今日は仕事が休みの友達と久しぶりに吉備路へドライブしてきました。
まずは鬼城(きのじょう)ネット情報を添付しました。
桃太郎説話や「温羅(うら)伝説」の舞台として、古くから親しまれてきた鬼ノ城(きのじょう)。その築城の目的については、663年の白村江(はくすきのえ・はくそんこう)の戦いにおける敗北から、唐・新羅(とう・しらぎ)の連合軍が本土に侵攻するのではないかと危機感を抱いた当時の政権が、西日本各地に築かせた古代山城の一つであるという説がよく知られています。しかし鬼ノ城は、『日本書紀(にほんしょき)』などには一切登場せず、築かれた時期についても様々な説があり、未だ多くの謎に包まれた遺跡です。
その後、足守街並み保存地区へあいにく資料館などは休館日でブラブラ散策してきました。
足守藩主木下家は、平氏の出身でもとは杉原と称していました。杉原家定は織田信長の家臣でしたが、妹の「ねね」は、木下籐吉郎(後の羽柴秀吉・豊臣秀吉)に嫁ぎ、秀吉の天下人に伴って「北の政所」となりました。このため、ねねの実家が秀吉一族として木下姓を名乗ることを許され、さらに豊臣の称号も与えられました。
関が原合戦に際して、2万5千石を領有して姫路城主であった木下家定は、北の政所を守護して中立を採り、合戦の後の慶長6年(1601)3月27日に、同じ石高で備中国足守に所領替となりました。ここに足守藩主木下家が始まり、一時中断があったものの、家定の子孫が明治維新まで13代にわたって藩主として、足守陣屋町の整備に尽力しました。
最後は定番の備中国分寺へ ここではもう菜の花が満開でした
聖武天皇の発願によって創建された国分寺の一つです。建物は南北朝時代に焼失したと伝えられ、現在の建物は江戸時代中期以降に再建されました。境内にそびえる五重塔は、県内唯一のもので吉備路の代表的な景観となっています
まずは鬼城(きのじょう)ネット情報を添付しました。
桃太郎説話や「温羅(うら)伝説」の舞台として、古くから親しまれてきた鬼ノ城(きのじょう)。その築城の目的については、663年の白村江(はくすきのえ・はくそんこう)の戦いにおける敗北から、唐・新羅(とう・しらぎ)の連合軍が本土に侵攻するのではないかと危機感を抱いた当時の政権が、西日本各地に築かせた古代山城の一つであるという説がよく知られています。しかし鬼ノ城は、『日本書紀(にほんしょき)』などには一切登場せず、築かれた時期についても様々な説があり、未だ多くの謎に包まれた遺跡です。
その後、足守街並み保存地区へあいにく資料館などは休館日でブラブラ散策してきました。
足守藩主木下家は、平氏の出身でもとは杉原と称していました。杉原家定は織田信長の家臣でしたが、妹の「ねね」は、木下籐吉郎(後の羽柴秀吉・豊臣秀吉)に嫁ぎ、秀吉の天下人に伴って「北の政所」となりました。このため、ねねの実家が秀吉一族として木下姓を名乗ることを許され、さらに豊臣の称号も与えられました。
関が原合戦に際して、2万5千石を領有して姫路城主であった木下家定は、北の政所を守護して中立を採り、合戦の後の慶長6年(1601)3月27日に、同じ石高で備中国足守に所領替となりました。ここに足守藩主木下家が始まり、一時中断があったものの、家定の子孫が明治維新まで13代にわたって藩主として、足守陣屋町の整備に尽力しました。
最後は定番の備中国分寺へ ここではもう菜の花が満開でした
聖武天皇の発願によって創建された国分寺の一つです。建物は南北朝時代に焼失したと伝えられ、現在の建物は江戸時代中期以降に再建されました。境内にそびえる五重塔は、県内唯一のもので吉備路の代表的な景観となっています
鬼城
足守街並み保存地区
備中国分寺
足守街並み保存地区
備中国分寺