(※中世、安土桃山期では江島は江嶋と表記される事が多いので、この章は江嶋で統一します)
蒲池鎮漣が龍造寺隆信の謀略によって殺害され、下蒲池の嫡流家は滅びます。この時、上蒲池氏の鑑広、鎮運父子は竜造寺氏に従った為、上蒲池氏は存続します。
天正15年(1587)豊臣秀吉は自ら軍を率い九州出兵を行います。秀吉は肥後方面軍、秀長は日向方面軍を指揮し、その数約20万人の大軍でした。上蒲池の蒲池鎮運は島津氏方につき山下城に籠城し、最後まで秀吉に抵抗しました。この時、江嶋宗家も島津軍に加わりますが、状況を判断し高良山の本陣の秀吉に恭順を示し、本領を安堵されています。
蒲池鎮運は秀吉によって8000町の領地を没収されます。しかし、後に許され三池郡に200町を給わり、海津館に移り住む事になります。
その後、柳川藩主となった立花宗茂は蒲池鎮運を弟の高橋直次の3千石の与力として立花藩に迎えます。こうして上蒲池家の2000名近くはいたと思われる家臣達の多くが浪人することとなりますが、八女の江嶋氏は鎮運に従い、三池郡へと移り住みました。
文禄元年(1592)の一月、秀吉は全国の諸大名に朝鮮への出陣を命じます。柳川の立花宗茂は2500人、三池の弟、高橋直次も800人の兵を従えて、小早川隆景率いる六番隊(15、700人)として四月に朝鮮へと渡海します。この高橋直次勢の中に蒲池鎮運率いる100人の将兵がいました。
鎮運はこの時31歳、嫡子弥平太(蒲池吉広)はわずか四歳でした。鎮運が留守を託したのは一門の蒲池十右衛門と留守居役、江嶋与三右衛門でした。
おそらく江嶋三右衛門は八女江嶋氏の長老であったでしょう。八女江嶋氏の多くは鎮運に従い朝鮮へ出兵したものと思われます。
またこの時、後藤家信(龍造寺隆信三男)の家臣であった肥前江嶋氏は鍋島勢として加藤清正率いる二番隊(22、800人)に、また江嶋宗家も立花宗茂の与力として参戦した可能性が高いと思われます。
さらに対馬の宗氏の配下にあった対馬江嶋氏は朝鮮や名護屋城で従軍通詞や輸送部隊として参戦しています。朝鮮の役は江嶋宗家、庶流のほとんどが加わった戦いでもあったのです。
※肥前江嶋氏、対馬江嶋氏については別の機会に詳述いたします。
さて、朝鮮に渡った蒲池鎮運のその後については、
「筑後争乱記・蒲池一族の興亡」海鳥社、河村哲夫・著
より抜粋してご紹介します。
(掲載開始)
立花宗茂に率いられた柳川・三池軍は、五月中旬ごろ金山(キンセン)を占領していたが、六月には漢城に到達し、南大門を警護していた。
(中略)
そのころ、蒲池鎮運は弟の蒲池源十郎以下百人の兵とともに、南大門近くに駐屯していたが、七月に入り、梅雨の到来とともに体調を崩し、回復しないまま、七月十三日に突然息を引き取ってしまった。
蒲池鎮運は、本格的な戦いがはじまる前に、あっけなく死んでしまったのである。享年三十一歳と伝えられている。父鑑広が天正七年に突然病死したため、年若くして家督を継いだが、その十三年の家督期間中、蒲池一族の血を後世に伝えることが悲願であった。
(中略)
蒲池勢の指揮権は弟の蒲池源十郎が引き継いだものの、突然の事態に蒲池勢は困惑するばかりであった。
立花宗茂と高橋直次はとりあえず名護屋の秀吉のもとへ報告することとし、あわせて今後の蒲池家の取り扱いについての対応を求めた。このとき、鎮運の遺児吉広はわずか四歳の童子で、母とともに人質として大阪城に滞在していた。
(掲載終了)
この件の処置について、名護屋にいた三奉行の一人浅野長政より、吉広(弥平太)の家督相続を認める書状が高橋直次や立花宗茂、さらに大阪の弥平太宛に送られてきます。
しかし、突然何かの異変が生じたらしく、浅野長政が確約していた家督相続が保留されました。そして文禄元年九月に、長政から国元の蒲池十右衛門と江嶋与三右衛門連名宛の書状が送られてきます。(※この書状は現存しているようです)
その書状には相続に関する秀吉の意向が書かれていました。
(掲載開始)
すなわち、秀吉は漫然と家督相続を許さず、寺社などの「衆用にたたざる者」の知行を没収して供出すのるなど、朝鮮出兵のために尽力すべきことを厳しく命じたのである。
蒲池十右衛門と江嶋三右衛門は蒲池鎮運が留守居役として残した者たちであった。
むろん、蒲池家の家督を幼い蒲池吉広に継承させるため、二人はさまざまな手を打ったことは間違いない。家督相続が認めなければ、ふたたび蒲池一族は存亡の危機を迎えてしまうのである。
二人は、とにかく忠誠心をしめし、秀吉のご機嫌を取ることにひたすら力をつくした。
(中略)
大坂にいた蒲池吉広は母親とともに名護屋へ招かれ、後見人の十右衛門もまた妻子を伴って、秀吉のいる名護屋城にいき、ともに秀吉の謁見をうけた。ここにおいて、蒲池家は断絶の危機を脱したのである。
(掲載終了)
蒲池氏は、秀吉から大名家としての再興の内諾を受けていたらしいのですが、沙汰のないうちに肝心の秀吉が死去します。関ヶ原の戦いでは、蒲池吉広は立花宗茂の与力として西軍に属して戦いますが、西軍敗北により、今度は徳川家康により領地を没収されます。
しかし蒲池吉広は、黒田長政の福岡藩に召抱えられ、子の蒲池重広は5百石を与えられています。重広の子蒲池正広も後に郡奉行となり、上蒲池家の血脈は続いていきます。
最後に仮説を一つ。
幕末の郷土史家として著名な福岡藩士「江島茂逸」は母方の江島家(祖父の家)を継いでいます。
茂逸翁墓誌銘(訳文)より抜粋
君が姓ハ江島,名ハ茂逸。父ハ川庄定剛,母ハ江島氏。天保13年壬寅12月ヲ以テ,福岡県早良郡西新町二生ル。祖父ノ家ヲ襲ギテ江島氏ヲ称シ,福岡藩ノ卒属二列ス。
●ある郷土史家の生涯をたずねて 江島茂逸
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/13873/tojo0807.pdf
墓誌銘によると、江島茂逸は士族でなく卒族と書かれています。以前、福岡藩の分限帳を調べた限りでは江島姓の藩士は見当たりませんでした。
ひょっとすると茂逸の江島家は黒田藩士の家臣であったのかも。という事は蒲池吉広に従って福岡に移った八女江嶋氏の子孫だった可能性もありますね。
Copyright (C) 2018 ejima-yakata All Rights Reserved