江花和郎@ブログ

2005~2011年連合新潟会長を務める間書いたブログをその後も時々更新しています。

『戦争と平和』

2013年04月22日 | 
トルストイの『戦争と平和』を読み終えました。
新潮文庫版(工藤精一郎訳)全4巻、各巻700ページ前後なのでまずは読破するのが大変です。
最初は慣れないロシア名で登場する人間関係を理解するのに苦労します。
登場人物は全部で559人だそうですが、主役が誰なのかよく分かりません。映画でリュドミラ・サベリーエワが演じたナターシャなのか、その夫となるピエールなのか、いや結局は当時のロシア社会をつくっていた人たちの総体ということなのでしょう。
ロシアの人名は呼び方が幾通りもあって、誰のことを指しているのか混乱します。登場人物の呼び名を一覧表にして随時書き足し、それを手元に置いて読み進めました。第2巻の途中からはだいぶ登場人物も整理され(私の頭の中も)一覧表に頼らなくてもよくなりましたが、世界文学の巨峰という看板がなければ途中で投げ出したに違いありません。
そして最後のエピローグが尋常ではありません。物語が終わった後でエピローグの第2部が100ページもあって、最後まで読むには忍耐を必要としました。終わりが見えているので付き合いましたが、トルストイの歴史論・社会論・人間行動論が延々と展開されます。例えば「歴史にとっては、人間の意志の運動の線が存在するのであり、その一端は未知の永遠の中にかくれ、他端において、現在の瞬間における人々の自由の意識が、時間と空間と原因への従属の中で動いているのである」「その自由を無限に制約することによってのみ、すなわちそれを無限に小さなものとして検討するときに、われわれは原因がまったく理解しえぬものであることを確認する、そこではじめて歴史は、原因の探求のかわりに、法則の探求を自己の課題とするのである」といった調子です。

ナポレオンとの戦争を軸に、ロシア貴族社会の堕落した生活と様々に絡み合う人間模様が描かれます。
これではロシア革命が起きて当然、登場する貴族たち誰一人としてまともとはいえません。あのナターシャも単なる甘やかされの我がまま娘でしかありません。
トルストイが最良の人間として描いたのは、プラトン・カタラーエフという農奴です。彼は戦場に駆り出されて捕虜となり、最後は病で死んでしまうのですが、自然と調和して生活に必要な知恵と技術を持ち、生きる術を身に着けていました。
トルストイは、ロシアに進攻してモスクワを破壊したナポレオンなんか「皇帝」と呼ぶに値しないちっぽけな人間で、彼が歴史を動かしたなどという考えを微塵も認めないという立場です。

人間はなぜ戦争のような愚かな行為に及ぶのか。
遠く離れた国でそれぞれに暮らしていた人間同士が戦場で敵味方となって向き合い殺し合う。
彼らは何の意思によってそのように行動するのか。
権力とは、国家とは何か。
1805年、1812年のナポレオン戦争の敗北と勝利の原因は何なのか。
そしてトルストイは、社会を支え、歴史を動かしているのは紛れもなく民衆だと結論づけ、民衆の賢さと優しさに目を向けようとします。
19世紀のロシア社会は農奴制の矛盾が沸騰しその特権的貴族階級の瓶が今まさに破裂する寸前でした。伯爵家に生まれ、自らと社会が抱える矛盾に悩み葛藤し続けたトルストイは、民衆の生活の中に真実を見つけ、カタラーエフとの出会いによって生き方を変えたピエールが社会変革の道を歩み出そうとしたところで物語は終わっています。
人間はどのように歴史を刻みどこへ行こうとしているのかを考え、当時の社会的関係に批判的な目を向けながら、この大作に自分の思いを刻み込んだのでしょう。1917年革命を見ることなく1910年トルストイはその82年の生涯を閉じました。

本を処分しよう書棚を整理しても結局そのまま残してしまうことがあります。残すか残さないかは偶然その日の気分しだいですけど。E.H.カーの『歴史とは何か』を清水幾太郎が訳した古い岩波新書を棄てるかどうかパラパラめくってみると、ああいつの時代も人間は歴史の法則に関心を持っていたのだなあと思い、トルストイを読んだ直後だったので残す気になりました。

今朝職場で目を通した先週の朝日新聞で渡辺京二(評論家)の話の中に、フランス革命とロシア革命を「個人的な欲求を超えた人間の本性が花開く社会の実現を夢見ながら、プチブルが満足する社会しか実現できなかった、インテリの幻想と悲劇」という行があり、これもトルストイの目指したものの限界と重なり合ってきます。

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