『江島氏物語』 

歴史推理ブログ「筑後江島氏とその庶流」
    通史に無い歴史物語

Vol 27 八女・江島氏 その2

2018年04月19日 | 八女江島氏



(※中世、安土桃山期では江島は江嶋と表記される事が多いので、この章は江嶋で統一します)

蒲池鎮漣が龍造寺隆信の謀略によって殺害され、下蒲池の嫡流家は滅びます。この時、上蒲池氏の鑑広、鎮運父子は竜造寺氏に従った為、上蒲池氏は存続します。

天正15年(1587)豊臣秀吉は自ら軍を率い九州出兵を行います。秀吉は肥後方面軍、秀長は日向方面軍を指揮し、その数約20万人の大軍でした。上蒲池の蒲池鎮運は島津氏方につき山下城に籠城し、最後まで秀吉に抵抗しました。この時、江嶋宗家も島津軍に加わりますが、状況を判断し高良山の本陣の秀吉に恭順を示し、本領を安堵されています。

蒲池鎮運は秀吉によって8000町の領地を没収されます。しかし、後に許され三池郡に200町を給わり、海津館に移り住む事になります。

その後、柳川藩主となった立花宗茂は蒲池鎮運を弟の高橋直次の3千石の与力として立花藩に迎えます。こうして上蒲池家の2000名近くはいたと思われる家臣達の多くが浪人することとなりますが、八女の江嶋氏は鎮運に従い、三池郡へと移り住みました。


文禄元年(1592)の一月、秀吉は全国の諸大名に朝鮮への出陣を命じます。柳川の立花宗茂は2500人、三池の弟、高橋直次も800人の兵を従えて、小早川隆景率いる六番隊(15、700人)として四月に朝鮮へと渡海します。この高橋直次勢の中に蒲池鎮運率いる100人の将兵がいました。

鎮運はこの時31歳、嫡子弥平太(蒲池吉広)はわずか四歳でした。鎮運が留守を託したのは一門の蒲池十右衛門と留守居役、江嶋与三右衛門でした。
おそらく江嶋三右衛門は八女江嶋氏の長老であったでしょう。八女江嶋氏の多くは鎮運に従い朝鮮へ出兵したものと思われます。

またこの時、後藤家信(龍造寺隆信三男)の家臣であった肥前江嶋氏は鍋島勢として加藤清正率いる二番隊(22、800人)に、また江嶋宗家も立花宗茂の与力として参戦した可能性が高いと思われます。

さらに対馬の宗氏の配下にあった対馬江嶋氏は朝鮮や名護屋城で従軍通詞や輸送部隊として参戦しています。朝鮮の役は江嶋宗家、庶流のほとんどが加わった戦いでもあったのです。

※肥前江嶋氏、対馬江嶋氏については別の機会に詳述いたします。



さて、朝鮮に渡った蒲池鎮運のその後については、
「筑後争乱記・蒲池一族の興亡」海鳥社、河村哲夫・著
より抜粋してご紹介します。

(掲載開始)

立花宗茂に率いられた柳川・三池軍は、五月中旬ごろ金山(キンセン)を占領していたが、六月には漢城に到達し、南大門を警護していた。
(中略)

そのころ、蒲池鎮運は弟の蒲池源十郎以下百人の兵とともに、南大門近くに駐屯していたが、七月に入り、梅雨の到来とともに体調を崩し、回復しないまま、七月十三日に突然息を引き取ってしまった。

蒲池鎮運は、本格的な戦いがはじまる前に、あっけなく死んでしまったのである。享年三十一歳と伝えられている。父鑑広が天正七年に突然病死したため、年若くして家督を継いだが、その十三年の家督期間中、蒲池一族の血を後世に伝えることが悲願であった。
(中略)

蒲池勢の指揮権は弟の蒲池源十郎が引き継いだものの、突然の事態に蒲池勢は困惑するばかりであった。

立花宗茂と高橋直次はとりあえず名護屋の秀吉のもとへ報告することとし、あわせて今後の蒲池家の取り扱いについての対応を求めた。このとき、鎮運の遺児吉広はわずか四歳の童子で、母とともに人質として大阪城に滞在していた。
(掲載終了)

この件の処置について、名護屋にいた三奉行の一人浅野長政より、吉広(弥平太)の家督相続を認める書状が高橋直次や立花宗茂、さらに大阪の弥平太宛に送られてきます。

しかし、突然何かの異変が生じたらしく、浅野長政が確約していた家督相続が保留されました。そして文禄元年九月に、長政から国元の蒲池十右衛門と江嶋与三右衛門連名宛の書状が送られてきます。(※この書状は現存しているようです)

その書状には相続に関する秀吉の意向が書かれていました。


(掲載開始)
すなわち、秀吉は漫然と家督相続を許さず、寺社などの「衆用にたたざる者」の知行を没収して供出すのるなど、朝鮮出兵のために尽力すべきことを厳しく命じたのである。

蒲池十右衛門と江嶋三右衛門は蒲池鎮運が留守居役として残した者たちであった。
むろん、蒲池家の家督を幼い蒲池吉広に継承させるため、二人はさまざまな手を打ったことは間違いない。家督相続が認めなければ、ふたたび蒲池一族は存亡の危機を迎えてしまうのである。

二人は、とにかく忠誠心をしめし、秀吉のご機嫌を取ることにひたすら力をつくした。
(中略)

大坂にいた蒲池吉広は母親とともに名護屋へ招かれ、後見人の十右衛門もまた妻子を伴って、秀吉のいる名護屋城にいき、ともに秀吉の謁見をうけた。ここにおいて、蒲池家は断絶の危機を脱したのである。
(掲載終了)

蒲池氏は、秀吉から大名家としての再興の内諾を受けていたらしいのですが、沙汰のないうちに肝心の秀吉が死去します。関ヶ原の戦いでは、蒲池吉広は立花宗茂の与力として西軍に属して戦いますが、西軍敗北により、今度は徳川家康により領地を没収されます。

しかし蒲池吉広は、黒田長政の福岡藩に召抱えられ、子の蒲池重広は5百石を与えられています。重広の子蒲池正広も後に郡奉行となり、上蒲池家の血脈は続いていきます。


最後に仮説を一つ。
幕末の郷土史家として著名な福岡藩士「江島茂逸」は母方の江島家(祖父の家)を継いでいます。

茂逸翁墓誌銘(訳文)より抜粋
君が姓ハ江島,名ハ茂逸。父ハ川庄定剛,母ハ江島氏。天保13年壬寅12月ヲ以テ,福岡県早良郡西新町二生ル。祖父ノ家ヲ襲ギテ江島氏ヲ称シ,福岡藩ノ卒属二列ス。

●ある郷土史家の生涯をたずねて  江島茂逸
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/13873/tojo0807.pdf

墓誌銘によると、江島茂逸は士族でなく卒族と書かれています。以前、福岡藩の分限帳を調べた限りでは江島姓の藩士は見当たりませんでした。

ひょっとすると茂逸の江島家は黒田藩士の家臣であったのかも。という事は蒲池吉広に従って福岡に移った八女江嶋氏の子孫だった可能性もありますね。


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Vol 26 八女・江島氏 その1

2018年04月17日 | 八女江島氏



過去記事において江島氏の領地、石高、兵力等を推測いたしました。わずか2村を本貫とする小領主が鎌倉以来戦国末期まで家を存続出来たのは、ただ単に時の流れに任せたからではなく、様々な努力と方策を駆使してきたからであったと思われます。

小領主が生き残るうえで最も重要なものは何だったのでしょうか。それは情報ネットワークだったと私は考えます。江島と四郎丸の2村では、一族が増えるにしたがって領地が不足となります。

これは他家もそうでありましたが、嫡男以外の男子は他家の養子として家を出るか、同族、あるいは有力一族の家臣として仕官する方法です。女子は他家へ輿入れとなりますが、婚姻や養子縁組等によって他の地域の氏族と結びつきを深め、そこからもたらされる様々な情報から一族の進むべき道を判断、決定することが多々あったと思われます。

このようにして長年に渡って構築されてきた、筑後、肥前に広がった江島庶流(分家)とのネットワークは江戸期になっても継続し、江戸の末から明治、大正迄、江島本家の人々の婚姻、養子縁組、商売の協力関係などに大きな影響を与えていました。

江島氏の過去の動向を調べる上で、これらのネットワークに関わる地域から調査を行ってみました。江戸、明治、大正を生きた高祖父、曾祖父、祖父とその家族たちが深く関わった地域は筑後の八女、肥前の武雄、そして肥前の長崎、紀州和歌山などです。

そしてその予測は見事に当たり、新たな史実と江島氏の意外な一面を見る、驚くべき発見がありました。また長年不思議に思っていた、江島本家に伝わる「家紋」の謎も解けたのです。

●江島氏庶流 上蒲池氏 蒲池鎮運家臣

まず今回は八女の江島(江嶋)氏からご紹介いたします。
八女と言えば昔の群名は上妻郡でしたが、ここに古くから居住する上妻氏は肥前高木氏の庶流とされ、江島氏と同族です。戦国期においては大友幕下の高一揆衆の一員でした。上妻氏は元寇や南北朝の史料にも度々登場します。上妻氏との関係は同族のよしみもあり、古くから関係はあったと思われます。
江島氏との関係を示す傍証は見つけたのですが、確証を得る資料が足らない為、史料がそろい次第、後日にご紹介したいと思います。

八女における江島氏の史料は、山下城(現:立花町)を居城にして戦国期に隆盛を誇った蒲池氏庶流、上蒲池氏の記録に見られます。

筑後国人の旗頭、蒲池氏については皆さんよくご存じとは思いますが、簡単に説明を加えておきます。

柳川城を本城とした蒲池氏の勢力拡大を危惧した大友氏は、蒲池治久の子の代の時に蒲池氏を兄・蒲池鑑久と弟・蒲池親広の二家に分割し、双方を同格の大名分とし、蒲池氏は柳川城の蒲池鑑久の嫡流(下蒲池)と山下城(現:立花町)の蒲池親広の分家(上蒲池)としました。

蒲池氏は最盛期には、蒲池十六代目蒲池鑑盛(あきもり、宗雪)と、その子の鎮漣(しずなみ)の時で、柳川の蒲池鎮漣の嫡流は1万2,000町(約12万石)、山下の蒲池親広の孫の蒲池鎮運の庶流は8千町(約8万石)を有しました。その上蒲池、蒲池鎮運の家臣として江島姓の名前が見られます。

蒲池鑑盛、鎮漣、鎮運共に「幸若舞」を好んだと言われています。
「蒲池物語」では龍造寺隆信の謀略で明日は暗殺される運命も知らずに、幸若舞の名手であった蒲池鎮漣が舞を舞うシーンが涙を誘います。

蒲池氏が好んだ幸若舞が日本で唯一保存され、今でも演じ続けられています。それが瀬高町に伝わる「大江」の幸若舞です。下記の記述の中に鎮運家臣、「江嶋善右衛門」の名前を見る事が出来ます。


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●「大江の幸若舞」(国指定無形民族文化財)    
「瀬高町の文化財」より転載。

幸若舞は中世芸能の一つである曲舞の一流で、越前の桃井直信によって始められた一種の語り物である。
直信は幼名を幸若丸と称して、幼くして比叡山の稚児となり学問に励んでいた。彼は口拍子が巧みで、双紙舞に新たな節拍子をつけ、人々を大いに楽しませたという。
その頃はまだ特定の名称がなく、単に“舞”または“舞々”と呼ばれていた。

父の死後、越前を離れ、京に住んだ貞和2(1346)年、宮中に召され、その舞を上覧に供し、天皇より父の居住した越前に領地を賜り、これより幸若の舞は世に知られ繁昌するようになった。直信の子、弥次郎直茂の時、この舞を幸若舞と称し一派を立て、桃井の姓を幸若と改めた。

はじめは祝賀性の強いものであったが、次第に物語性を帯びるようになり、軍記物を取り入れた曲目が多くなってくるにしたがって、武士の間で愛好されるようになった。

徳川時代になってからも幕府の庇護を受けていたが、元禄以後、次第に衰え、明治維新と共にその正統は絶えた。大江の幸若舞は公式には「大頭(だいがしら)流幸若舞」と称した。幸若弥次郎の弟子に、山本四郎左衛門直義という人がいた。

彼は大頭のうえに大声であったので人呼んで大頭(だいがしら)と言われていた。彼は天性の大声で幸若の舞を節拍子おもしろく吟詠し、それが大いに世上にうけ、大頭流と呼ばれるようになり繁昌するに至った。その大頭流を継いだのが、京の町人で百足屋善兵衛という人である。この時代に大頭流は隆盛を極め、京の芝居興行を取り仕切るまでになったという。

大頭流が筑後へ流布するのは天正10(1582)年のことで、百足屋善兵衛の跡を継いだ、同じく京の町人で大沢次助幸次が当時の山下城主・蒲池鑑運に招かれて西下し家中の侍に大頭流を伝授した。この大沢次助の弟子になったものに、蒲池家の侍で田中直久・直種父子、江嶋善右衛門、牛島平右衛門等がいた。

その後、蒲池家衰退の後は主家を離れ、下妻郡溝口村(現筑後市)に住んだ田中直久の子、直種によって受け継がれた。かくて農村部に入った大頭流は直種の子、直俊から弟子の後藤兵衛幸次を経て久留米在住の猪口善右衛門直勝へ伝授され、その後、水田村の桜井次左衛門直邦へ、直邦から同村の重富次郎吉直元へ相伝された。

天明7(1787)年、大江在住の松尾平三郎増墺に小田の重富次郎吉直元から系図、装束、直伝正本が譲られ、大頭流幸若舞が相伝された。次後、大江のめえ(舞)としてその系譜は連綿と受け継がれている。

相伝の目録には四十二番が記されているが、現在では八曲だけである。平成20年に初めて「敦盛」が舞われて、現在は9曲になっている。

今日に伝存する唯一の幸若舞として、日本芸能史上極めて高く評価されている。藩政時代は毎年正月21日、柳河藩主の鎧の祝に柳川城内で演じられていたが、現在は毎年正月20日、天満宮境内に常設された舞堂において公開されている。
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【大江の幸若舞】
https://youtu.be/MENNTO1gFds

龍造寺の謀略によって下蒲池氏が滅び、名門蒲池氏の血脈を保たんと鎮運は奮闘しますが、数々の不運に見舞われます。蒲池氏存亡の危機に家臣の江島氏は・・・

以降は次回で。


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