『江島氏物語』 

歴史推理ブログ「筑後江島氏とその庶流」
    通史に無い歴史物語

Vol 57 江島長兵衛 原城に死す 

2018年08月30日 | 江島氏

天草四郎(益田時貞)


●「長崎夜話草・原城記事」

江戸中期の長崎出身の天文学者に「西川如見 (忠英)」という人物がいます。八代将軍徳川吉宗の求めに、洋学について講じた事もあります。
多くの著作を残していますがその一つに「長崎夜話草」があります。「長崎夜話草」は明治期に出版されたものがデジタルコレクション化されており、誰でも読むことが出来ます。

戦前の大ヒット曲「長崎物語」の主人公「ジャガタラお春」の逸話の元となった「ジャガタラ文(ぶみ)」の紹介記事で良く知られた書物です。

この本には様々な文献をもとに「島原の乱」の顛末を書いた「原城記事」という章があります。実はこの「原城記事の巻之十二」「諸将圍城」の段で、寛文14年(1637)12月20日の第一次総攻撃の記事中に「江島長兵衛」なる名前を偶然に発見してしまいました。

長兵衛はこの戦いにおいて陣没(戦死)したと記載されており、他の柳川藩士名と共に紹介されています。

また「原城記事巻之十七」「死傷名士」では12月20日の攻撃で、立花忠茂家人、士分の者、死者28人、傷者69人の死者の一人として再度紹介されています。 この日の戦闘だけで柳川藩だけで、卒伍の者、死者84人、傷者203人を合わせて死者112人、傷者272人の犠牲者を出しています。


●江島長兵衛は江島長兵衛幸重か

私が驚いたのは、この「江島長兵衛」という名前は、過去記事でも一度紹介したことのある人物と同名だったのです。Vol 43 「柳河藩享保八年藩士系図」に見る江島氏で江島繁之丞の祖父吉左衛門幸親の兄「幸重」の通り名が「長兵衛」なのです。
幸重は系図においても血脈が途絶えており、子孫を残していません。
しかし、系図では長兵衛の死に関しての記述はありません。

柳川藩士江島家は繁之丞の父、庄次郎の代に藩士になっており、祖父吉左衛門や大伯父長兵衛の代は藩士ではありません。では、藩士ではない長兵衛が柳川藩士として原城攻防戦に参戦したのかを検証してみる事にしました。


★長崎夜話草
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766709
★島原の乱
https://ja.wikipedia.org/wiki/島原の乱

原城記事の原文は漢文で書かれていますので、菊池寛の著作「島原の乱」の一部を掲載いたします。12月20日の総攻撃の立花軍の様子や前後の事情が比較的詳しく書かれています。まずはこちらからご覧ください。



板倉重昌


■「島原の乱」菊池寛より 
 
※●の項目は私が追加したもので原文中にはありません。

(前略)

【板倉重昌憤死之事】

江戸慕府へ九州動乱の急を、大阪城代が報じたのは寛永十四年十一月十日の事である。大老酒井忠勝、老中松平信綱、阿部忠秋、土井利勝等の重臣、将軍家光の御前で評定して、会津侯保科正之を征討使たらしめんと議した。

家光は東国の辺防を寛うすべからずと云って許さず、よって板倉内膳正重昌を正使とし、目付石谷十蔵貞清を副使と定めた。両使は直ちに家臣を率いて出府した。上使の命に従うこととなった熊本の細川光利、久留米侯世子有馬忠郷、柳川侯世子立花忠茂、佐賀侯弟鍋島元茂等も相次いで江戸を立ったのであった。
 

●一揆軍、原城に立て籠る

さて天草から島原へ軍を返した四郎時貞は、島原富岡の両城を攻めて抜けない中に、既に幕軍が近づいたので、此上は何処か要害を定めて持久を謀るより外は無い、と断じた。

口津村の甚右衛門は、嘗つて有馬氏の治政時代に在った古城の原を無二の割拠地として勧め、衆みな之に同じたから、いよいよ古城を修復して立籠る事になった。口津村の松倉藩の倉庫に有った米五千石、鳥銃二千、弓百は悉く原城に奪い去られた。上使が有江村に着陣した十二月八日には、原城は準備整って居たのである。
 
城の総大将は勿論天草四郎時貞であるが、その下に軍奉行として、元有馬家中の蘆塚忠兵衛年五十六歳、松島半之丞年四十、松倉家中医師有家久意年六十二、相津玄察年三十二、布津の太右衛門年六十五、参謀本部を構成し、益田好次、赤星主膳、有江休意、相津宗印以下十数名の浪士、評定衆となり、目付には森宗意、蜷川左京、其他、弓奉行、鉄砲奉行、使番等数十名の浪士之を承った。

加津佐、堂崎、三会、有馬、串山、布津、有家、深江、安徳、木場、千々岩、上津浦、大矢野、口野津、小浜等十数ヶ村の庄屋三十数名が物頭役として十軍に分った総勢二万七千、老若婦女を合せると三万を越す人数を指揮した。
 

●諸大名出陣

上意をもって集る官軍は、鍋島元茂の一万、松倉重次の二千五百、立花忠茂の五千、細川光利の一万三千、有馬忠郷の八千を始めとして諸将各々兵を出し、城中の兵数に数倍する大軍である。上使重昌は、鍋島勢を大江口浜手より北へ、松倉勢は北岡口浜の手辺に、有馬勢はその中間に、立花勢は松倉勢の後方近く夫々に布陣した。


●第一次総攻撃

十二月十九日寄手鬨の声を揚げると城中からも同じく声を合せて、少しも周章た気色も見えない。重昌、貞清、諸将を集めて明日城攻めすべく評議したが、有馬忠郷と立花忠茂は共に先鋒を争うのを重昌諭して忠茂を先鋒と定めた。


二十日の黎明、忠茂五千の兵をもって三の丸を攻撃した。家臣立花大蔵長槍を揮って城を攀じて、一番槍と叫びもあえず、弾丸三つまでも甲を貫いた。忠茂怒って自ら陣頭に立って戦うが、城中では予てよりの用意充分で、弓鉄砲の上に大石を投げ落すので、寄手の討たれる者忽ち算を乱した。

重昌之を見て、松倉重次に応援を命ずると、卑怯の重次は、勝てば功は忠茂に帰し、敗るれば罪我に帰すとして兵を出そうとしない。重昌は忠茂の孤軍奮闘するを危んで、退軍を命ずるが、土民軍に軽くあしらわれた怒りは収らず、なかなか服しようとはせず、軍使三度到って漸く帰陣した。

大江口の松山に白旗多く見えるのを目懸けた鍋島勢も、白旗は単なる擬兵であって、勝気に乗じて城へ懸ろうとすると、横矢に射すくめられて、手もなく退いて仕舞った。
 


籠城軍が堅守の戦法は、なかなか侮り難い上に、寄手の軍勢は戦意が薄い為に、戦局は、一向はかばかしくない。温泉颪の寒風に徒らに顫え乍ら、寛永十四年は暮れて行った。


其頃幕府は局面の展開を促す為、新に老中松平伊豆守信綱を上使に命じ既に江戸を発せしめたとの報がなされた。この報を受け取った板倉重昌は心秘かに期する処あって、寛永十五年元旦をもって、総攻撃をなすべく全軍に命じた。


●第二次総攻撃

元旦寅の下刻の刻限と定めて、総勢一度に鬨を挙げて攻め上げた。三の丸を打ち破る事は出来たが、城中の戦略は十二月の時と同じく、弾丸弓矢大石の類は雨の如くである。卯の上刻頃には、先鋒有馬勢が崩れたのを切っかけに、鍋島勢、松倉勢、みな追い落された。

立花勢は友軍の苦戦をよそに進軍しないから、貞清之を促すと、「諸軍の攻撃によって城は今に陥るであろうが、敵敗走の際に我軍之を追わんが為である。且つ旧臘我軍攻撃に際しては諸軍救授を為さなかったから、今日は見物させて戴く事にする」と云う挨拶である。

一旦退いた松倉勢も再び攻めようとはしないので、重昌馬を飛ばして、「今度の大事、松倉が平常の仕置き悪しきが故である。天下に恥じて殊死すべき処を、何たる態である」と、詰問したけれども動く気色もない。

板倉重昌、石谷貞清両人の胸中の苦悩は察するに余りある。重昌意を決して単身駆け抜けようとするのを石倉貞清止め諫めると、重昌、我等両人率先して進み、諸軍を奮起させるより途はないと嘆いた。


●板倉重昌討ち死に

進軍して諸軍を顧みるが誰も応じようとしない。従うはただ家臣だけである。重昌その日の出立は、紺縅鎧に、金の采配を腰に帯び、白き絹に半月の指物さし、当麻と名づける家重代の長槍を把って居た。城中の兵、眺め見て大将と認め、斬って出る者が多い。

小林久兵衛前駆奮撃して重昌を護るが、丸石落ち来って指物の旗を裂き竿を折った。屈せず猶進んだ重昌は、両手を塀に懸けて躍り込まんとした時、一丸その胸を貫いた。赤川源兵衛、小川又左衛門等左右を防いで居た家臣も同じく討死である。

久兵衛重昌の死体を負って帰ろうとしたが、これも丸に当って斃れて果てた。伊藤半之丞、武田七郎左衛門等数名の士が決死の力戦の後、竹束に重昌を乗せて営に帰るを得た。重昌年五十一であった。

(後略)

次回に続く

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Vol 56 江上合戦・江島氏と安東氏の関係

2018年08月27日 | 江島氏



●江上合戦の死傷者

過去記事「Vol 42  江上合戦・筑後江島氏最後の戦い」において、筑後江島氏が立花軍の与力として参戦した事を白峰旬氏の研究論文を参考にして、ご紹介しました。「福岡県史 柳川藩初期 上下巻」に、その1次史料である「安東五郎右衛門尉合戦注文写」と「小野和泉守合戦注文写」が掲載されています。

「安東五郎右衛門尉合戦注文写」では、論文で触れられていなかった、戦死者之衆の中に二人の江嶋姓の武士名を発見しました。やはり戦いで命を落とした一族がいたのですね。被疵衆とともに名前を列記します。

【戦死者之衆】
 
 江嶋市郎
 江嶋又太郎

【被疵衆】

 江嶋善兵衛
 江嶋孫六
 江嶋善九郎

※家臣名、中間名は特定できず


「小野和泉守合戦注文写」では

【被疵衆】

 江嶋彦右衛門尉(鉄砲疵)

※多数の死傷者名はあるが他に江嶋姓は見当たらない。
また家臣名、中間名は特定できない。


このように史料を読み返してみると安東五郎右衛門の与力として参戦した江島氏の主体は主家を失った元蒲池家家臣の江島氏ではなく、江島村の江島宗家ではないかと思えるようになりました。

江嶋彦右衛門の小野和泉守との関係は、記録で見る限り、文禄・慶長の役から関ケ原の大津城攻め、江上合戦に至る迄終始一貫して、与力として行動を共にして来たことが伺えます。

彦右衛門が和泉守の手の者となった経緯は不明ですが、和泉守が蒲池城主となった事が一番の要因でしょう。また小野和泉守は立花道雪に仕える前は大友氏の直参でした。同様に江島氏も大友氏の直参でしたから、古くから見知った関係であったかもしれません。

江島氏が立花宗茂の家臣に正式に取り立てられる為には、武功をあげる事が必要条件であり、立花氏の家臣団の中でも勇猛随一の人物として、数々の戦功をあげた小野和泉守の手の者として行動することは、最も早道であったと推察できます。彦右衛門が江島氏存続のキーパーソンとして小野和泉守を選んだとしても何の不思議はありません。


●江島村の知行主は誰

では江島氏と安東氏の接点はどこにあったのでしょうか。その答えも「福岡県史 柳川藩初期」にありました。私が直感的に感じていた理由は、安東氏が江島村の主たる知行主ではなかったかと言う理由です。

「久留米藩寛文十年社方開基」にある江島村の坂本神社を再興した人物に「十時摂津(連貞)」とありましたが、十時連貞と江嶋氏との密な関係を感じさせる記事は全く見当たらないのです。

「久留米藩寛文十年社方開基」の信憑性には疑問を感じていましたので、江島村の知行主が判る史料をさがして見ますと・・・


★下巻のp401〰p402「立花親成(宗茂)知行宛行状写」に文禄5年の日付で、三潴郡内、江嶋村501石余、高津村180石余、山門郡塩塚村17石余、合計700石とあります。そして宛名は「安東摂津介」です。


★「安東摂津介」の他の知行記録を調べてみますと、p396に天正15年8月、三潴郡8か所、山門郡3ヶ所 合計19町4反とあります。但し三潴郡の知行地の中には江島村は含まれていません。

★続いてp401に文禄2年8月、朝鮮役の功により13町を加増され、計50町3反28歩とあります。宛名は「安東津介」とありますが、津介は摂津介と同一人物と見られています。またこれには知行地名の記載はありません。

★文禄4年に行われた太閤検地では、江島村の総石高は819石6斗6升とされており、翌5年には安東摂津介は江嶋村に501石余を知行していた事になります。

立花宗茂は領国支配において家臣への分轄知行を行い、家臣の力が一定地域に集中する事を防いでいました。江嶋村残りの318石は誰が知行していたのかは不明ですが、安東摂津介が主たる知行主と見て間違いないでしょう。以上の史料から読み解くと、江島村と安東氏との関係は文禄期から始まったであろうと思われます。


●安東五郎右衛門と安東摂津介の関係

安東摂津之介と江島氏が与力した安東五郎右衛門との関係を見てみましょう。

安東五郎右衛門こと「安東範久」は安東家栄の弟になります。

安東摂津介(津介)こと「安東幸貞」は安東家栄の四弟で、二人は兄弟です。しかも五郎右衛門に男子がなかったのか、摂津之介は五郎右衛門の養子になっています。二人は実の兄弟であり、義理の親子という関係なのです。

安東五郎右衛門は道雪、宗茂と仕えた譜代の家臣であり、家中でも指折りの豪の者として知られる武将でした。当然ながら摂津之介は五郎衛門と良く行動を共にしていたようです。


●江島村・坂本大明神の本当の再興主は?

「久留米藩寛文十年社方開基」では天正13年「立花左近」様の家臣「十時摂津守」殿が再興したとありますが、この再興の年には疑問があると、過去記事「Vol 14  氏神と江島氏その7 寛文十年社方開基の虚実」で述べました。

またその後の調べでも、十時氏と江島氏の接点を発見することは出来ませんでした。私は坂本神社が再建されたのは立花氏が最初に筑後の領主であった時代と見ておりますが、現在の時点で再興した人物は「十時摂津守連貞」ではなく、「安東摂津介幸貞」であったと確信するに至りました。

久留米藩寛文十年社方開基編纂時に江島村の社人が提出した覚え書きには立花藩、摂津様と書いてあったのではないかと思います。武士ではない村人が知行主を呼ぶ時は名字やフルネームで呼ぶことはあまり考えられません。村人に聞き取りが行われたとしても元知行主を摂津様あるいは摂津之介様と呼んだはずです。「安東摂津介」は「十時摂津守」ほど著名でなかった事は今も昔も変わらなかったことでしょう。

歴史を調べるにあたって、史料に誤記があると簡単に言い切ってはいけないことも重々承知はしておりますが、少なくともこの社方開基の江島村周辺の記述には誤記や意図的な書き換えが行われており、かなりいい加減に作成されたものと認識しております。

この名前の記載に関しては、地元の情報に疎い新参者の久留米藩の役人が犯した単なる凡ミスであったのかもしれません。



●江上合戦、二つの江島氏

以上の様な事から、江上合戦において、江島氏は一族を二つに分け、江島宗家当主、江島彦右衛門一族は従来通り小野和泉守の与力として参戦。もう一方の一族は江島村の知行主である安東五郎右衛門と安東摂津之介親子の与力として参戦したのではないでしょうか。

立花支配下における、旧国人領主の扱いや知行地については、別の機会に考察する事といたします。


この時期、江島氏は廻船業的な活動で収入、蓄財があり、知行が無くとも家臣や郎党をかなり抱えていたのではないかと述べてきました。蒲池家や龍造寺配下であった江島庶流が主家を無くし、江島村の江島宗家を頼って来る事は十分考えられます。また中氏のように主家を失った者を家臣に加えていましたから、一族郎党を二手にわけることは容易であったと考えられます。

残念ながら、史料には死傷者名しか記載されていませんので、彦右衛門配下の一族名やもう一つの江島与力軍団の頭領名までは確認できません。


●江島氏、安東氏、小野氏の関係

蛇足ですが、安東摂津介の諱は「幸貞」です。資料で見る限り安東一族で「諱」に「幸」の文字を使用していたのは摂津介だけです。

また「江島氏は家譜が存在しない為「諱」を確認することが困難ですが、江戸期に柳川藩士として江島家再興を果たした一族(彦右衛門との血縁も濃いと考えられる)四代の「諱」の通字は「幸」なのです。

摂津介と和泉守、彦右衛門と和泉守、共に両者の関係は主従関係ではありませんが、尊敬する者から「偏諱」を貰うという事はあったのかもしれません。

安東摂津介は小野和泉守鎮幸との関係が深かったのかもしれません。そして江島氏が安東氏の与力となったのは、案外小野和泉守の働きかけがあったのかもしれませんね。


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Vol 55 文禄の役・碧蹄館の戦いと江島氏 その2

2018年08月22日 | 江島氏



●柳川領軍役定に見る立花軍団の編成

明和7年(1770)に原本から書写されたものですが、米多比(ねたび)家に伝わる文書に「柳川領軍役定」があります。この文書によって文禄の役の立花宗茂軍の編成、装備の他、与力衆全員の人名が判ります。その内容の一部をご紹介します。

【立花宗茂の本隊】
昇(幟)3本、騎馬89騎、鉄砲140挺、弓37張、槍209本、徒歩ノ侍339人  合計824人

【壱番隊】
立花三左衛門(鎮久) 立花吉右衛門(成家)
昇(幟)7本、騎馬27騎、鉄砲80挺、弓10張、槍118本、徒歩ノ侍125人 ※合計なし

【弐番隊】
小野和泉(鎮幸)
昇(幟)7本、騎馬41騎、弓16張、槍155本、徒歩ノ侍300人 合計592人 ※鉄砲記載なし

【三番隊】
由布長三郎
昇(幟)5本、騎馬30騎、弓16張、槍83筋、徒歩ノ侍195人 合計367人

※四番隊の記載なし

●合計数 
昇72本、騎馬112騎、槍640本、鉄砲350挺、弓91張、徒歩ノ侍1242人、総人数2607人
※但人数三千との別記あり
【出典】「福岡県史 柳川藩初期 下巻」p118〰p122


立花軍団の全貌が見えてくる気がします。
これは浅野弾正少輔(長政)から立花宗茂と実弟の高橋直次宛の軍編成指示の書状のようです。

これに続く内容は、およそ30人程の立花氏の一門、重臣達のそれぞれに、数人から、最大52人までの侍を与力として配分してあり、その名前が全て列記されています。与力と言ってもその多くは家臣名で、それらに交じって筑後の国人達の名があります。

「江嶋彦右衛門」は蒲池城城主「小野和泉」(小野鎮幸5000石)の52人の与力の一人として記載されています。(p141)彦衛門は江上合戦(八院の戦い)でも小野和泉守鎮幸の与力として参戦していたことはVol 42 「 江上合戦・筑後江島氏最後の戦い」でご紹介しました。


●江嶋彦右衛門の陣立て(推定)

当時行われた太閤検地によって国ごとの国力の基準として石高制が採用され、立花宗茂は13万2000石を領する事となりました。朝鮮出兵の軍役においてもこの石高に応じた軍役が課せられました。家臣においても同様で家中ごとに知行高に応じた軍役の基準があり、それに応じた武器や人員を揃えて参陣しました。

今回の史料「立花文書」の中に「軍役書立」と云う文書が有り、知行高別の規定が書かれています。これを参考に江嶋彦右衛門一党の戦における編成を推測してみる事にしましょう。


三千石       78人 馬4匹  ※徒歩78人騎乗4人: 計82人
二千石       67人 馬4匹
千五百石      29人 馬3匹
千石        29人 馬2匹
七百石、八百石   22人 馬1匹
五百石、六百石   18人 馬1匹
三百石、四百石   15人 馬1匹
二百石、二百五十石   13人 馬1匹
百石、百五十石     10人 馬1匹

文書に記載はありませんがこれに弓、鉄砲、槍等が割り当てられます。

ちなみに太閤検地での江島氏本貫、江島村、四郎丸村の石高はと言いますと、これもこの資料にありました。 

【出典】「福岡県史 柳川藩初期 下巻」「筑後国知行目録」文禄4年 p202〰p206

★江嶋村 (二か所) 449石4斗5升、370 石2 斗1升   計819石6斗6升
★四郎丸村(二か所) 252石1斗1升、16石8斗4升    計268石9斗5升
                         合計1,088石6斗1升

※これは課税石高で総生産高とは異なります。

という事で立花氏が彦右衛門に旧領千石相当の軍役を課したとして、さらに他の記録も参考にしてみますと。

騎乗2  鉄砲2挺  槍3本  徒歩24  合計31人 と考えられます。

実際はどの様な扱いであったのでしょうか。

与力は「寄騎」とも書き、戦国期は一般的には侍大将や足軽大将を寄親としで、その指揮下の騎乗の武士を指します。主に小領主層や地侍が務めたようです。

しかし、立花藩の軍編成は家老や重臣クラスの武士の下に、藩士と国衆も混在して与力として組入れられています。また藩士も禄高により騎乗と徒歩に分けられています。ちなみに江島氏は騎乗を許されていました。


●四郎丸衆の事

四郎丸村の耕地面積は江島村とほぼ同じくらいなのですが、石高は僅か3分の1程度です。これは江島氏は領地が狭いゆえに、戦費や家臣の俸禄を廻船業で賄っていたという私の推論を裏付ける数字ではないかと思います。

四郎丸村の江島氏とその一党は操船に長けた船手衆で、戦時は水軍的な役目を、平時においては廻船衆として動く専門集団であり、農耕にはあまり関わり合っていなかったのでしょう。記録こそ有りませんが、四郎丸江島氏が立花氏の兵站輸送に一役かっていたと考えています。慶長期の新田開発や朱印船貿易を考えれば、かなりの資財を有しており、表高1000数百石程度をはるかに超える家臣数を有していたかもしれません。


そして、四郎丸衆の人数は彦右衛門を頭とする、陸戦部隊と同等の人数か、あるいはそれ以上の人数を抱えていたのではないでしょうか。徳川の時代になって、江島四郎左衛門が青木島の新田開発を行ったのも、これら四郎丸衆の家臣やその郎党が帰農するための新田開発、言い換えるならば失業対策ではなかったかと考えています。


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Vol 54  文禄の役・碧蹄館の戦いと江島氏 その1

2018年08月21日 | 江島氏



●「福岡県史 柳川藩初期 上・下巻」

県立図書館から届いた「福岡県史 柳川藩初期 上・下巻」に掲載されている文書から、文禄の役・碧蹄館の戦いと江上合戦に江島氏がどのように関わったかをご紹介したいと思います。

この本は通史ではなく、文禄期から元和期にかけての柳川藩関係史料として立花家と家臣家に伝わった文書が列記されています。これらは柳川藩や筑後の歴史を知る上の、重要な一次史料と言えるものです。

そして、これらの文書の中から文禄・慶長期における、筑後江島氏の状況や動静が判る貴重な記述を発見、または確認することが出来ました。


●江島氏の漢字表記について

本題に入る前に「江島」の「しま」の漢字表記についてお断りをしておきます。

古文書や古書籍には「しま」の漢字には「島」「嶋」「嶌」の三文字が使用されています。
特に中世から江戸期は嶋があてられる事が多く、ごく少数ですが「嶌」も使用されているようで、使い分けが現在ほど明確ではありません。


当ブログでは記事の出典となった史料、書籍を紹介する際は史料、書籍の表記通りの漢字を使用しています。しかし一般的な話の中では「江島」と現代風の表記を基本としていますのでご了承ください。


●碧蹄館の戦い

碧蹄館の戦い(へきていかんのたたかい)は、文禄・慶長の役における二大合戦の一つです。
明軍の追撃に対し籠城戦か迎撃戦かで日本軍の意見は対立します。
籠城戦を主張する石田三成ら三奉行に対し、兵糧の不足から籠城戦は不利であり、断固迎撃すべしと主張したのが小早川隆景と立花統虎(すみとら、後の宗茂)でした。そして立花勢3000は先鋒部隊となって鬼神の如き活躍で敵を打ち破り、更なる追撃で日本軍を大勝利に導きます。

戦後の自虐史観や左傾的な風潮によって、国内で映画化やテレビドラマ化される事の無い「文禄・慶長の役」ですが、戦前は多くの出版物もあり、「菊池寛」も「日本合戦譚」の中で書いています

★菊池寛「碧蹄館の戦い」 全文が読めます
https://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/1362_36749.html

立花統虎の数ある戦いの中でも、彼の武名を天下に不動のものとした戦いでした。
さてこの戦、正確には文禄の役については、筑後江島氏の「江嶋彦右衛門」が「小野和泉守鎮幸」の与力衆として参戦している事が分る文書がありました。前置きはこのあたりにして、まずは戦いの概略からご覧ください。


●碧蹄館の戦い概略  (ウィキペディアより抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A2%A7%E8%B9%84%E9%A4%A8%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

(掲載開始)
文禄2年1月26日(1593年2月27日)に朝鮮半島の碧蹄館(現在の高陽市徳陽区碧蹄洞一帯)周辺で、平壌奪還の勢いに乗り漢城(現ソウル)めざして南下する提督李如松率いる約20,000の明軍を、小早川隆景らが率いる約20,000の日本勢が迎撃し打ち破った戦い。
(中略)

日本軍は迎撃の先鋒を立花宗茂・高橋直次(後の立花直次)兄弟とし、午前2時頃、先に森下釣雲と十時惟由ら軽兵30名が敵状を偵察、敵軍は未明の内に進軍すると予測し、午前6時頃碧蹄館南面の礪石嶺北側二所に布陣した。

先鋒500を率いた十時連久と内田統続を正面に少ない軍旗を立てることで、查大受の率いる明軍2000を騙して進軍するよう誘致し、越川峠南面にて正面で連久らと交戦を開始した。そして宗茂と直次の本隊2000は、先鋒の連久らと中陣700の小野鎮幸、米多比鎮久を陣替する際に、直次と戸次鎮林(戸次鑑方の次男)を陣頭に立てて、左側面から敵後詰・高彦伯の朝鮮軍数千に奇襲を仕掛けて撃退に成功し、更に宗茂は800騎の備えを率いて明・朝鮮軍を猛烈追撃、戦果を拡大した。

ここで日本軍は7千の敵軍と遭遇する。立花軍は奮戦するが、敵軍は次々に新鋭を繰り出し兵を入れ換えてくる。 この最中、十時連久、内田統続、安田国継(此時の名は天野源右衛門貞成と呼ぶ)らは突撃を敢行、鑓を投げて数十騎を突落し、明・朝鮮軍を中央突破して回転突破したが、その際に中陣の戸次統直は強弓を引いて20餘の敵兵を射落し援護しながらも、連久が李如梅の毒矢を受けて、帰陣から間もなく戦死し、旗奉行の池辺永晟も連久負傷後は先鋒隊の指揮を暫任し中陣と替わるのを成功させたが、後の追撃戦で戦死した。

寡兵の立花・高橋勢は奮戦してこれを撃退、越川峠北方右側にて兵を休ませ、この後に小早川隆景など日本軍先鋒隊が到着すると、疲労の深い立花勢を後方に下げて、西方の小丸山に移陣した。この戦端が開かれた時点では日本軍本隊はまだ漢城に在った。

午前10時頃、高陽原に明軍は左・右・中央の三隊の陣形で押し寄せた。日本軍先鋒隊は全軍を碧蹄館南面の望客硯に埋伏させ、同時に三方包囲策を進行し立花、高橋と吉川広家が左方、毛利秀包、毛利元康、筑紫広門と宇喜多秀家が右方から迂迴進軍する。

午前11時頃、正面に出た小早川隆景軍の先陣二隊の内、明軍の矢面に立った粟屋景雄隊が次々繰り出される新手を支えきれずに後退を始めると明軍はすかさず追撃に移る。しかし戦機を待ってそれまで待機していたもう一方の井上景貞隊がその側背に回り込んで攻撃したことで明軍は大混乱となった。

その機を逃さず、立花、高橋勢が左方から、小早川秀包、毛利元康、筑紫広門勢が右方から側撃、隆景本隊と吉川広家、宇喜多家臣戸川達安、花房職之も正面より進撃し、明軍前衛を撃破して北の碧蹄館にいた李如松の本隊に迫って正午の激戦となった、この際立花の金甲の将・安東常久と一騎討ちして李如松自身も落馬したが、李如梅の矢を受けて安東は戦死した。
(中略)

かくして日本軍本隊の本格的な戦闘参加を待たずに正午頃には戦いの大勢は決し、小早川隆景らの日本軍は退却する明軍を碧蹄館北方の峠・恵陰嶺に午後2時から4時まで追撃し深追を止めたが、立花宗茂と宇喜多秀家の軍勢はより北の虎尾里まで追討し、午後5時までに漢城へ引き上げた。

なお、立花軍の金備え先鋒隊長小野成幸や与力衆の小串成重、小野久八郎と一門の戸次鎮林、そして高橋家中今村喜兵衛、井上平次、帆足左平、梁瀬新介も戦死し、立花宗茂はこの激戦で騎馬まで血塗れとなり、二つの甲首を鞍の四方手に付け、刀は歪んで鞘に戻せなくなったという。

(抜粋終了)

次回に続く


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Vol 53  肥後・財津流江島氏とそのルーツ

2018年08月11日 | 肥後財津流江島氏



「Vol 33 九州の江島さんと家紋」で、家紋を九曜紋とし、出自を豊前の名族とされる肥後の江島(えしま)氏をご紹介しました。それに関連して、肥後の江島氏で判明した事を今回はご紹介したいと思います。

肥後の江島氏のルーツを調べ始めたのは「特別な理由」があったのですが、その理由はネタばれとなるので今回は申しません。ともあれ、試行錯誤、紆余曲折の末ようやく、肥後の江島氏が財津氏の庶流である事が分り、そこでたどりついたのが文化6年、財津永澄が撰した『財津氏系譜』でした。しかも千葉県立図書館に復刻版がある事が分り、居住地の図書館から同書を取り寄せました。

そして『西国武士団関係史料集 1(財津氏系譜)』のP171「財津主殿亮永名江嶋氏系譜巻之十二」に次のような記述がありました。


●財津流江嶋氏の始まり

「財津永名」の子「永充」の時、「豊前国宇佐郡江嶋村に居り、因って氏を江嶋と号す」とありました。

さらに、その子「永武」が財津総左衛門永高の家に寄食(居候)している時に、豊前小倉藩二代藩主細川忠利に仕え50石を賜った。細川家が肥後に国替えとなった後、肥後国阿蘇郡坂梨関の関吏になったとあります。
永武は万治2年(1659)12月に亡くなり、阿蘇郡中原村の寺に葬られたようです。

※坂梨関→現阿蘇市一の宮町。坂梨村にあった関所


●阿蘇組財津一党

「新熊本市史」によると阿蘇組財津一党は豊前で取り立てられ、一族八家が知行150石を拝領して宇佐郡に在宅していた。肥後入国に際して阿蘇郡に知行を貰った。阿蘇組には財津氏六家・江島氏二家が入っていたとあります。


●財津氏のルーツ

財津氏の出自については日田氏の庶家であり、日田氏の祖は諸説あるようです。

「武家家伝 財津氏」より転載
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/hi_zaitu.html


(転載開始)

財津氏は大蔵氏流日田氏の一族という。日田氏は中世における豊後国日田郡の武士階層を代表する存在で、日田郡司職に就いていた。出自は大蔵氏に求めているが、実際のところは明確ではない。一説に、天武天皇の曾孫で豊後介の任にあった中井王の末裔とするもの、あるいは宇佐氏の後裔とする説などが伝えられている。

日田氏が伝説の域を脱して確実に歴史上に登場するのは大蔵永季のときである。以後、日田氏は永享4年(1432)に滅亡した二十一代七郎丸(永包)まで日田の支配者であり続けた。

南北朝時代、今川了俊に属して活躍した詮永(あきなが)が水島の戦いに戦死、ついで、嫡男の永雅も出征先で病を得て筑前馬渡で客死した。結果、詮永の弟の永息が日田氏の家督を継いだが、永息も戦死してしまった。

永息の嫡男永清はわずか二歳の幼児であったことから、傍系の永秀(永純)が家督を継承した。ところが、永秀の子七郎丸の代に家督を巡る内訌が生じ、大蔵姓日田氏は断絶という結果となったのである。その後、日田氏は大友氏から入った永世(親満)が郡司職を継ぎ、日田氏は大友系として続くことになった。
 
一方、永息の子永清は長じると日田郡北部の夜開郷財津に城を築き、財津氏の初代になった。以後、財津氏は日田大蔵一族の中核となって、戦国時代を生き抜くことになる。そして、永清が日田氏の嫡流であったという意識から、日田氏の本流は財津氏であるとの思いが強かったという。

(転載終了)

大友流日田氏も1548年に滅亡します。以降日田は、大友義鑑が選出した旧豊後大蔵氏一族の郡老8名が政治を執り行いました。この郡老の一家が財津氏でした。



●日田から宇佐へ、そして阿蘇へ

1593年、豊後国を治めていた大友義統が文禄慶長の役において敵前逃亡の責めを負って改易され、財津氏は主家と領地を失います。日田郡は蔵入地(豊臣家直轄地)となり、以後幕府直轄領となるまで領主が転々と変わりました。
 
細川藩の肥後への国替えは寛永9年(1632)ですから、約40年の間に主家を失った財津氏の一族が日田から宇佐郡江嶋村に居を移し、江嶋姓を名乗ったという訳です。

なお江嶋村には帰農した宇佐姓江嶋(えじま)氏がいましたから、区別するために江嶋(えしま)と読み替え、しの字に濁点を付けなかったのではないでしょうか。
過去記事「Vol 33 九州各県・江島さんの氏族と家紋」で、九曜紋を家紋とする江島家が「えしま」とした理由が解明出来たように思えます。

そして、細川藩に仕官し、藩の国替えと共に江嶋氏も阿蘇へと居を移し、肥後の江島(えしま)氏となったようです。



●鬼の末裔 宇佐姓大蔵流日田氏財津家

驚くなかれ現在の財津家御当主は90代目だそうで、89代目の「財津吉和 氏」が先祖代々伝わる財津家系譜をブログで紹介されています。いやはやすごい事です。但しブログ記事は直系のみの紹介です。

★「鬼の末裔~“宇佐姓大蔵流日田氏財津家”~系図  財津吉和」
https://blogs.yahoo.co.jp/zai_brg/46972720.html

またブログ記事によれば前出の「財津総左衛門永高」について次のように書かれています。

(転載開始)

財津一族は流浪の身となり、大部分は帰農したが、「財津永高」は細川氏に仕え、『お庭番~藩主直属の秘密警察~の責任者』として、代々、千石取りの重臣として、幕末維新まで続いた。 

(転載終了)

財津吉和氏によれば、財津氏の本家日田氏のルーツは宇佐氏であったようで、「財津永充」が落ち着き先として豊前宇佐郡江嶋村に住んだのも納得できます。ということで細川家に仕えた江島氏は「宇佐姓大蔵・日田・財津流江島氏」という事になりますが、便宜上当ブログでは「肥後・財津流江島氏」と紹介させて頂きます。

また「都道府県別姓氏家紋大事典」に江島(えしま)氏の出自が「豊前の名族」とあったのは以上の様な事を踏まえてという事だったのでしょうか。むしろ「豊後の名族」としたほうが適切ではないかと思うのですが・・・



■宇佐姓江島氏も肥後・財津流江島氏も、共に名前の由来は、豊前国宇佐郡の江島別府、江島村の地名にあったという訳です



【参考史料】

★新熊本県史
★『西国武士団関係史料集 1(財津氏系譜)』芥川竜男、福川一徳編校訂、文献出版
 ※文化6年、財津永澄が撰した『財津氏系譜』(和綴本)を復刻したもの



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Vol 52  豊前・江島氏 (宇佐姓江島氏)とそのルーツ

2018年08月10日 | 豊前宇佐姓江島氏




前回は和歌山発祥の江島氏のご紹介をしましたので、続けて、豊前の宇佐姓江島氏と日田氏由来の肥後江島氏についてご紹介させて頂きます。



日田由来の肥後江島氏については、日田氏の有力氏族、財津氏に伝わる「財津氏系譜」にあるのではないかと推測し、調べた結果、肥後江島氏の由緒も判明しました。
僅かな資料ではありますが、ご先祖調査の際の参考にしていただければ幸いです。


ブログの掲載記事に関しましては、推理ブログとは言え、常に多くの史料を元に、史実にできるだけ忠実に書くことを目指しております。したがって史料の再確認をしている際に、新たな事実が見つかる事や、未見の史料が見つかるという事が発生します。その為過去記事と内容が少し違ってくる場合もありますのでご了承ください。
また過去記事についても加筆修正も順次行って、ブログ全体の整合性を整えてゆきたいと考えております。


●豊前国宇佐郡「江島別府」

江島姓の元となった、地名の由来は「江嶋大鑑」によると「東に駅館(やっかん)川の流れを帯び、西には住江(すみのえ)の入江ありて、朝夕の潮、指しこむ時はさながら江の中の孤島の如し、これにより往昔より江島の二字を村名とす」とあります。

「江嶋別府」は大分県の宇佐平野の中央部北端、駅館(やっかん)川の最下流部西岸に位置し(現:宇佐市江須賀、住江、沖須)平安時代末期、宇佐八幡宮による江島井堰開削によって辛島郷内に開発されたと推測されています。
地名の初見は永万2年(1166)9月25日の八幡宇佐宮縫殿宇佐太子解(益永文書/大分県史料29)です。


●栗田氏江嶋姓を名乗る

延慶2年(1309)には宇佐八幡宮官人「栗田家房」の名が記録に見られ、江島別府内の土地を大宮司から安堵されています。栗田氏は御家人となり、元弘年間には「栗田基弘」が足利尊氏に従っています。延元元年/建武3年(1336年)宗像大社参拝後の3月初旬、筑前多々良浜の戦いの時の着到状で、基弘は「江嶋基貞」と称しています。この着到状が江嶋姓の初出のようです。
【参考】角川日本地名大辞典


戦国期における宇佐郡の国人領主の史料としては「宇佐郡地頭伝記」(明治43出版)が著名ですが、同書によれば宇佐36頭と呼ばれた国人衆には江島氏は含まれていません。当時江島村に勢力を持っていたのは眞加江(しんかえ)氏でした。江島村眞ヶ江(しんかえ)を領した事からその名を名乗っています。


●宇佐姓江島氏の誕生

勿論栗田氏の後裔である江島氏も当地に存在しておりました。戦国後期には宇佐大宮司家から「宇佐公綱」を養子に迎え、江島氏を相続した公綱は「江島刑部公綱」と名乗りました。公綱以降江島氏は「宇佐姓江島氏」を称するようになります。

黒田官兵衛が中津領主として入部した際、領国内の国人衆に対する施策として、地域の祭礼の際には武家としての格式で処するという事で、帰農を勧める政策をとります。江島氏も帰農することとなり、江戸期は大庄屋家として存続しました。



●宇佐氏、黒田の家臣となる

では本家筋である宇佐氏はどの様になったのでしょうか。その経緯を記述しておきます。

江島公綱の父、宇佐大宮司 宇佐公建は天文11年に従五位下、修理太夫、19年には従五位上に叙任されています。

永禄年間、大友氏家臣、奈多鑑基(なだ あきもと)の宇佐宮焼き討ちがあり、領地や宅地など悉く押領され、公建は代々居住していた宇佐宮から退去してしまいます。
奈多氏は豊後国安岐郷にある奈多八幡宮の大宮司家でした。鑑基は大友氏の寺社奉行としての権限を私的に利用した事で、子・鎮基(しげもと)と共に悪名高い武将として知られています。

「宇佐公建」が文禄元年(1593)に没すると、子の「公里」(従五位下、上総介)は永禄10年(1567)に既に亡くなっていた為。公里の子の「公基」が継ぎます。

※公里の弟が江島公綱

当時の宇佐大宮司家は有力諸氏との養子縁組や姻戚によって失地回復を図っていたようです。

「公基」はやがて「黒田官兵衛」の幕下となり、名も「黒田吉右衛門政本」と改めます。こうして宇佐氏は宇佐八幡宮宮司職を、宇佐姓を本姓とする宮成氏と到津(いとうづ)氏に委ねる事となります。

【参考家系図】江島・江嶋一族(日本家系協会)


江戸期に細川家家臣となった「肥後の江島氏」については次回に。


【参考史料】

★宇佐郡誌
★柳ケ浦町史
★中嶋文書/大分県史8
★宇佐郡地頭伝記 ※グーグルブックス、国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能


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Vol 51 江島藤六の和歌山開発と筑後江島氏の新田開発

2018年08月03日 | 紀州江島氏

雑賀孫一


今回は慶長から元和における筑後江島氏の動きを整理してみました。


■江島氏の筑後・新田開発

●【江島四郎左衛門の青木島開発】

慶長5年(1600)関ケ原の戦いの翌年、慶長6年(1601)田中吉政の柳川入部と同時に発布された新田開発令に呼応するかのように、「江島四郎左衛門」は青木鼻を埋め立て、青木島(現:久留米市城島町青木島)の新田開発に乗り出します。

元和3年(1617)には江頭正玄と鷲頭右京が当地を青木島村と称し、さらに新たな開発を計画しました。四郎左衛門は開発を続け、本願成就したので、天満宮を祀り神田を奉納したとあります。
この天満宮が現在も青木島にある村社天満宮です。

青木鼻は元々江島氏の船手衆(水軍)の湊があったと思われる場所です。ここを埋め立てたという事は、徳川の時代になり、船手衆が船で商売を行う廻船業に変化し、長崎や柳川の湊町に本拠を移したからではないかと推察しています。


●【江島麟圭と江島権兵衛又右衛門の柳川沖開発】

青木島開発が一段落したと思われる慶長12年(1607)には、元江島城城主、江島美濃こと「江島美濃守麟圭」が、続いて一族の「江島権兵衛又右衛門」が、柳川沖、塩塚川左岸の潟地を干拓しました。この地が「江島開」(えじまびらき)、「権兵衛開」の地名(現:柳川市大和町栄)として明治まで残りました。

江島吉左衛門が朱印船貿易を行ったのは、この柳川沖干拓真最中の慶長15年(1610)秋から慶長16年(1611)春遅くの事でした。

慶長19年(1614)には麟圭は当地に「常楽寺」を創建し「開善」と名を改め出家しました。
※真宗大谷派

●江島権兵衛又右衛門

江島権兵衛(ごんのひょうえ)又右衛門については、現:福岡県柳川市元町26にある「西光寺」浄土真宗大谷派のお寺の過去帳に又右エ門の母親の記載が残っています。
その内容は次の通りです。

寛文12年(1672)6月17日「妙春江島権兵衛殿開又右衛門母」没


【西光寺由来】※古地図に見る柳河町の歴史、西部編より
http://www.geocities.jp/bicdenki/yanagawamatinisihen.htm#saikou

日野家の末裔で肥後玉名郡城主の大津山河内守の舎弟を信濃守という。信濃守も同郡のある城主であったが、秀吉の九州征伐後に両家とも没落した。信濃守の嫡男は出家して、淨真と名のる。真勝寺の配下となり元和2年3月に本山より、西光寺の号を賜り出来町に創建する。のちに今の地に移り再建する。※真宗大谷派

「西光寺」の住職も元は肥後の国人領主でした。注目すべきは「西光寺」の場所です。寺の北にすぐ沖端川が流れており、対岸は新船津町、本船津町で江戸期は船津町と呼ばれました。
    .

【本船津町】  ※古地図に見る柳河町の歴史、西部編より                   
http://www.geocities.jp/bicdenki/yanagawamatinisihen.htm

この町は外町と同様、新船津町と共に、柳川城郭内の外、捨曲輪内にある町屋である。明證図会に「本船津町 井手橋外東西の通り 前の川は汐入りにて諸国の船ここに集まる」とある。

船津町は回船の津(船着場)の町で、前方は荷揚げの浜だったから片側だけの家並みであった。船津は上流の明王院隅河港や、対岸の材木町・蟹町の忙しさに触発されて開港された。

対岸の材木町が主として藩内や近隣諸藩と御城下との生鮮食料品を初め日用雑貨を扱ったのに対し、船津町は米や線香・蝋・菜種油などの藩内物産を長崎・博多・大阪などに移出し、相手先から藩内に生産されない必需品や船載物などの珍品を移入した。

以前は枝光村であったが官道肥州街道が通り、拓けて枝光村から分離して柳河町に加わった。享保年間以来明治3年まで船津町と言ったが、明治4年から本船津町となった。対岸の材木町と同じく恵美須神社を祀ってある。

(以下省略)

江島又右衛門の母の過去帳が西光寺にあるという事は、又右衛門が権兵衛開を干拓の後、現地に居住せず、船津町に居住していたのかもしれません。又右衛門は船津町を拠点として、江島吉左衛門等と共に長崎、博多、大坂との廻船業に携わっていた可能性も十分に考えられます。

江島氏の新田開発には不思議な事がいっぱいです。又右衛門しかり、また四郎左衛門しかり、当時の江島氏の長老であった麟圭といい、そして江島村本家の江島石見といい、本家筋と思われる人々は一人も帰農していないのです。その理由の考察は別の機会にご紹介したいと思います。


■江島藤六、紀州和歌山の城下町開発

麟圭の常楽寺創建から8年後、江島氏は筑後からはるか離れた和歌山の地で新地開発を行いました。
紀伊の「続風土記」によれば、元和8年(1622)に和歌山中野島村の江島藤六が和歌山藩の許しを得て、和歌山城下の和歌川(雑賀川)沿いの葦原であった地に、和歌山城の南にあった弁財天山の砂石を運んで土地を造成しました。そのため開発当初この地は築屋敷(つきやしき)とも藤六町とも言われました。

後にこの地で「新豊酒」が作られ新豊(しんぽう)の義をとって新富町(にいとみちょう)としました。新富が訛って新留と呼ばれ現在の和歌山市新留町(にんとめちょう)となりました。
新富町は後に南北新富町に分かれますが両町の総間数は122間余(約220m)であったそうです。

※註:新豊酒とは「新豊の酒の色は 鸚鵡盃(おうむはい)の中に清冷たり」 和漢朗詠集

【朗詠:新豊】
https://www.youtube.com/watch?v=f8R2weH1T6U

紀州和歌山は当初、浅野幸長(よしなが)、長晟(ながあきら)の二代に渡り、浅野家によって治められましたが、元和5年(1619)浅野家が広島に転封となって、徳川家康の十男、徳川頼宣が紀州徳川家初代藩主として入部します。元和8年は頼宣によって新たなる城下町作りが開始された頃にあたります。上方に居を移した初代江島吉左衛門一族が、廻船業を通じて和歌山に進出し、城下町建設に乗じて新地開発を行ったものであろうと考えています。


●伝承に残る和歌山開発

和歌山開発の事は我が家の伝承にもあり、「幾度か村人達が江島から和歌山に船で旅立った」と伝わっています。前回でもふれましたが、昭和の初め頃まで私の祖父は、藤六の子孫の方と手紙のやり取りをしていました。祖父は生前、叔父にはっきりと「和歌山の江島家は分家だ」と言っていたそうです。

藤六の新地開発にあたり江島村本家は経済的、人的支援をおこないました。藤六の依頼に答えて、江島村本家は干拓の技術に秀でた者や移住を希望する者の手配と送り出しを行ったようです。また新豊酒造りについては、筑後との関係を彷彿とさせて興味深いものがあります。

記録によれば江島四郎左衛門の子孫は青木島で造り酒屋を生業としていたようです。また江島村本家も酒造を行っていた形跡がみられます。新豊酒造りにあたり、筑後の杜氏の派遣も行ったのかもしれません。新たな町を興し産業の育成を図る、藤六の町作りの夢へ、惜しみない支援をおこなったのではないでしょうか。

藤六の和歌山開発の時代から300年もの間、文のやり取りが続いた事には驚きを感じます。藤六という人物は、江島村本家と余程近しい関係にあったように思われますが、江戸から明治の間にも筑後と和歌山の間には、何らかの子孫同士の人的交流が行われていたのではないでしょうか。そうでなければこれ程長くは続かなかったと思われます。

●藤六町の風景

文=和歌山市立博物館総括和歌学芸員 額田雅裕 画=西村中和 彩色=芝田浩子

上の絵は和歌川の東側、新町南部の約200年前の風景です。「もくづ川」(和歌川)には葦原がみえ、燃料となる薪や柴などを運ぶ舟が行き交っています。背景は、岩橋千塚の古墳が立地する山々です。

岡口門から東へ進み、大橋を渡って右に曲がると、西国第2番札所に至る「紀三井寺道」(近世熊野街道)になります。和歌川沿いの「藤六(とうろく)」町(現在の和歌山市新留丁)は、元和8年(1622)に中野島村(同市中之島)の江島藤六という人が、和歌山城南の弁財天山の土石によって埋め立て造成した新地で、築屋敷ともいいました。その南側には「一りつか」がみえます。一里塚は、初め「多門院」のある一里山町にありましたが、藤六町ができた後、ここへ移されました。(以下略)

●ニュース和歌山
城下町の風景2〜カラーでよむ『紀伊国名所図会』より転載
http://www.nwn.jp/feature/2015011402sirokumano/


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