『江島氏物語』 

歴史推理ブログ「筑後江島氏とその庶流」
    通史に無い歴史物語

Vol 60 違い鷹ノ羽の謎 2 「小國・江島城 (屋形尾の城)」

2018年09月17日 | 肥前(小国)江島氏

鳶巣山暁月


江島和泉守の居城、江島城の記事は1960年発刊の「小国郷史」禿迷盧(かむろめいろ)著 のものです。著者の禿氏はその珍しい名前から、小国の北里氏の分流のご子孫と推察しますが、地元出身の郷土史研究家ではないかと思われます。

その小国郷史の文中二か所に江島和泉守の記事が紹介されています。また江島氏の墳墓に関する古文書も現存しているようです。


「小国郷史」より転載

★【資料1】p170―p171

文明二年(1470)「古城史考」によると、田原(たばる)城は日田地頭、日田詮永(のりなが)が江島和泉守を遣わして、阿蘇氏にそなえて応永年間(1394—1428)に築城したもので、文明(1469―1487)の頃迄在城した。とあるから約五、六十年在城したであろう。

田原城は下城田原の北方丘陵で現在も上屋形、下屋形、城の迫(せまり)等の地名が残っている。当時阿蘇氏は惣領庶子家の二派に分れて争っていた時代で、むしろ日田氏がここまで進出したとみるべきであろう。文明年間に江島氏は引き上げたが、その文明十七年阿蘇氏の内紛が解消している事から考えても、阿蘇氏統一を見て引き上げたものと解すべきである。

日田地頭日田詮永が阿蘇氏の日田侵入を防ぐ第一線として築かしめたものというが、当時阿蘇氏は惣領庶子二派に分れて争っていた時代で、むしろ日田氏がここまで進出したとみるべきであろう。文明年間に江島氏は引き上げたが、その文明十七年阿蘇氏の内紛が解消している事から考えても、阿蘇氏統一を見て引き上げたものと解すべきである。


★【資料2】

【杖立竹原氏文書】

一.文明二年(1470)七月九日、江島和泉守の●領御儀家中十二人御知行五百石、墓前は鹿の向塚なり。

一.河内九郎左衛門重家 右御家老四人扶持なり、下形野に墓あり上に在り。 

一.宇田五郎左衛門兼水 二人扶持、文明十四年(1482)八月十五日五十二才、下屋形野に墓あり上に在り。

一.兼水女房、下屋形野に墓あり上に在り。

一.真言宗高野山末寺、五角山雲山寺専林院、上屋形の上にあり。

一.天台宗鳥巣山向林寺幸林院、秋原向に在り、和泉守の寺なり。

一.金角山円林寺法春院、秋原上にあり。

※管理人註:下形野→下屋形野
(この文書の作成時期は江戸時代と思われる)


右文献より見れば城の付近、上屋敷、下屋敷に墓と寺とあったに違いないが、今は畑となり、五輪塔の石が畑の岸に、そこそこあったと宮崎老人は話された。多分開墾した時出土したものを墓石と知らずに捨て置いたものと見ゆる。

この文献は高村某から竹原氏の数台前の人に借金の質に入れたものという。古城考と年代もあっている。


★【資料3】 p216

「小国の城址」  

江島城は下城の田原にある。今も上屋形、下屋形の地名が残っている。屋形は館で城主の居住邸のあった処である。日田氏が阿蘇氏の侵入を防衛する第一線として、江島和泉守に構築させて、応永年間から文明年間まで居たという。

一名屋形尾の城ともいう。尚時阿蘇氏は惣領庶子家の二派に分れて争っていた時代ゆえ、むしろ日田氏が小国に進出していたとみるべきであろう。文明年間の末(文明17)には内紛も解消したので、江島氏も引き揚げたのか、別に阿蘇氏支配下の小国勢と戦った文献も伝説もない。江島氏一統の墓地等の文献は既に前記した。

※屋形尾は矢形尾とも表記

(転載終了)


●校正ミスについて

まずは資料1をご覧になって、内容に矛盾する部分がある事にお気づきになりましたか。

それは文頭の「文明二年(1470)「古城史考」によると、田原城は日田地頭、日田詮永が江島和泉守を遣わして、阿蘇氏にそなえて応永年間(1394—1428)に築城したもので、文明(1469―1487)の頃迄在城した」の部分です。

文章をそのまま受け取ると日田詮永が江島和泉守を遣わしたのが文明二年と取れます。しかし阿蘇氏に備えて築城したのが応永年間ですから、時代が合いません。資料2,3と突き合わせてみると、文明二年は資料2の和泉守の没年と同じなので、多分校正ミスか一次資料の誤記であろうと思われます。


●一次史料、「古城史考」の検証

この記事の元記事となった一次史料「古城史考」は、他の文中では「古城考」とも書かれており、著者名など詳細情報が無い為、正式な書名は特定出来ませんでした。

そこで、熊本藩士、森本一端による「古城考3巻」(肥後文献叢書. 第1巻)。および 宇土藩士、辛島道珠著の「肥州古城主考」、あるいは「肥州古城主考」を増補改訂した森本一端の「新篇肥後古城主考」を探してみました。

森本一端による「古城考」「新篇肥後古城主考」はデジタル化されていましたが、小国郷田原の江島城の記事は見当たりませんでした。

また辛島道珠著の「肥州古城主考」は肥後文献叢書の多くががネット閲覧不可なので現在のところ確認できません。

ともあれ、禿氏が記事の参考にした一次資料の「古城史考」には「日田詮永が江島和泉守を遣わした」とあるわけですから、その検証から始める事にしました。


●日田詮永の没年

まずは日田詮永に関して、詮永は九州探題・今川了俊の北朝方につき、南朝方の菊池、阿蘇連合軍と戦って、応安七年(1374)(※没年出典:豊後国志)水島の変に出陣し、正確にはその後、南朝方の激烈な追撃にあって同年、筑後国山崎城の戦いで討死しています。


小国郷史の記事には「応永年間(1394—1428)に築城したもので」とありますから、和泉守が小国に遣わされたのは詮永の死後最短20年から最長54年の後という事になり、和泉守に命じた人物は日田詮永では無いという事実が明らかになりました。


●江島和泉守の出自は何処

第二は江島和泉守の出自が筑後江島氏、豊前(栗田流)江島氏、財津流江島氏のいずれかという検証です。

「古城史考」が書かれたのは江戸期に入ってからであり、既に財津流江島氏は細川家家臣として阿蘇に定着していました。当然阿蘇の江島氏は財津氏の分流であり、日田氏の一族という認識と、江島氏は日田で分流したとの固定観念があったのではないでしょうか。

Vol 53  肥後・財津流江島氏とそのルーツに書きましたように、財津氏が豊前に居を移し、分流の一家が江島姓を名乗るのは、日田詮永の死後200年以上、後の事になります。
したがって、江島和泉守は日田氏の一族や家臣ではないという事になります。

日田詮永の時代は、宇佐の(栗田流)江島氏は江島姓を名乗り始めたばかりの頃ですが、宇佐の一国人領主であり、当時の諸状況を考慮しても日田氏に仕えた可能性はほとんど無いと考えられます。但し、その確証となる資料はありません。

その代わりと言っては何ですが、江島和泉守は筑後江島氏か?築城の命令をしたものは誰なのか?を、傍証を交えた考察で明らかにして行きたいと思います。

続きは次回で。


★違い鷹ノ羽の謎



その1 何故、筑後江島氏が家紋に違い鷹ノ羽を用いたのか?
その2 何故、福岡には違い鷹ノ羽を家紋にした江島家がないのか?
その3 何故、違い鷹ノ羽を家紋とする江島家が九州5県に拡がったか?


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