『江島氏物語』 

歴史推理ブログ「筑後江島氏とその庶流」
    通史に無い歴史物語

Vol 32 対馬・江島氏 その3 少弐・宗・江島と目結紋

2018年05月02日 | 対馬江島氏



平安期において、江島の対岸神崎庄に宋船が出入りし、日宋貿易が平氏によって行われ、平氏隆盛の礎を築いた事は過去記事で述べました。中国との貿易が中央の権力者によって統制されるまでは、筑後川沿岸の諸氏が私的に大陸との交易を行い繁栄していた事は史実に明らかです。

現代の我々が想像する以上に、古代の人々は大陸との交流を行っていたようです。このような経緯から、中世には外洋を航海する操船技術を持つ海人達の子孫が筑後川沿いには点在しており、各地と船での交易を積極的に行っていたようです。

対馬の宗氏と筑後との関係を示唆する好例として、今回は対馬家家臣の柳川氏をご紹介します。
柳川氏の名は徳川幕府をも巻き込んだ、対馬藩のお家騒動、「柳川一件」の当事者として知られています。この事件については話が長くなるので下記記事をご参照ください。

●大名騒動録 柳川一件
http://roadsite.road.jp/history/soudou/soudou-yanagawa.html


さて、私が注目したのは柳川氏の出自と肥前における動向です。

●「宗氏重臣になるまでの柳川氏について」 村瀬達郎 
 ゆけむり史学第3号(2009)より抜粋、一部修正

(宗氏家譜略によると)
柳川氏の父祖は筑後柳川の出身であり、対馬を行き来していた。また柳川氏は兄弟で対馬に渡り、兄弟共に津奈弥八郎調親に仕えた。

兄の式部(後に調長と改名)は調親に子息がなかった為に養子となった。弟の甚三郎(後に調信(しげのぶ)と改名)は調親の末娘を妻とした。

甚三郎は外国の物資を貿易し、日本各地交易して生計を立てていた。甚三郎は調親の家臣として佐賀村の柳河右馬助調正(対馬の柳川氏とは氏族が違う)という人物と縁を持ち、肥前を通じて朝鮮の貿易品を日本各地に流通させていたようである。

しかし、津奈弥八郎調親が当主の宗義調に謀反を起こした後は、佐賀村の柳河右馬助の養子となり、氏を柳川に改めている。そして義父調親の罪を謝罪し、妻の血筋が宗氏であった為に宗義調(そうよししげ)に仕えるようになった。


抜粋終了

対馬の朝鮮貿易は基本的に物々交換であったようです。したがって朝鮮からの貿易品を売りさばく必要があり、多くの商人たちが対馬と九州を往来した様子が見えてきます。また対馬の古60人の商人達も自ら朝鮮との貿易品を日本国内で売り、また輸出品である日本の特産品を買い付ける必要があり、博多津や肥前を重要拠点としていたようです。

この記録から推測しますと柳川氏は筑後と対馬を往来し、商売を行っていたようです。

また甚三郎が佐賀村の柳河右馬助調正と縁を持ったのは、宗氏が古くに肥前に居を移して以来のネットワークがすでに構築されていたからとも推測出来ます。
また肥前は古くから江戸期にかけて、宗氏にとっても重要な販路でありました。


さて江島氏が宗氏の家臣となった経緯については、史料がないので推測の域は出ないのですが、私は次のように考えています。

「筑後誌略」に「江島與兵衛(よひょうえ)三潴郡江島村の人、相伝ふ少弐の末也」と記述があります。江島氏は少弐の末裔という世間の認識があった事を表しています。江島氏は本来藤原姓高木氏の庶流ですが、少弐氏が元寇以来筑前、筑後、肥前に強大な支配力を持つに従って、少弐氏の一門から養子を迎え入れる等、積極的な接近策を取ったようです。その一つの証拠として家紋があげられます。


肥前高木氏の家紋は「十二日足」という日足紋を使用していました。日足とは太陽が輝く様子を紋章化したもので、現在の「旭日旗」や「軍艦旗」の基となったものです。


肥前高木氏 「十二日足」

草野氏、龍造寺氏、上妻氏など高木氏の庶流は形象を少し変えた「日足紋」を使用していました。


草野氏 「十二日足」

では江島氏はどうであったのか、「都道府県別姓氏家紋大事典」西日本編によると、福岡の江島氏(筑後高木氏族)は「丸に四ツ目」の目結(めゆい)紋を使用していたようです。





筑後江島氏 「丸に四ツ目」※丸に平四ツ目、丸に隅立四ツ目

おそらく江島氏は少弐氏との関係が深まるにつれて、当初の日足紋を目結紋に代えたのでしょう。この家紋が江島氏は少弐の末という人々の認識を形成したものと思われます。


少弐氏の家紋(定紋)は「寄懸り目結(よりかかりめゆい)」、別名「隅立て四ツ目」を使用していました。少弐氏「藤原姓秀郷流」の庶流である筑紫氏も定紋は「隅立て四ツ目」です。


少弐氏 筑紫氏 宗氏 「隅立て四ツ目」(別名:寄懸り目結)

筑後江島氏の隠し里と推察される、肥前江島村の周囲は筑紫氏や少弐庶流の朝日氏の領地でした。少弐一門の印「目結紋」は、村の平和を守るために効力があったのかもしれません。


また、本来は「桓武平氏知盛流」であるはずの宗氏の定紋は「隅立て四ツ目」替紋は「丸に平四ツ目」です。つまり主家の家紋を賜った訳です。これからも少弐氏と宗氏の深い関係が伺えます。

宗氏のもう一つの家紋(替紋)「丸に平四ツ目」は少弐氏の軍勢と並んだ時に、主家への遠慮と両家の区別をつけるために使用したと思われますが、これは何と江島氏の「丸に四ツ目」と同じ家紋なのです。


宗氏 「丸に平四ツ目」 

江島氏と少弐氏の関係。少弐氏と宗氏との関係。江島氏と肥前との関係。江島氏の特技の操船技術、海との関り。等を考えれば両者が如何に近い関係であったかが分かります。江島庶家のひとつが宗氏と出会い、仕官したとしても何の不思議はありません。その機会は常時あったと思われます。

江島姓の人名が宗氏の記録に現れるのは永正期(1504~1521)からのようですが、宗氏の家臣となった時期は古60人の由来通り、嘉吉元年(1441)以前ではないでしょうか。


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