江花和郎@ブログ

2005~2011年連合新潟会長を務める間書いたブログをその後も時々更新しています。

核をめぐる対話

2011年07月05日 | その他
日曜夜ETV特集「大江健三郎 大石又七 核をめぐる対話」を見ました。
大石又七さんは第五福竜丸の乗組員で、1954年3月1日ビキニ環礁東方沖で操業中に米国の水爆実験の死の灰を浴びました。
当時の仲間が次々亡くなっていく中、被曝後30年経って沈黙を破り、その体験を語り始めます。
それは第五福竜丸事件を葬り去ろうとする動きに対する怒りからだったと言います。

とくに内部被曝の問題を意図的に軽視する専門家の欺瞞を指摘していました。
今回の原発事故に際しても専門家が同様の発言を繰り返していることに懸念を表明していました。
作業員の年間被曝限度量を100ミリシーベルトから250ミリシーベルトに上げたこと、子どもたちの被曝限度を20ミリシーベルトに設定したことなどです。

被曝から半年後に最初の犠牲者となった第五福竜丸の乗組員久保山愛吉さんの死因について米国は未だに「放射能が直接の原因ではない」と主張しています。
ビキニ環礁から240km離れたロンゲラップ環礁にも死の灰が降り、後に島民に甲状腺腫瘍が多発し、多くの子どもたちが白血病で亡くなりますが、米国の報告書は「原因は放射能の可能性もあるが、そうではない可能性もある」というものでした。

米ソ核兵器開発競争の一方で、米国から「原子力の平和利用」が提唱されます。
日本の世論工作のため、米国は正力松太郎(読売新聞社主)に近づきます。
正力は原子力委員会の初代委員長に就くことになります。
政治では中曽根康弘らによって1954年には原子力研究開発費が予算化され、1956年東海村に研究所が設置されます。
こうしてビキニ環礁水爆実験~第五福竜丸被曝と同じ年に日本の原子力利用が始まったのでした。

第五福竜丸は人知れず東京・夢の島に打ち捨てられていたものが発見され、現在は展示館になっていて、この対談はそこで行われました。
今もう一度原子力利用そのものを問い直すとすれば、その原点を検証することは当然必要なことではないでしょうか。


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1 コメント

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原点の検証・・・ (すぜきせいこ)
2011-07-06 10:23:52
胸が詰まる番組でした。原点の検証は大切ですね。
核の平和利用などあろうはずもなく、原子力発電も兵器になる条件を備えていることを改めて認識です。
今の便利な生活が次世代へ大きな“負の遺産”であることも見落としてはならないと思いました。
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