土手猫の手

《Plala Broach からお引っ越し》

間違えた時

2008-11-24 22:45:16 | 随筆
11/17の記事(後半)からの続きと、言えるかもしれない。

昨日書き始めたのだが、その間に「元厚生次官殺傷事件」の犯人の出頭が有り、そちらを含む事としても少し書きたいと思う。


一昨日「たけしの教育白書」を少しばかり見た。
親子の間に起こった問題のはけ口?が外、他者へとが向かった事件を扱っていた。(ホーム転落殺人事件)
接見しても、事件に言及しようとしない父。


常日頃からの思い…
子供が壊れる要因は殆どの場合、親、大人なのではないか。
が、浮き彫りになる様な(加害者の父親への)インタビュー、追取材だと感じた。



以前にもあった。
子供の生きる力を奪い、選択肢(他の道)の全てを摘んでおきながら、数字(年齢)で括って見放すという行為。


『そこ気をつけろ』でも無く、考えさせる(見守る)でも無く。
成長の通り道にある壁、石、小石さえも取り除いてしまう。(過保護)

あげく、自立(或いは承認)を試みようとする子の自力歩行の芽まで摘む。(過干渉)

<不快>を取り除かれ。
閉ざされた世界に押し込められ、唯一の窓だった人間から否定・放任された時、自己肯定出来ない子(人)は、その人との関わりだけにすがって、繋がりを留めようとする。
関心を引きたい。それが<事件>という形であっても。
その人との関わりからでしか、世界を自分を見る事が出来無いからだ。


この加害者は、父親の『身の丈にあった所を目指せ(的な)』言葉に『自分は見捨てられた』と思ったと言う。
事件への動機というには、余りにも短絡的で理不尽な他者への凶行。

反抗期を奪われたこの若者には、親の言葉という障壁を乗り越える力は育って無かった。



無理・無謀な障壁に挑んでる<様に見える>時、近しい者はその人に対して何が出来るか。
何を言ったら良いのか。(心配するは自然な気持ち)

止める、促す、一概には言えない。

でも。たとえ、結果、その時点の結果、達成出来なくとも、
<経験>させる・する事が大切なのでは無いか。
長い人生の内で『全勝(?)』である事等、無い。
『やるだけやった』が次に繋がる事を、もっと信頼すべきなのでは無いだろうか。

『やった』そこから『出来る』(出来無いも)という<次>が生まれる。
やった、からこそ、進む・諦めるも、見える覚える。

先回りするばかりが。道を整えてやる、事が教育では無い筈だ。
自発性を育てる。
障害に向き合わさせる。(後ろに控える)
自分(大人)の経験は『やった』後ででも良い。

隣る者は、心配するよりも、信じて待つ、事の方が大切なのでは無いか。そう思う。


他方、モンスターと化す親達も居る。
モンスターペアレンツとは、親の過保護と自己愛の投影によるもので、やはり子の人格を認めず、『分身なり』と私物化する親の形態だろう。
分身(子)を不遇に扱われる事は、取りも直さず自分への否定と受け取るのだ。

そこからは、また別の『(子供を見ずに)闇雲に信じて非行(の兆し)を見逃す』という過ちも生まれたりする。(「信じる」の誤用)


誇大自我。
動かせない社会・体制(大きなもの)、状況への不満から、その中の小市民であるしかない( ← 自己認識)自分を実際より大きく見せる為に、より弱いもの(子供・年寄り・学校・サービス業等々)に向けられる矛先。



理由が見えにくい、不可解な事件の数々。

飼いならされた、障壁に挑まなかったが故に経験が足らず、単一な思考回路しか持ち得ない。
その事件の凶悪さに結びつかない、驚く程単純な動機(理由)は、犯罪者の視界の狭さから来るのか。そこには他者(の視点)は無い。
自分目線の中で整合性は保たれる。(ペット → 親 → 厚生省)
ある種のすり替え。


直接の原因(親等)に犯行が直結しないのは、それが自分より大きな(かなわない)相手と感じているか、故に間接的に貶めたい(復讐)のか、或いは見捨てられたく無い最後の拠(よりどころ)と認識してるから。
本来関係のない相手に刃が向かうのは、そういった心の表れでは無いか。
『誰でもよかった』本当に理解して欲しい相手以外なら…


そして場当たり的に対象を探す。衝動的、或いは。
今現在に於いて大きな話題となる要素を含んだもの。
自己をより大きく印象づけられるものを狙う誇大自我。

犯行を起こす時には、自暴自棄になっているか、清算をして人生を終わらせ様としている。だからつかまる事を恐れない大胆(目立つ)な行動を取る。(取れる)
最後に大々的に取り上げられて、主張したり見てもらったりしたい。
思い通りにならない現実への大人の駄々。


今回の事件。
待てない(我慢が出来無い)自我(エゴ)は、自ら全ての証拠(自己証明)と共に出頭という選択を用意する。

『ペットを殺されたから』厚生次官に向けられたは、後づけの理由。
『ペットを殺した』させたのは、選択したのは親なのである。(故に関連のあるを選んだのでは)
『殺さないで』を聞き入れてくれなかった親への、大きな力への反抗。
『無駄な殺生すれば、それは自分に返って……』
この一言が、親に向けられたものに感じられてならない。
(殺された・犬 ⇒ 自分の気持ち ⇒ 自分)

根源的には愛の問題(いずれも)で『愛して欲しい』の表れ(裏返し)が、の様な気がしてしまうのです。

親は逃げずに、息子、自分自身に向き合って欲しい。
『手紙』から目を逸らさないでと思う。(対話からも)

ここに書いたものは、想像ですが。



背後にあるものは。
自分を頂点とする小さな支配(弱き者へ)の構造。(愛故に、も)
過保護も過干渉も浸食も放任もせず、とは。


人は通り魔的な不可解な事件が起こる度に、被害に遭われた方を憂い同情を寄せると共に、自分の愛する者達が被害に遭わぬ事を願う。
そして、同時に加害者(側)になるやもしれない可能性にも思いを馳せる。


ただ一つのマニュアル等無い。同じ条件(環境)も無い。
人が人を育てるのだから、時に間違える事も後悔する事も有る。

ただ一つ必ずしなければならない事は。
(親子間の問題だけにかかわらず)
<間違えた時>に自らした事をきちんと見つめる。では無いか。
『向き合わずに逃げる』をせずに。

厳しく、大変な重荷になる場合もあるだろう。
でも、それをせずには(乗り越えた)先は無い様に思える。
無かった事には出来無い。


まず、大人が気づかなければ。
逃げない姿を示さなければいけない。

難しい。けれど、
「ごまかさないで」、そうありたいと思うのだ。


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