■江島村・四郎丸村の石高
●江島村
文禄4年(1595)の筑後国知行目録で高449石余、葭方370石余、石高合わせて819石6斗6升(立花文書/県史資料4)
本高640石余(元禄国絵図、元禄14年)
「在方諸覚書」では古高720石、役高477石余。
文化4年(1807)畝付帳では本田23町7反余、開田1町6反余、田畑1反余、畑1町3反余、居屋敷三反余、他に七島(葭場)2反余。
旧高旧領取調帳(明治初期)では高757石余。
●四郎丸村
本高317石余(元禄国絵図)
「在方諸覚書」では古高530石、役高440石余。
文化4年(1807)畝付帳では本田23町2反余、開田3反余、田畑1反余、畑9反余、居屋敷3反余。
旧高旧領取調帳(明治初期)では高539石余。
●参考:青木島村
本高494石余(元禄国絵図)
「在方諸覚書」では古高530石、役高512石余。
文化4年(1807)畝付帳では本田21町5反余、開田7町2反余、田畑4反余、畑9反余、居屋敷4反余。他に七島(葭場)1町2反余。
旧高旧領取調帳(明治初期)では高682石余。
■複数あった写し、「大友幕下・筑後領主附」
筑後江島氏の資料として最も知られているのは「筑後領主附」に「江島遠江守居同江島、23町3反」「江島太郎」の記載でしょう。
この「筑後領主附」は、久留米藩士「矢野一貞」(1794-1879)著の「筑後将士軍談」に収録されています。一貞は天保から嘉永にかけて著述を始め、見聞した遺物・文献・資料を筆写し、全五十六巻にまとめたものです。慶応三年(1867)一貞73才のときに完成し、藩主に献本しました。
この「筑後将士軍談」は大正期に「筑後国史 ・筑後将士軍談」(全三巻)として出版されたものが国会図書館デジタルコレクションで閲覧できます。筑後領主附は同コレクションの「筑後国史 ・筑後将士軍談」中巻のp489-p492に掲載されています。
冒頭に一貞の注があり、「この領主附は一本は宮原長左衛門家蔵、一本は夜明村、田島家蔵で巻末に天正6年(1578)三月二日之を写すとある。内容に少し違いがあり、両本を合記する。また上妻の磯哉家蔵の一本には天正6年三月と書かれ、「大友幕下、筑後領主附」と書かれている」とあります。
領主附にはオリジナルがあり、一貞が見たのはいずれも写しで、内容はそれぞれ小異があったようで、それらを一つにまとめて記載し、注釈を書き加えています。
江島遠江守には「少弐末中関白」と注釈があります。筑後江島氏は肥前高木氏の庶流で、藤原隆家を祖とします。中関白とは隆家の父、関白藤原道隆をさします。また江島氏は少弐氏の末とも言っていたようです。高木宗家ならびに庶流は高木党として少弐氏に仕えました。
当然江島氏も少弐氏に仕えましたが、高木宗家の弱体化と共に少弐氏から養子を迎えるなど、少弐氏との結びつきを強めていったようです。家系に血統を重んじる考え方は、江戸期以降のものであり、中世ではその考えが薄かったようです。
豊前江島氏も戦国末期に宇佐氏(宇佐神宮大宮司家)から養子を迎え、宇佐姓江島氏を名乗った事からも、伺い知れます。
さて、「江島太郎」には注釈で「廿以下隅」とあります。二十と書かれているがその後は空白と言う意味でしょうか。さらに領主附を見ていくと、p492にもう一度「江島太郎」の名があり、「江島太郎二十三町三反領す」、そして注釈に「江島住」とあります。
さらに「開基帳、江島村坂本社件に、江島美濃再興」と「久留米藩寛文十年社方開基」の記述を加えています。
■オリジナルには「江島遠江守23町3反、江島太郎23町3反」と記載
この事から、本来は、「江島遠江守23町3反、江島太郎23町3反」と書かれていたことが推察できます。前述の文化4年(1807)畝付帳の江島村、本田23町7反余。同じく文化4年畝付帳、四郎丸村、本田23町2反余の記述と数字がほぼ合致します。
筑後江島宗家の本貫は江島村、四郎丸村合わせておよそ50町であったと思われます。
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