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2014年6月15日(日)18:53
(産経新聞)
サッカーのワールドカップ(W杯)の開催地、ブラジルには世界最大の日系社会があり、日系人は推定150万人。明治41(1908)年に日本からの移民船が初めてブラジルへ到着してから、6月18日で106年になる。「父祖の歴史の真実を知ってほしい」。若い世代を中心に、自らの歴史を問い直す試みが続いている。
■「踏み絵」を強要
「私の父は政治警察から拷問を受けました」
サンパウロ州奥地の日系人の多い町、ツッパンの議会で5月31日、日系団体による公聴会が開かれ、60代の2世の男性が日本の敗戦直後の状況を証言した。
町は当時、日本人移民の「勝ち組」が多かった。勝ち組とは日本の敗戦を信じなかった人々のこと。祖国の敗戦を受け入れた「負け組」との間で抗争になり、勝ち組が負け組を襲撃。少なくとも十数人が死亡、数十人が負傷した一方、負け組も自警団を組織して勝ち組を襲撃したといわれる。
男性の父親は勝ち組だったため、政治警察の取り調べを受けた。昭和天皇の「御真影」や日の丸の踏み絵を強要された。拒否すると、離島の収容所へ送られた。投獄された日本人移民は172人に上ったとされる。
だが、こうした歴史はほとんど語られてこなかった。今回証言した男性の父親も生前、自らの経験を話したがらなかったという。
■歴史認識に「溝」
戦後移住者のジャーナリスト、外山脩さん(72)は「勝ち組・負け組の抗争事件は、その後の日系社会の中心勢力となった負け組の側から見た歴史が定説となり、その結果、勝ち組の人々は沈黙を強いられてきた」と指摘する。
外山さんは現状に疑問を抱き、勝ち組の生き残りの証言を記録。2008年の移民100周年を機に、日系社会が編集した公式な移民100年史にも、事件について執筆を依頼された。
ところが、国際協力機構(JICA)が1391万円を助成した100年史の編集で、編集委員長を務めた戦後移住者の小説家、醍醐麻沙夫氏(79)は昨年、外山さんの原稿を無断で没にし、自説を述べた自らの原稿に差し替えて出版した。負け組の流れをくむ醍醐氏は取材に対し「外山さんの原稿は、移民史の定説と合わないため没にした」と話した。
地球の反対側で続く「もう一つの歴史認識問題」は、戦後69年目の現在も終わっていない。
■迫害を公式謝罪
なぜ、勝ち組の人々は日本の「勝利」を信じたのか。その遠因に、当時のブラジルの独裁政権による日本人移民の迫害があった。
戦時中、ブラジルは連合国だったため、日本人移民は「敵国人」として日本語教育や家庭外での日本語の使用を禁じられた。日本語新聞は発禁となった。情報が遮断される中、「日本勝利」のデマニュースが多く流れた。遠い祖国への思いから、これらを信じたのが勝ち組だった。今回証言した男性の父親のように、不当逮捕や拷問も横行した。
「ブラジル国民を代表して日系社会へ謝罪する」
昨年10月、ブラジルの独裁政権下での人道犯罪を調べる政府の「真実委員会」が当時の迫害を認め、初めて公式に謝罪した。委員会へ調査を働きかけたのは、日系3世の映像制作者、奥原マリオさん(39)だった。勝ち負け事件のドキュメンタリー映画「闇の一日」を十数年かけて制作し、動画サイト「ユーチューブ」で無料で公開している。
奥原さんは言う。
「迫害を受けた日本人移民の名誉回復は、われわれ日系人の誇りにつながる。W杯開催を機に、歴史の真実をブラジル人にも日本の人にも知ってもらいたい」
■多彩な人材輩出、日本にも18万人
明治41年以降、日本政府がブラジルへ送り出した移民は戦前18万人、戦後7万人の計25万人。これら移民の子孫で、日本人の血を引く人々が日系人だ。6世まで生まれており、総人口の0・7%ながら、最高学府サンパウロ大学の合格者の14%を占める。弁護士や医師、大学教授なども多いほか、大臣や連邦下院議員、空軍トップの2世、ジュンイチ・サイトウ総司令官(71)らを輩出した。
日本のサッカー界では、解説者のセルジオ越後さん(68)が2世、元日本代表の田中マルクス闘莉王選手(33)が3世。芸能界では歌手のマルシアさん(45)が3世。日本生まれのアントニオ猪木参院議員(71)は戦後、一家で移住しコーヒー農園で働いていたところ、遠征でブラジルへ来た力道山にスカウトされて帰国した。
一方、150万人のうち18万人は昨年末時点で日本へ来て働いており、工場労働を支える。群馬県在住の彼らの子弟から昨年、少女5人組のアイドル「リンダ3世」がデビューした。