在宅介護から6ヶ月・・・
優先するのは自分か親か

私の母親は、昭和8生まれの88歳。父親は昭和2年生まれだから生きていれば95歳だが、
16年前に肝臓がんで亡くなった。親との二世帯同居を始めて10年目に父は逝ってしまった。
一人になった母親は、葬儀が終わるとその悲しみも見せず、気丈にも元気で活動的な日々を過ご
し、友達も増えて楽しく暮らしている様に見えた。普段の生活パターンは私たちとはまったく違
うし、当時共稼ぎしていた私たちとは、母親の生活パターンに合わせる余地は無かった。
二世帯住宅で共有していたのは、玄関と風呂だけでお風呂も夏場にはシャワーで済ませる私たち
に対し、母親は風呂派だった。食事をする時間も合わないし、好みも違えば必然的に二世帯各自
の食事となる。母親がどんな食事をしていたのか、普段は気にする事無く他人のように過ごして
いたと言っても過言では無い。車を乗る私たちに対し、母親の移動手段は徒歩か自転車だったが、
転んでケガをしても私たちには内緒で知らぬ振りをした事もあった。自転車を止めさせタクシー
の利用を進めていながら、自分たちのアッシー役は極力避けた。
それは、母親のわがままに振り回される事への拒否反応で、いつもこちらの都合を聞かずに用を
足すために「車に乗せろ」と言う傲慢さが原因だった。
夫婦の休みは、思いっきり登山で2~3日家を留守にする事は数え切れない。でも、元気だった
から、愛犬が居た時も敢えて安心して留守を任せられたし、食事の心配も無かった事は今考える
と感謝だった。
同居して27年、親子の会話でも嫁姑の会話でもこの間に色々な事があったわが家であるが、自
己主義的でわがままな母親と直視せずに過ごす事で、争いごとをずっと避けて来た気がする。
「長男だから親の面倒を見るのは当たり前」そんな時代に生まれた自分だからそう言われればそ
こに違和感は無かったが、妻も含めて堪え難き事情は色々あったと事は事実である。
父親が生前の時、母親は面倒な事はすべて父親に任せる生活だった。それは、生まれ付いた家庭
環境の事情もあり小学校すら卒業していなかった母は、字も書けず読む事もままならかった。
働く事と世間体だけは人一倍で、いわゆるかかあ天下の家庭で大蔵大臣でもあった・・。言葉少
ない父親は、国鉄マンで中学校を卒業してから鉄道学校に入学しその間に戦争を体験している。
終戦復員後も再び国鉄に復帰し定年退職まで働いてくれた。労働組合の委員長や町議会議員3期
も務めながら定年後は、すべての役職から身を引いて悠々自適な年金生活者となっていた。趣味
は海釣りとマラソン、同居してからは山登りもするようになり健康的ではあったが、酒とタバコ
が好きだった事が玉の傷だったかも知れない。
50年以上夫婦をして来た両親だが、私たちも間もなく43周年となる訳でその間に子供を育て
旅立ちを見守って来た事は変わらい。ただ、時代も違うし生きて来た環境も考え方も社会も違っ
ている訳だが、今の母親を見ていると「母の人生ってなんだろう?」とふと思ってしまう。
人間誰しもがいつか必ず死ぬ訳で、病気もすればケガもする。長寿大国日本と呼ばれながらも、
死ぬまで悠々自適で幸福感を持ったまま健康で最後を迎える人は少ないだろう。突然のように介
護状態となった母親だが、本人ですら何故そうなってしまったのかと考える力は今は無いだろう。
会話の中に「パァーになった」「なんも分からん」と愚痴る事も度々だが、それも愚痴ではない
かも知れない・・。
そんな母親の在宅介護が始まってから早半年が過ぎた。
当初から不安だらけのスタートだったが、介護サービスの存在を知り地元施設の利用もスムーズ
に出来たお陰で、自分たちの時間も何とか作る事が出来ている。「ストレスは無い」と言えば嘘
になるが、病気の母親を見守りながら、自分たちの生活も守り今は夫婦で助け合いながら面倒を
見れている事に感謝すべきだと思う。この生活がいつまで続くのか分からないが、優先すべきは
自分たちとか母とかでは無く、現実を真摯に受け止め「悔いのない」在宅介護を続けることが私
たちの責務だと今更ながら自覚するようになった。
私たち自身もいつどうなるか分からない・・。
だから、毎日を大切にしっかりと生きていく事が大事なのではないだろうか・・・。
そんな、ひとりごとを呟いて見た。
優先するのは自分か親か

私の母親は、昭和8生まれの88歳。父親は昭和2年生まれだから生きていれば95歳だが、
16年前に肝臓がんで亡くなった。親との二世帯同居を始めて10年目に父は逝ってしまった。
一人になった母親は、葬儀が終わるとその悲しみも見せず、気丈にも元気で活動的な日々を過ご
し、友達も増えて楽しく暮らしている様に見えた。普段の生活パターンは私たちとはまったく違
うし、当時共稼ぎしていた私たちとは、母親の生活パターンに合わせる余地は無かった。
二世帯住宅で共有していたのは、玄関と風呂だけでお風呂も夏場にはシャワーで済ませる私たち
に対し、母親は風呂派だった。食事をする時間も合わないし、好みも違えば必然的に二世帯各自
の食事となる。母親がどんな食事をしていたのか、普段は気にする事無く他人のように過ごして
いたと言っても過言では無い。車を乗る私たちに対し、母親の移動手段は徒歩か自転車だったが、
転んでケガをしても私たちには内緒で知らぬ振りをした事もあった。自転車を止めさせタクシー
の利用を進めていながら、自分たちのアッシー役は極力避けた。
それは、母親のわがままに振り回される事への拒否反応で、いつもこちらの都合を聞かずに用を
足すために「車に乗せろ」と言う傲慢さが原因だった。
夫婦の休みは、思いっきり登山で2~3日家を留守にする事は数え切れない。でも、元気だった
から、愛犬が居た時も敢えて安心して留守を任せられたし、食事の心配も無かった事は今考える
と感謝だった。
同居して27年、親子の会話でも嫁姑の会話でもこの間に色々な事があったわが家であるが、自
己主義的でわがままな母親と直視せずに過ごす事で、争いごとをずっと避けて来た気がする。
「長男だから親の面倒を見るのは当たり前」そんな時代に生まれた自分だからそう言われればそ
こに違和感は無かったが、妻も含めて堪え難き事情は色々あったと事は事実である。
父親が生前の時、母親は面倒な事はすべて父親に任せる生活だった。それは、生まれ付いた家庭
環境の事情もあり小学校すら卒業していなかった母は、字も書けず読む事もままならかった。
働く事と世間体だけは人一倍で、いわゆるかかあ天下の家庭で大蔵大臣でもあった・・。言葉少
ない父親は、国鉄マンで中学校を卒業してから鉄道学校に入学しその間に戦争を体験している。
終戦復員後も再び国鉄に復帰し定年退職まで働いてくれた。労働組合の委員長や町議会議員3期
も務めながら定年後は、すべての役職から身を引いて悠々自適な年金生活者となっていた。趣味
は海釣りとマラソン、同居してからは山登りもするようになり健康的ではあったが、酒とタバコ
が好きだった事が玉の傷だったかも知れない。
50年以上夫婦をして来た両親だが、私たちも間もなく43周年となる訳でその間に子供を育て
旅立ちを見守って来た事は変わらい。ただ、時代も違うし生きて来た環境も考え方も社会も違っ
ている訳だが、今の母親を見ていると「母の人生ってなんだろう?」とふと思ってしまう。
人間誰しもがいつか必ず死ぬ訳で、病気もすればケガもする。長寿大国日本と呼ばれながらも、
死ぬまで悠々自適で幸福感を持ったまま健康で最後を迎える人は少ないだろう。突然のように介
護状態となった母親だが、本人ですら何故そうなってしまったのかと考える力は今は無いだろう。
会話の中に「パァーになった」「なんも分からん」と愚痴る事も度々だが、それも愚痴ではない
かも知れない・・。
そんな母親の在宅介護が始まってから早半年が過ぎた。
当初から不安だらけのスタートだったが、介護サービスの存在を知り地元施設の利用もスムーズ
に出来たお陰で、自分たちの時間も何とか作る事が出来ている。「ストレスは無い」と言えば嘘
になるが、病気の母親を見守りながら、自分たちの生活も守り今は夫婦で助け合いながら面倒を
見れている事に感謝すべきだと思う。この生活がいつまで続くのか分からないが、優先すべきは
自分たちとか母とかでは無く、現実を真摯に受け止め「悔いのない」在宅介護を続けることが私
たちの責務だと今更ながら自覚するようになった。
私たち自身もいつどうなるか分からない・・。
だから、毎日を大切にしっかりと生きていく事が大事なのではないだろうか・・・。
そんな、ひとりごとを呟いて見た。