『江島氏物語』 

歴史推理ブログ「筑後江島氏とその庶流」
    通史に無い歴史物語

Vol 49 暹羅に於ける朱印船貿易と貿易額

2018年07月22日 | 江島氏

暹羅の日本人兵士


●朱印船の貿易家

朱印状を発給された船主名から岩生成一氏は著書「朱印船と日本町」で朱印船貿易家を次のように分類しています。

1.大名  10氏(大村氏は含まれず)
2.武士・幕吏  4氏
3.商人と推定される者 65氏  
4.女性 2氏(家康の側室と商人の妻)
5.琉球人  1氏
6.在留シナ人11名
7.在留欧州人12名

朱印船開始から鎖国に至る間にのべ355隻が渡海しています。
江島吉左衛門は商人のうちの一人に分類されています。
日本人の朱印船貿易家のうち居住地や出身地の分かる者60人の内訳は、九州32氏、京・堺・大坂24氏、因幡、江戸、琉球、暹羅各1氏、不明22氏、合計82氏とされています。


●暹羅(シャム)に於ける朱印船貿易

暹羅に於ける朱印船貿易も、主としてその首府アユタヤを中心として行われました。朱印船は晩秋か初冬に長崎を出帆し、順調な航海の場合、季節風の北風に乗って35〰36日でメナム河の河口に到着しました。   
※日本〰東埔寨(カンボジア)間は57日。(メコン河遡行に80里を要す為)

到着後直ちに河を遡ってバンコックに達し、知事か港務長の元に出頭して、国王に謁するために艀(はしけ)を借り受けて、献上品を積み込み国都アユタヤまで河を遡航することを要請します。当時はすでに多くの日本人が現地に移り住んでおり、日本人町を形成すると共に官吏として採用される者も多く、日本船の入港手続きを担当しました。
朱印船の場合は朱印状を検査し、これを国王に伝え遡航の諾否を決定しました。後に山田長政も奉行として入港船の検問を担当した事があるようです。

メナム河を遡航すること9日目にアユタヤ郊外に達し、国王や高官達に贈り物を持って謁見しました。

またアユタヤの日本人町の頭に挨拶をして商売の便宜を図ってもらいました。当初はオークブラ純広という日本人が頭でした。「オークブラ」というのはアユタヤ王家から授爵された冠位で、上位からチャオピヤ、オークヤー、オークブラ、ルアン、クンの五階級ありました。純弘の次は津田又右衛門、続いて白井久右衛門が日本人町の頭となり、その後に山田長政の時代となるわけです。長政はオークヤー・セーナーピムックの称号が与えられました。

江島吉左衛門は国王に拝謁したのでしょうか。また当時の日本人町の頭は誰であったのでしょうか。ちなみに吉左衛門が渡海した年には、まだ山田長政は渡海をしておりません。

翌年春ごろまでに、日本人町の住民の協力を得て商品を売り捌き。鹿皮、鮫皮、蘇木や鉛などの現地の生産品や支那船のもたらす生糸の買い付けを行いましたが、集荷、鑑別、荷造り、積み込み等一切は在留日本人の手によって行われました。暹羅における貿易活動はオランダ人の貿易組織をもってしても、在留日本人の協力無くしては円滑有利に運ぶことは出来なかったそうです。

こうして数か月の滞在の後、季節風の南風に乗って帰国の途につきました。中には商品が揃わず、1年以上、現地に滞在する船もあったそうです。吉左衛門の暹羅、柬埔寨への渡海は二隻をもって行われたと思われます。もう一隻の船長は誰が務めたのでしょうか・・・。


山田長政 肖像


●朱印船の貿易額

では朱印船の貿易額はどの位であったのでしょうか。前述の岩生成一氏は著書の中で外国船による輸入額と対比して、次のように分析しています。貿易額とは積み荷の売り上げ総価額であり、利益率はおよそ100%、つまり仕入れ額の2倍で売れたという計算です。また船の借料や乗組員の人件費や滞在費等の諸経費を除いても利益率は100%確保できたようです。

【年平均貿易額】  価格は銀で計算
朱印船   15,800貫目・・・・15隻

【年平均輸入額】
支那船    12,444貫目・・・・52隻
ポルトガル船 15,000貫目・・・・3隻
オランダ船   4,857貫目・・・・9隻

朱印船1隻の貿易額は1,000貫目で、オランダ船の倍額、支那船の4倍半となります。
また当時は貿易の決済は銀で行われており、世界中の年間銀産出額の3~4割を日本船によって海外に搬出されており、当時の世界の貿易に占める日本の位置は大変重要であったようです。


●朱印船一隻当たりの貿易額の価値

では朱印船一隻あたりの銀1,000貫目というのはどの位の価値があったのでしょうか。その当時の銀1貫目は現在の価値でおよそ125万円です。したがって12億5,000万円相当になります。現代の巨大化した経済社会では海外貿易額12億5,000万円はさほど多額とは思えません。そこで当時の米価で換算してみました。

慶長期の大坂での米相場では米一石の価格が銀20匁です。 1,000匁=1貫目ですから1,000貫目で買える米は50,000石になります。

朱印船1隻の貿易額は50,000石の大名の領地の年間総生産高と同等で、当時の年貢を五公五民とすれば、利益額は100,000石の大名の年間収入と同じという事になります。
吉左衛門が2隻の朱印船を出していたとすれば、一航海で2隻合わせてなんと200,000石の大名の年間収入に相当する商いを行った事になります。

親代々商人で長崎代官を勤め、密貿易に関係したとして、幕府によって斬罪となった朱印船貿易家、末次平蔵は財産を没収されます。その広大な屋敷と敷地を含まぬ、家具、調度、宝蔵の宝物の売却見積額が何と60万両(約600〰700億円)だったそうです。国持大名をも凌ぐ経済力に圧倒されてしまいます。朱印船貿易家の中でも平蔵は特別な存在であったでしょうが、海外貿易が如何に高い利潤を生んだかが容易に想像できます。


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