔵入地(直轄地)は僅かに4,454石余しかなく、しかも70㌫は「地方」地区に集中していました。4,454石といっても農民の取り分がありますから、五公五民としても、実収入はわずかに2,200石あまりで、これでは領国経営どころか本家と庶家の統制もままならぬ有様でした。

高禄を食む庶家の中には喜前の方針に従わぬ者もいて、庶家一門の存在自体が、大村藩の家臣団統制はもとより、在地支配にまで影響を及ぼしました。
秀吉の時代から打ち続く中央政権への役負担、更に長崎貿易の利潤を失うなかで、慶長12年(1607)、喜前は庶家一門の領地を召し上げ、追放するという「御一門払い」を断行しました。これによって藩石高の36%にあたる6,684石が収公されています。
しかしながら幕府の諸役負担などによって、大村藩の慢性的な財政難が緩和される事はありませんでした。


●慶長期の大村氏の対外貿易 


大村市史 近世編 第一章 幕藩体制の成立と大村藩より引用

大村氏がマカオへの投資以外に、直接貿易に関与することはあったのであろうか。大村氏に関係ある者として異国渡海の朱印状を幕府から発給された者は西宗真類子と江島吉左衛門のみである。江島は慶長十五年正月二日に暹羅、同二十五日に柬埔寨国渡海の朱印状を拝領した。彼は「大村丹後守之内」、「大村内」、「家人」と記載され、それ以上のことは分からない。

西宗真は、寛永二十一年極月十五日付の「由緒書」で、自らは肥前国大村に居住して大村丹後守に従い、父宗源は「代々筋目有ニ付御領内大浦与申所ニ而七百石之地為御合力被下之候」という。また彼は丹後守が呂宋国の事情に精通した者として権現様(家康)に言上したため、慶長十二年六月にその様子を申し上げたことにより呂宋渡航の朱印状を拝領した。彼は元和三年から呂宋に渡海せず、同二年に堺に家屋敷を求めて同六年から転住した。岩生成一『新版朱印船貿易史の研究』によると、彼は慶長十二・十六・十七・十九年、元和元・三年の六回朱印状を発給された

なお、フィリピン総督宛と思われる「慶長十年九月十三日御印」が、翌日「呂宋通事ニシ・ルイス」に渡されている。フアン・ヒルは『イダルゴとサムライ』において、「カピタン・ルイス・ギンモ」、「ルイス・メロ」を両類子に比定している。同書によると、彼の最初の呂宋渡航は一五九九年、一六〇三年には鉄・鉄製品をマニラにもたらし、一六〇九年には馬の尾毛、翌年には鉄釘類と銅を運んだ。フィリピン総督府会計官は一六一七年に彼宛の支払命令書を作成した。彼は御用商人として鉄の納入をほぼ独占していた。その頃には彼は渡航せず、代理商人を派遣してあらゆる商品の輸出入にかかわっていた。

類子は一五九九年にマニラに船長として渡航し、一六〇五年には「呂宋通事」として幕府とフィリピン総督との橋渡し役を担っていた。一六一〇年前後にはマニラに居住して総督府の信任を得、また人脈を作って商活動の基盤を固めたようである。一六一七年には彼の代理の船長及び商人が渡航したが、彼はこの航海のために投銀六〇〇〇貫を借入れていた。一六二〇年に堺に転住した類子は、寛永年間大村氏の御用商人を務めていた。

彼の父が大村氏から「御合力として七百石」を大浦の地に拝領したことは、武士としてではなく恐らく商人として大村氏を援助していたのかも知れない。息子類子は父を継いでマニラ渡航船の船長兼商人としてその才覚を発揮し、呂宋貿易でその基盤を築いた。総督府やスペイン人官吏や日本町ディラオの日本人たちの信用を得ていたようである。

マニラ貿易における成功とその海外に関する知見は大村氏の評価するところであり、幕府とフィリピン総督府との仲介役への道を拓いた。大村氏は彼の財力に期待して御用商人として登用することになるが、類子は大村氏との間に距離をおくかのように堺に転住したようである。大村氏が直接朱印船を艤装して貿易に関与することはなかったようである。(五野井隆史)

引用終了


朱印船貿易に興味がある方は、大正時代に書かれた「朱印船貿易史」 著者: 川島元次郎を是非ご一読ください。この本には朱印船貿易を行った船主の列伝があり、西類子についても詳しく述べられています。グーグルブックスや国会図書館デジタルコレクションで読む事が出来ます。

西類子は徳川家康に重用されたことや、引退後南蛮貿易に関する諸物を菩提寺に寄進した事によって、記録が後世に残り、活動の様子が良く分かります。類子の足跡や大村藩との関係を知る事によって、吉左衛門の朱印船貿易の背景が伺えます。そこでもう少し西類子について補足したいと思います。


●西類子(西宗真)

前述の「朱印船貿易史」によりますと。西類子(にしるいす)は肥前大村藩士の父、西宗源の時代より、大浦に700石を領し、元の名は「九郎兵衛」。若い頃より海外に興味を持ち、一族で船を仕立て文禄・慶長の頃ルソン(マニラ)に度々渡海し、また長期に渡って滞在したようです。

当時のルソンはメキシコ(ヌエバ・エスパーニャ)の植民地であり、実質はスペイン人の支配下にありました。キリスト教を信じぬ異教徒には商業活動においても差別的な待遇がなされていた為、西は改宗し、その名を「類子(るいす)」と改めます。その結果、市民や総督府の信頼を得るようになりました。

慶長10年(1605)ルソンからのマニラ総督の書簡を持ったスペイン船が長崎に入港した際に、通訳を務めます、慶長12年(1607)、ルソンに興味を持った徳川家康への西類子引見の橋渡しをしたのが大村喜前でした。

類子のルソンに関する海外事情の知識は豊富であった為、家康は大層喜び、ルソン渡海の朱印状を与えます。またルソン政府への外交官的な役割を与え、交渉事に当たらせるだけでなく、商業的な特権も与えます。例えば当時朱印船は長崎を出港して長崎に寄港することが原則でしたが、類子には何処の湊に寄港してもお構いなしの異例ともいえる朱印状を与えます。類子はマニラを本拠に日本との貿易を行いますが、慶長17年(1612)に帰国し、本拠をルソンから長崎に移します。

元和2年(1616)に家康が亡くなった事を契機に、商売の第一線から身を引き、幕府の禁教令など切支丹に対する規制が強化されるに従って、元和3年(1617)には海外貿易を止め、日蓮宗に改宗してその名を「西宗真」と改めます。そして元和6年(1620)には堺に転居してしまいます。

大村喜前はドン・サンチョという洗礼名を持つキリシタンでしたが、慶長11年(1606)に加藤清正の勧めを受けて日蓮宗に改宗します。その後は過酷なキリシタン弾圧を行います。喜前は元和2年(1616)に48才の若さで亡くなりますが、一説には恨みを持つキリシタンによって毒殺されたとも言われています。

機を見るに敏であった類子は、最大の理解者であり支援者であった徳川家康の死去によって、切支丹である自分の立場が大きく変化する事を予見していたに違いありません。

続く


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Vol 46 江戸初期の江島氏の動向と朱印船貿易

2018年07月09日 | 江島氏

朱印船 (末次船)


●博多から長崎へ 

秀吉の唐入り(文禄・慶長の役)で対馬江島氏は従軍通詞として朝鮮の地と名護屋城で活躍しました。秀吉の死によって唐入りは中止されましたが、対馬江島氏にとって存亡にかかわる重大な事態が発生します。それは明や朝鮮との国交断絶による貿易活動の停止でした。

対馬藩は10万石と言われますが、あくまで格式が10万石であって、島内での作物の実高は1万石足らず、九州の飛び地の領地を合せても2万石余りでした。対馬藩の財政はその大半を朝鮮半島との貿易による収益に依存していました。しかし秀吉の唐入りによって朝鮮、明国との国交は断絶し、貿易活動は停止してしまいます。この事態は対馬藩にとっても対馬藩の御用商人、江島氏にとっても死活問題でした。

対馬藩は終戦の翌年、慶長4年(1599)には、使者の派遣を行い朝鮮との貿易再開の手立てを講じます。しかし使者が殺害されるなど交渉は暗礁に乗り上げてしまいます。以後、対馬藩は様々な手を打ちますが、慶長14年(1609)の己酉約条(きゆうやくじょう)の締結まで再開の目途は立ちませんでした。

一方博多の街は、唐入りの頃は名護屋城の兵站基地として戦時景気に沸き、繁栄は絶頂期を迎えます。島井宗室、神屋宗湛、大賀宗伯などに代表される博多豪商達が活躍し、未曽有の繁栄を謳歌しますが、戦争特需も無くなり、やがて衰退へと向かっていきます。その大きな理由は明や朝鮮との国交断絶による貿易活動が停止した事。さらに南蛮貿易に移行しようにも、博多港の水深が浅いために喫水の深い南蛮船の入港が出来なかった事にありました。

そして、その博多にとって代わったのが長崎でした。
元々長崎は大村氏配下の長崎氏の領地でしたが、大村純忠の時代にイエズス会に寄進されてしまいます。秀吉は長崎を重要拠点と考え、イエズス会から取り戻し、直轄領としました。徳川幕府もその方針を受け継ぎます。

博多や堺の豪商達が次々と長崎に居を移し、長崎は一躍海外貿易の中心港となってゆきます。長崎に移住する人々は年々増加し、肥前はもとより筑前、筑後、肥後からの移住者達で賑わいを見せます。一大消費都市となった長崎は海外貿易だけでなく、国内交易においても魅力的な場所となりました。この様な社会的状況から、対馬の江島氏も長崎に活動拠点を移したのではないかと推察しています。


●長崎から筑後へ 筑後から長崎へ、

豊臣政権は唐入りの功として宗氏には肥前田代領(現:鳥栖市、基山町)を与えます。米が殆どとれない対馬藩にとって田代は文字通り重要な米櫃でした。また田代で収穫する米だけでは対馬の人々の胃袋を満たす事は出来ず、筑後や肥前の豊かな米が頼りであった事も伺えます。

後世の対馬藩田代代官所の記録などを見ますと、対馬の商人たちが田代を訪れていた事が分かりますし、その中には江島姓の人物も見受けられます。朝鮮貿易が中断する中で、対馬と長崎、筑後を結ぶ商業ルートの確率は対馬江島氏にとって必須かつ必然であった事でしょう。

徳川政権の世となり領地の支配権を失い、年貢収入を失った元国人領主、筑後江島氏にとっても、商業活動によって一族郎党の存続を図る事は必然でありました。江島村と田代村は筑後川で結ばれ、目と鼻の先の距離です。両江島氏の交流は頻繁となり、益々協力関係は深まって行ったことでしょう。おりしも田中吉政の柳河藩は長崎との交易を盛んに行う姿勢を見せていました。利害を共有する筑後と対馬の同族同士が協力し合って積極的に商業活動を行った事は想像に難くないでしょう。


筑後江島氏と大村氏の関係は何時頃から始まったかは不明ですが、私の想像では大友氏と袂を分かった頃から肥前大村領との交易が始まり、文禄・慶長の役で対馬江島氏とともに大村喜前との関係が深まったと考えています。対馬江島氏の過去記事で、文禄の役では「大村喜前」が所属する第一軍に「江島彦兵衛」が専属通詞としていた事と、名護屋城には七人衆の専属通詞として「江島喜兵衛」がいた事をご紹介しました。

対馬江島氏が朝鮮の役を契機に喜前や名護屋城詰めの大村氏家臣と昵懇となっても不思議はありません。また対馬江島氏からの働きかけにより、筑後江島氏が大村氏の後方支援に一役買ったのかもしれません。

同じく過去記事で筑後江島氏には「江頭」姓を名乗る家臣がいた事をご紹介しました。筑後の江頭氏は家紋は筑後江島氏の家紋と同じ「丸に四ツ目」であり、出自は大村氏の家臣とされています。

江頭氏は元は佐々木氏の家臣で琵琶湖の近くの江頭村を本貫とし、水軍の一員であったようです。肥前に移ってからは大村喜前(おおむらよしあき)に家臣として取り立てられます。
大村氏の家臣が何らかの事情によって筑後江島氏の家臣となる事は、大村氏と江島氏の深い関係を示唆しているように思えるのです。


●九州大名の台所事情

文禄・慶長の役は九州在住の大名に過酷とも言える経済的負担を与えました。終戦後の九州諸大名の疲弊ぶりは並大抵なものでは無かったでしょう。慶長期の朱印船貿易の船主名には9名の大名の名前が見られますがそのうち8名が九州の大名で、朝鮮の役に出兵しています。

その名を列記しますと、島津忠恒、松浦鎮信、有馬晴信、細川忠興、鍋島勝茂、加藤清正、五島玄雅、竹中重利、亀井茲矩です。亀井茲矩は唯一山陰の大名ですが水軍を率いて朝鮮で戦っています。

ちなみに加藤清正は慶長12年から14年にかけて3回。鍋島直茂は慶長10年から12年までに3回。有馬晴信に至っては慶長10年から12年までに6回も朱印船貿易を行いました。これらの大名は疲弊した藩の財政を立て直す意味で、一回の航海で巨大な利益を上げる朱印船貿易は有効と見ていたにちがいありません。

大村氏も台所事情は同様であったにちがいありませんが、自らが船主となる事は有りませんでした。江島吉左衛門と共に大村藩が関係した朱印船貿易にもう一人の人物がいます。その名を「西類子(にしるいす)」と言います。類子は洗礼名です。西類子もルソンとの数度の朱印船貿易を行っていますが、朱印状の船主名は大村喜前ではなく、西類子本人となっています。

何故、大村喜前は朱印船船主とならなかったのか、何故、筑後江島氏が船主となり、大村瓜「五つ木瓜に剣唐花」を下賜されたのかの考察は次回で。



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Vol 45 田中吉政と江島氏

2018年07月07日 | 江島氏

田中吉政肖像


●関ケ原以後の江島氏

「慶長5年関ケ原の戦いの東軍勝利によって、事実上豊臣政権は滅び徳川政権の時代へと移ります。それまでの立花宗茂の筑後支配は国人領主達に寛容でありましたが、鎌倉以来400年に渡って認められてきた国人の支配権は消滅し、どこかの家中に仕官するか、武士を捨て、帰農するか町人になるかの選択をしなければなりませんでした。

徳川政権は領国支配において、豊臣政権の「土地は公儀の所有するものであり、大名とて公儀から領地支配を委託されているだけである」という方針を踏襲します。農民もまた土地の耕作権は認められても、所有権は認められませんでした。(後に百姓の土地私有権は認められます)

立花宗茂は人物的に優れ、血統と器量も申し分ありません。また元は大友氏の家臣ですから、仕官をするなら宗茂と密かに江島氏は考えていたかもしれません。しかしその望みも絶たれてしまいます。

●田中吉政と柳河藩

宗茂に代わって慶長5年(1600)に筑後に入部した田中吉政は、近江国の三川村または宮部村の出と言われ、宮部村の国人領主である宮部継潤に仕えた記録があります。一説には農民の出身とも言われています。

後に秀吉に見いだされ、秀次の家臣となり三河国岡崎城主として5万4000石の大名となります。秀次、自害の際も重臣10名が賜死となる中で、処分を受ける事も無く「秀次によく諌言をした」という事で逆に加増されて10万石取りとなります。秀吉から如何にその才能と手腕を認められていた証でしょう。関ケ原の戦いでは東軍に味方し、石田三成を捕縛した功で筑後一国を与えられます。

10万石から32万5000石への大出世ですから、家臣団も相当な数を増員しなければならず、浪人となった筑後国人領主達への積極的な勧誘があったのではないでしょうか。

しかしながら、江島氏が仕官の働きかけをした痕跡は見られず、現存する田中家の分限帳にも江島姓の名はありません。(※田中家には1万石を超える大身の家臣が何人もいたくらいですから、陪臣として仕えた人物はいたかもしれません)

●田中吉政家臣団と後継者

田中吉政は秀吉や家康の信頼も厚かった事が示すように、大名としての手腕もあり、後世の評判もさほど悪くないことから、優れた人物であったようです。
しかし、義の人立花宗茂は「朋友の石田三成を売った男」と吉政の事を快く思っていなかったようです。

江島氏も同様で、筑後武士にとって、近江人の合理的な考え方や生き方は受け入れがたいものであったのかも。さらに、「一代で大出世した家が長く存続した例はない」と見ていたのではないでしょうか。家康が苦労の末に天下をとれたのも、かつて前例がない、旧領地への奇跡の復活を遂げた宗茂も、本人の器量と才覚だけで成し遂げた訳ではありません。先祖代々仕えてきた譜代の家臣達の忠誠心溢れる献身的な支えがあったからでしょう。

惜しむらくは豊臣家も田中家も主君を支える強固な絆で結ばれた譜代の家臣団が存在しませんでした。

さらに、俄か造りの寄せ集め家臣団は全体としてまとまりに欠けるのですが、派閥を形成ししばしば内輪もめを起こします。後に久留米藩主となった摂津有馬氏も同様に、戦国期に次々と加増と転封が繰り替えされ、その都度家臣を増やしたため、新旧の家臣が何派にも分かれて対立し、藩政の足を引っ張る事態を招きました。

また、田中吉政の息子達の評判も芳しくなく、田中柳河藩の未来に疑問を抱いていたのではないでしょうか。長きに渡り武門の栄枯盛衰を見続けてきた眼には危うく映ったに違いありません。また海のネットワークを通じ、江島氏は新領主、田中吉政とその一族の情報を収集し、的確な分析をしていたのではないかと思います。「田中氏は主家としては相応しくない」それが、江島氏の結論であったようです。

事実、江島氏の所見は現実となりました。
嫡男吉次は父吉政と不和になり、柳川を逐電,廃嫡となります。久留米城主となった次男吉信は家臣を手打ちにする悪癖があり、一説には返り討ちに会い若くして死亡したと言われています。三男義興は病弱であり、四男の忠政が家督を継ぎます。

2代藩主忠政は大阪冬の陣では徳川方につきますが、夏の陣では徳川方につくか、豊臣方に付くかで家臣間で内輪もめがあり、参陣に遅参するという大失態をしでかします。一説では過剰な土木工事で財政が窮乏し、軍勢の編成が間に合わなかったとも言われています。

さらに追い打ちをかけるように、三男義興が「忠政が豊臣方につこうとしている」と徳川に訴え出るという事件もあり、幕府の更なる不興を買います。
忠政には嫡子が無かった為、忠政が亡くなると、無嗣断絶により改易となります。柳河藩改易のもう一つの理由として、父吉政と忠政はキリスト教に興味を持ち、宣教師の布教を許し、切支丹を手厚く保護します。幕府の禁教令下での驚くべき行動が命取りになったとも言われています。時に元和6年(1620)。吉政入部以来僅か20年の短い治世でした。

●筑後と長崎

田中吉政は無類の土木好きだったと言われますが、新領地柳河においても水運や稲作のための用水路の整備や、柳川と久留米を結ぶ街道(現県道23号線)や柳川と八女を結ぶ街道を作るなど、陸路の整備にも力をいれました。また、矢部川の護岸整備。有明海沿岸に慶長本土居と呼ばれる堤防の整備。さらに農地の拡大を計画し有明海の干拓を積極的に行いました。

関ケ原の功で家康から新たな加増を受けるとき、あえて吉政は遥か西国の筑後を望みました。「筑後は有明海の干拓で更なる領地の拡大が望めるから」というのが理由だとされていますが、有明海に面した地の利を生かし、海外との貿易をも視野に入れていたのではないでしょうか。

吉政支配下の筑後は多くの切支丹を受け入れており、教会の建設や布教を公認するなど、宣教師たちにとって吉政は良き理解者として広く知られていたようです。度が過ぎた切支丹への入れ込みようも、南蛮貿易への強い願望の現れであったように思われます。

吉政は土木事業を推進するだけでなく、長崎との交易を積極的に行った様子が伺えます。当時、長崎は南蛮貿易の窓口として、博多に勝る賑わいと繁栄を迎えていました。日に日に拡大する長崎の町には筑後から多くの商人が移り住み、筑後町の町名に見られるように、一つの町を形成するほどでした。

長崎の住人達の胃袋を満たす食料や様々な生活物資は筑後の湊から積み出されました。土木事業はとにかく費用が掛かります。田中柳河藩にとって長崎との交易は重要な収入源となっていたようです。

続きは次回に。


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