西周さんは置いといて、沼津兵学校、スタート時点の徳川家兵学校設立の推進役は前述の阿部潜(邦之助)が定説ですが、これに伴う伝説の方が面白いので紹介しましょう。
幕府陸軍の兵員数はどれくらいだったのでしょうか。1万7千人はいたらしいのですが、そのうち400万石から70万石にダウンした徳川家に従って駿河に移住希望兵士は2~3千人はいたと思われます。
『陸軍解兵御仕方書』という規則が慶応4年に公布されたのですが、そのなかに陸軍学校の設立がうたわれていて、この規則の起草者が陸軍頭阿部潜だったのです。
といっても、先だつものは軍資金、彼は部下を使って江戸城開城前に城内の御金蔵からなんと11万両をひそかに持ち出させたというのです。
よく時代劇で千両箱を担ぎ出すシーンが出てきますが、11万両だったら千両箱110個、官軍の目をどうごまかして、どうやって駿河まで運んだのか、伝説なるユエンです。
とにかく徳川家の、いや徳川幕府の大リストラの中で、将来のために学校設立を企画した人も人なら、そこにはせ参じた人たちもたいしたものでした。
幕府陸軍の兵員数はどれくらいだったのでしょうか。1万7千人はいたらしいのですが、そのうち400万石から70万石にダウンした徳川家に従って駿河に移住希望兵士は2~3千人はいたと思われます。
『陸軍解兵御仕方書』という規則が慶応4年に公布されたのですが、そのなかに陸軍学校の設立がうたわれていて、この規則の起草者が陸軍頭阿部潜だったのです。
といっても、先だつものは軍資金、彼は部下を使って江戸城開城前に城内の御金蔵からなんと11万両をひそかに持ち出させたというのです。
よく時代劇で千両箱を担ぎ出すシーンが出てきますが、11万両だったら千両箱110個、官軍の目をどうごまかして、どうやって駿河まで運んだのか、伝説なるユエンです。
とにかく徳川家の、いや徳川幕府の大リストラの中で、将来のために学校設立を企画した人も人なら、そこにはせ参じた人たちもたいしたものでした。
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