『江島氏物語』 

歴史推理ブログ「筑後江島氏とその庶流」
    通史に無い歴史物語

Vol 29 肥前・江島氏 

2018年04月23日 | 肥前江島氏

龍造寺隆信 

今回は肥前の江島氏のご紹介です。

戦国期の文献に登場する肥前(佐賀)の江島氏は肥前の熊こと龍造寺隆信の時代からのようです。龍造寺氏も藤原姓高木氏流とされ、元を辿れば筑後江島氏と同族です。龍造寺と江島氏との関係が何時頃から始まったかはわかりませんが、龍造寺本家は鎌倉期に江島村に近い荒木の地頭職を命じられています。

ただし、隆信は龍造寺氏の本家筋ではなく分家の出身です。還俗し家督を継いだ後、内輪もめから肥前を追放され、筑後の下蒲池氏の庇護を受けて筑後の大川あたりで暮らしていたと言いますから、その頃に隆信と出会い、江島分家の者が家臣となった可能性もあるかと思われます

隆信が隠居した時のお傍衆の中に「江島監物(けんもつ)」という名が見えます。おそらく監物の子か一族であろうと思われる人物に「江島左近允(さこんのじょう)信秀」がいます。江島左近の名は次のエピソードで「北肥戦誌」に登場します。

左近の妻は龍造寺家臣「水町丹後守信定」(領地300町)の妹で、隆信が三男(鶴仁王丸)の乳母を命じた者でした。妻は多久梶峯城の戦いの中で、幼い鶴仁王丸を助け出そうとして小田鎮光の家臣に斬られます。

「江島左近允信秀」は鶴仁王丸こと後の「龍造寺家信(後藤家信)」の守役であったようで、後には重臣として、生涯を通じて家信に仕えたようです。家信は幼い頃に肥前蓮池の国人領主、小田鎮光(5000町)の養子に、小田氏滅亡の後は肥前武雄の国人領主、後藤貴明の娘婿にと、二度も他家に養子に出され、多くの戦いを経て、波乱万丈の生涯を送ります。幼い頃から臣従した江島左近も主君と同様の波乱の人生を送ったと想像できます。

家信の武雄入部の際(この時家信15歳)に従った50人の家臣の中にもその名が見られます。苦労はしたけれど江島左近にとっての幸せは、家信が武雄2万石の領主となり、後藤家が後に武雄鍋島藩として明治を迎えることが出来た事でしょう。

現在の武雄市山内町大字犬走に小字名として「江島」という地名があります。家信は天正14年(1586年)に後藤氏の居城塚崎城(武雄町)から住吉城(山内町)へ居城を移し、慶長4年(1599年)に城が焼失した為、また塚崎城に戻ります。この地名は江島左近允信秀と何か関連があるのでしょうか。情報をお持ちの方は是非ご教授ください。

なお家信に追随した50名の家臣の中には「江嶋四郎左衛門信實(しろうざえもんのぶざね)」後に江嶋治部少輔と名乗った人物がいます。詳細は不明ですが、おそらく江島左近の一門ではないかと思われます。
※資料によっては江島四郎左衛門信実の表記有り

武雄の江島一族の歴史は後藤家信の歴史そのものと言えるでしょう。
以下「後藤家信」の生涯についてウィキペディアから転載します。

(転載開始) 

後藤 家信(ごとう いえのぶ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。肥前後藤氏20代当主(武雄領主)。

●生涯
【沖田畷の戦いまで】

永禄6年(1563年)、龍造寺隆信の子として誕生。天正5年(1577年)、後藤貴明の実子・晴明(後の龍造寺家均)を龍造寺氏へ養子に出す代わりに、隆信の子・家信が貴明の娘・槌市と結婚して婿養子となった。元々後藤氏は龍造寺氏とは時期に応じて和議と敵対を繰り返す関係にあったが、隆信の勢力拡大により家信を養子に迎えざるを得なくなっていた。なお、明治維新に至るまでこの龍造寺の血脈は続く事になる。

※小田鎮光養子の件は記載されていません。

以後、龍造寺氏の合戦に参加。天正7年(1579年)、隆信の筑後国・肥後国攻めでは、家信は三池の古賀城を包囲し陥落させ、相良、米良、宇土、麻生といった肥後衆と戦いでは首800を挙げたという。天正8年(1580年)、龍造寺政家に従い柳川の蒲池鎮漣攻めに加わった。天正9年(1581年)には兄・龍造寺政家、江上家種と共に肥後に攻め入り、隈府城主・赤星統家を降伏させ、御船城主・甲斐親直、隈本城主・城親賢らについては龍造寺隆信に服属する旨の起請文を提出したため本領を安堵している。天正10年(1582年)には田尻鑑種が龍造寺隆信に背いたため、政家を大将に家信と鍋島直茂が副将を務めこれを攻めた。

また、ルイス・フロイスの『日本史』によると、同年10月、家信はイエズス会長崎副管区長ガスパール・コエリョへ使者を出し、領地の寄進と自身の入信を条件にしたイエズス会と交誼の締結を申し出たが、実父・隆信の反対に遭い断念したとされている。

【沖田畷の戦い以降】

天正12年(1584年)、島津氏・有馬氏連合軍との沖田畷の戦いにおいて父・隆信が討ち取られると、出陣した家信も敗走し、武雄の後藤山城(塚崎城)を出て、要害の地である住吉城(武雄市山内町)に居を移した。なお『フロイス日本史』によれば、隆信の死後、家信は再度コエリュにキリスト教への入信を打診している。しかし、父・隆信や龍造寺家臣の戦死や兄弟からの家信への悪辣な仕打ちなどから、気が狂って正常な判断ができなくなり、牢に入れられて監視を付される身となったと記されている。

天正15年(1587年)、豊臣秀吉の島津征伐に際し参陣し、肥後の湯浦まで攻め入ったという。天正18年(1590年)、龍造寺政家の隠居の際、家信に対しても豊臣秀吉から知行目録が下され、杵島郡のうち長島方3,379.2石、杵島郡塚崎庄9,364.8石、下松浦郡のうち有田3,659.2石、小城郡のうち東郷330.7石の合計19,703.9石が家信の知行とされた。

その後、家信は豊臣秀吉の朝鮮出兵に参加する。まず、天正20年/文禄元年(1592年)の文禄の役では加藤清正に従って、徳原城を守り、朝鮮の二王子(臨海君、順和君)を捕らえるべく兀良哈(中国東北部)まで攻め入り、その後、文禄3年(1594年)正月に帰国している。また、慶長の役では、慶長2年(1597年)再び朝鮮に渡り、翌慶長3年(1598年)の正月、蔚山籠城中の加藤清正を救出するという功績を立て、清正から大刀一振りと大砲30挺を贈られている。その後、家信は病となって帰国したためその代理として嫡子・茂綱が朝鮮に出陣している。

慶長6年(1601年)、佐賀藩鍋島氏の他、龍造寺四家(諫早、武雄、多久、須古)にも江戸への人質の差し出しが求められる江戸証人の制度が導入され、翌年、家信は三男・鍋島茂延を江戸に送っている。

元和8年(1622年)、死去。

(転載終了)

沖田畷の戦いでは、島津側の史料に「江島長門守」という侍大将らしき人物の記録があります。鍋島の陣立ての中の記載と敗戦後の終戦工作の為、江島長門守が人質となって島津に降ったというものですが、不思議な事に鍋島側の史料には記載がありません。

また、ウィキペディアには記載されていませんが、関ケ原の戦いの直後、鍋島軍と立花軍が筑後で戦った「江上八院の戦い」では後藤家信は鍋島軍の先鋒部隊として出陣しています。立花家の軍忠状によると筑後江島氏は与力として参戦し、激戦で数名の者が負傷した記録があります。筑後江島氏と肥前江島氏の同族同士の戦いがあったのかもしれません。


●北肥戦誌 第1巻
https://books.google.co.jp/books?id=S42kzFyYHrcC&pg=PT312&dq=%E5%8C%97%E8%82%A5%E6%88%A6%E8%AA%8C%E3%80%80%E9%AB%98%E6%9C%A8&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwiWgNnn-87SAhUCHpQKHbXWAVUQ6AEIHDAA#v=snippet&q=%E5%8C%97%E8%82%A5%E6%88%A6%E8%AA%8C%E3%80%80&f=false

●北肥戦誌 第2巻
https://books.google.co.jp/books?id=L5LUIok6xn0C&printsec=frontcover&dq=%E5%8C%97%E8%82%A5%E6%88%A6%E8%AA%8C&hl=ja&sa=X&redir_esc=y#v=onepage&q=%E5%8C%97%E8%82%A5%E6%88%A6%E8%AA%8C&f=false

●後藤家信
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%AE%B6%E4%BF%A1

●武家家伝 龍造寺氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ryuzo_k.html

●武家家伝 肥前小田氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/hiz_oda.html
●武家家伝 肥前後藤氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/hiz_goto.html



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Vol 20 もう一つの江島村 「肥前江島村」

2018年03月20日 | 肥前江島氏



●肥前国江島村(佐賀県鳥栖市江島町)

国土地理院の等高線地図で現在の江島、四郎丸、青木島等の海抜を見ますと。標高3.5mから4.5mで、全く高台が見られません。歴史を振り返ってみると、長年に渡って多くの水禍に見舞われたことが記録に残っています。大正期にも二度の大水害が発生したようで、祖父の家や家業の瓦工場が流されました。最近は見ることも無いようですが、その当時は家の軒下に小舟が吊ってあり、水害時の避難用に使用したそうです。

中世から戦国期にかけても同様に江島一帯は幾多の水害や戦禍に見舞われました。その間に江島村や四郎丸村の村人達はどのように身を守ったのでしょうか。また、江島、四郎丸の一帯は幾度も戦場となったようです。戦時における女子供、老人などの非戦闘員を一時的に避難させる隠し里的な場所は何処だったのか、その場所ではなかったかと思われる場所があるのです。

それが江戸期に鍋島藩領であった肥前の「江島村」です。現在は「佐賀県鳥栖市江島町」として地名が残っています。肥前江島村の村名の発祥は筑後江島村のような地理的特徴から起こったのではなく、筑後江島氏の人々がこの地との深い関係を持っていたことから起こったのではないかと私は考えています。

慶長期の記録には江島村の村名は見られないようです。江戸期鍋島領となってから、村名が見られますが、江島石王社の伝承等から、江島と言う地名は戦国期には既にあったようです。

鳥栖市は市で編纂した歴史的資料の一部や史跡発掘調査の結果をネットで公表しています。私のように地元在住でない者にとっては大変ありがたい事です。
今回の記事を書くにあたってもその資料を活用させて頂きました。

福岡県や佐賀県の県史等の一部を国会図書館と提携する図書館内で閲覧することが出来ますが、一回の閲覧時間が30分(延長可)で、資料をじっくりと読み込むには時間が無さ過ぎます。自宅で、何時でも、ゆっくりと閲覧できることはどれだけ便利なことでしょうか。

著作権の問題があるのでしょうが、県史や郷土史作成事業は営利では無いのですから、出版や書籍販売に限らず、誰もが資料に24時間アクセス出来るネット環境を整えてもらえるよう関係者の方に切望いたします。県史や郷土史は作成することが目的ではなく、一人でも多くの人達に読んでもらう事こそが県史作成の主たる目的ではないかと思う次第です。


話を戻しましょう。

鳥栖地域は魏志倭人伝に比定される国があるように古くから文明、文化が花開いた地域でした。江島地区の遺跡からも銅鐸の鋳型が発見されるなど古代史上重要な発見がなされています。江島地区に広がる丘陵地は海抜10数mから最大60m近い標高があります。古墳時代にはこの地域の豪族の墓とみられる古墳が点在しています。筑後川の曲がりくねった古い流れの跡に広がる洪水平野は、戦国期の末までは湿地帯であったようで、その後江戸期にかけて開かれました。

中世における江島地域の記録はほとんど見られず、少弐氏あるいは朝日氏、筑紫氏の領地であったろうと推測されるだけです。江島地域の丘陵地は古墳時代以降、古代の遺跡が見られず、中世以降、住宅跡が発掘されています。古墳のみで城跡がないことは、丘陵地帯が山城を構えるほどの標高が無い事、低地部が湿地帯で人家も無く、地政学的な戦略価値が無かったなどの要因が考えられます。


●千栗八幡宮と江島氏の関係

もう一つの要因として、次のように考えられます。江島地区の丘陵地に対峙するかのように、筑後川に面した高地があります。ある時は肥前一宮として肥前の信仰の中心であった、千栗(ちりく)八幡宮が鎮座する標高32mの台地です。当然ながら江島村にあった江島石王社も千栗八幡宮の分社であろうと推定されます。

ちなみに「九州.沖繩の民俗: 佐賀県編」(三一書房)に村田八幡宮の縁起が採録されています。

「後奈良天皇御代、足利義晴将軍の時(1526ー1546)に村田石見というものが村田村に居住していた。屋敷内に榎があったが、或夜江島八幡宮石王より数羽の鳩が飛来し、榎に群れていたが北西に飛び去って今の八幡山へ移って行った。石見は霊験を感じて、時の養父郡領主筑紫惟門公に申し上げ、八幡山に一宇を建立して御神体を石王より遷し」との伝承があります。

当初は領主の筑紫氏が社殿を建立し。島津軍の攻撃にあって焼失しますが、後に鍋島氏が再興しています。この伝承により、村田八幡宮よりも江島八幡宮石王社の成立がより古い事。さらに村田八幡宮は江島八幡宮石王社の分社となります。

私見ではありますが、ある時期、江島地区の丘陵一帯は千栗(ちりく)八幡宮の神領として、いずれの氏族からも支配されない中立地帯であったのではないかと推測しています。

戦国末期に、この千栗八幡宮と江島氏の浅からぬ関係を示す記述があります。私はまだこの記述のある元資料を確認した訳ではないので、断定はできませんが、次のような内容です。
「千栗八幡宮の大宮司を務めた中氏は、龍造寺氏に仕えたが、龍造寺が滅んだ後、筑後江島氏に仕官し、その後裔は西牟田に住んだ」という記述です。

龍造寺隆信には側近として、江島氏の庶流(分家)の江島左近允信秀や江嶋四郎左衛門信實などの名前が見られ、後に隆信三男の龍造寺家信の重臣として武雄に追随しました。また筑後江島氏宗家も大友氏を離れ、龍造寺氏の旗下となっています。

中氏は龍造寺に仕えながら、主家筋の家臣、肥前江島氏を頼らず、何故筑後の江島宗家に仕官したのでしょうか。これは両者の間に古くからの密接な関係があったという証ではないでしょうか。

江島氏の本家である、肥前高木氏は高木八幡宮の大宮司を兼ねていました。肥前での八幡宮繋がりでの千栗八幡宮との関係が伺われます。


●江島氏の隠れ里?

船を操ることに秀でた江島氏にとって、肥前の江島は大変都合の良い場所でした。筑後川と沼川等を船で行き来すれば、本当に目と鼻の先です。戦時や水禍時に非戦闘員や村人を避難させるには最適の地であったろうと思われます。また筑後江島村にはない山の幸や、木材、炭,竹などの供給を行っていたのかもしれません。竹木は重要な軍事物資であり、大名は度々御触れを出して許可無き伐採を禁じたほどです。

古くからこの丘陵地に筑後江島氏の分家や筑後江島村の村人が住み着き、地名を肥前の江島として名付け、当初は隠れ里的な役割を果たして来たのではないかと思うのです。

最後に我が家に伝わる話では、江戸から明治期にかけての先祖達は、祝い事の席で、余興に村田八幡宮と江島石王社に伝わる浮立を踊ったというのです。




国土地理院 標高地図
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