『江島氏物語』 

歴史推理ブログ「筑後江島氏とその庶流」
    通史に無い歴史物語

Vol 35  大友宗麟書状と筑後国衆

2018年05月13日 | 江島氏

大友義統(よしむね)

戦国期の筑後国人領主や人々の暮らしが、どのようであったかを知る事は難しいのですが、その一端を伺える研究論文がオープンアクセスとなっていますので、ご紹介したいと思います。
論文のタイトルは「中世後期の陸の道・川の道 : 筑後地方」(石橋 新次)です。

J-STAGE
中世後期の陸の道・川の道 : 筑後地方
石橋 新次
https://www.jstage.jst.go.jp/article/kotsushi/83/0/83_KJ00009976966/_article/-char/ja/

本文のp8で「天正六年筑後国領主附」から筑後の国人領主のについて述べられており、その史料として三潴の国人領主達に宛てた「大友宗麟の書状」が紹介されています。

その宛名に書かれた人物の一人が、江島氏当主と思われる「江嶋与兵衛尉(えじまよひょうえのじょう)」です。当時の書状には元号を書かない事が多くありましたので、年代は不詳です。江戸期の文献で紹介される江嶋与兵衛の記事元となった、一次史料です。

(p8〰p9抜粋転載)

この「天正六年筑後国領主附」によれば、氏名だけの者も含め小は所領数町から大は六百七十町余の領主まで九十五人に及ぶ国人名が見える。筑後国にいかに多くの国人が割拠していたかが判るが、そのうちには十二人の三瀦郡在住の国人領主が含まれている。

この三瀦郡の国人領主の地縁的結合を窺わせる史料が残っている。大友宗麟書状で上包に「(前略)三瀦郡諸氏へ(後略)」とあり、九名の国人領主名が連ねられている。内容は、九名の国人領主が香五十具を大友氏に進上したことに対する礼状であり、これら国人領主相互間に緊密な関係があったことが窺われる。

また、年不詳ではあるが三瀦郡衆中宛大友義鑑書状がある。宛先が三瀦郡衆中となっており、地域を単位とする衆的結合が形成されていたことが判る。


大友宗麟像(大徳寺塔頭瑞峯院所蔵)

史料1 大友宗麟書状

(上包)
「三月十一日筑後三瀦郡諸氏へ被為下置候御書  但諸氏連名一通」
為今年之儀、合香五十具給候喜悦候、猶浦上左京入道
可申候、恐々謹言、
 
三月十一日            宗麟(花押)
  津村山城守殿
  酒見宮内少輔殿
  木室左馬助殿
  都地左馬助殿
  高三瀦式部少輔殿
  隈右京亮殿
  諸富源七郎殿
  江嶋与兵衛尉殿
  斉藤三河守殿

(転載終了)

歴史書では、大友氏は筑後支配にあたり、街道の主要拠点を直轄地とし、主要な津(川湊)には番所を配置して船や人の出入りを監視し、領内には譜代の家臣を配置(目付、耳聞き)して不穏な動きを探っていたとあります。

また高一揆衆に正式な官位を与え、直参として、大身の国人領主を監視させ、牽制させたという記述がよく見られます。このような記述は、筑後は大友氏の圧政下にあったかのような印象を受けますが、実際はどの様であったか気になるところです。

過去記事で、江島氏が地の利と得意技を活かし、対馬江島氏とのルートを利用して力を蓄えたのではないかという私的な仮説を紹介しました。江島氏の商業活動が筑後川の水運を利用して実際に可能であったかの検証中に見つけたのがこの論文でした。

論文を読み進めますと、市立(定期市の開催)や祭りに関わる権限は高良玉垂宮の大祝(丹波氏)の采配下に置かれ、大祝、高一揆衆、庄内衆、郡衆等の武家や商人、職人等が一体となってとり行われていた様子が分かります。

江島氏は、本来は監視すべき対象の大身の蒲池氏とも良好な関係を結んでいた事も分っていますし、大友氏が独裁的な強権政治を強いて、常時国衆を締め付けていた訳でもなさそうです。言い換えるならば、平時においては、国人領主の自治権や適正な商業活動を容認していたという事になります。

大友氏にとっても商業活動によって国人領主が経済的に豊かになる事は、結果的に大友勢力の兵力増大に繋がります。また市からの税収が得られることは大友氏にとっても歓迎すべきことであったでしょう。

筑後の国人衆によく対比されるのが豊前宇佐郡の国人衆です。筑後同様、数多くの国人領主が乱立していたのですが、筑後と違い領地をめぐる小競り合いが頻発していました。命に従わぬ国人衆に業を煮やした大友宗麟は宇佐に兵を送り、「宇佐征伐」と称される武力鎮圧を行っています。

一方、筑後国人衆は地縁、血縁、姻戚関係によって古くから結ばれ、また争いを好まぬ地域的な気質も相まって、国人同士での争いはほとんど見られません。それらの理由に加えて、高良玉垂宮という古代から続く宗教的紐帯による結束も強かったと思われます。

宗麟書状の諸氏の居館地は現材の久留米市や大川市の筑後川沿いまたは川湊にありました。諸氏が筑後川を通じて経済的な互恵関係を結んでいた可能性も考えられます。舶来好みの宗麟に贈られたお香は、対馬江島氏によってもたらされた、半島からの舶載品であったのかもしれません。

豊後.豊前・筑後・筑前・肥後・肥前の六ケ国と伊予・日向の半国に大名領国制を展開した大友氏の勢いも、天正6年(1578年)11月、耳川の戦いで島津義久に惨敗し、勢いに陰りが見えはじめます。竜造寺氏の筑後侵攻が始まると、大友から離反する国人領主も増え、江島氏や筑後の国衆は動乱の嵐に巻き込まれていきます。

筑後領主附は天正6年初頭に複数書写されたものですが、島津との緊張関係が強まる中で、筑後の勢力分析の資料として書写されたのかもしれません。
それに対し、文頭の大友宗麟書状は大友氏と筑後国衆が、蜜月関係にあった良き時代に書かれたもののように思えます。

石橋 新次氏の論文には他にも興味深い話が多数紹介されています。
上記のURLからPDFファイルがダウンロードできます。


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