(まだまだしぶとい) チラシの裏日記

鉄道写真中心に、撮影行記やその思い出話、音楽鑑賞記などを

あぁ伝説の通学列車

2020年01月28日 | ネットあれこれ
昭和39年10月改正時、奥羽本線。


凡例
 オハ:オハ35、61
 オハフ:オハフ33、61
 オハユニ:オハユニ61

 こういう風に読み替えてもらえれば。

 俺の叔母が「市内」(←この場合、山形市内を指す)まで通学してた時代。貧乏なのに私立の女子高に、バイトしながら通ってた話とか聞いてたので、大変だったんだな・・・とか幼い砌に思ったものだ。
 で数えたら現車13両。
 あの、50系客車で走った423レとタメとか、うわぁ・・・俺の高校の用務員さん(山形南校卒・金失である)から聞いた所によると、あんまり列車の編成が長過ぎて、ホームからはみ出て前出しされた客車には、ホームが終わった先の駅構内の地べたから上がって乗ってたとか。
 そして当時の時刻表、電子書籍で出てたんで買って読んでみた。

下り太線の下から出発。


上りは太線の下のキハDに接続

 因みに昭和39年の奥羽本線の「南線」では、C51が居なくなり、秋田区のDF50と他線の中古で米沢、新庄両機関区に転属してきたC57が客レ牽引に充当されていた。山形~新庄間なんて、袖崎~大石田間と芦沢~舟形間位にしかトンネルはない筈だから、恐らく当時は後者の方が牽引してたのではないか。叔母から改めて話が聞ければいいのだが。
 で、この四年後のヨンサントオの改正、要は客レ急行「鳥海」が「たざわ」になって、更にDC化して上下「おが1号」に化けた改正では長距離客レ鈍行の整理が行われる訳だが、その結果で朝の通勤通学時間帯に片道だけの、上ノ山(現、かみのやま温泉)発楯岡(現、村山)行きなる珍妙な客レが設定される。
 恐らく上ノ山まで回送で上った後、朝の8時過ぎに楯岡に着いた列車は機関車と客車とで別れて運用され、機関車は貨レでも牽いて、客車は8時半過ぎに到着した上り客レに連結されて、それぞれ山形まで上っていったのだろう。通学時間が過ぎた、楯岡駅で行われる客車入れ換え。見てみたかった・・・って、俺が生まれた時にも設定あった訳だから、見てたかも乗ったかも分からん。何せ今は亡き婆ちゃんが「汽車、なぐなったさげ便わるぐなったは・・・」とこぼしてたし。
 汽車通学って経験ないので、50年前の"汽車通"ってどんなだったか、切ない想像をしてみた。
 

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