これは1580(天正8)年、肥前のキリシタン大名大村純忠ドン・バルトロメオが長崎と茂木をイエズス会に譲渡することを息子の喜前ドン・サンチョと連署でしたためた寄進状です。
その背景になにがあったか、先週、朝日カルチュアセンターで五野井隆史先生の「大村純忠」を受講しましたが、いちばん大きな理由としては、自分の所領のままにしておくと、天敵、龍造寺隆信に乗っ取られかねないので、安全策としての寄進が第一の理由、第二は当時、有馬の領主になる寸前の有馬鎮純、のちの晴信とヴァリニャーノとの親交ぶりから南蛮船が政情不安を抱える長崎よりも口之津を入港地に固定するおそれがあるから先手を打っての寄進、この二つを大きな理由に挙げておられました。
実は大村は「活版印刷紀行」や「千々石ミゲル」の取材で何度も訪れた土地ですし、大村純忠は日本最初のキリシタン大名であり、天正遣欧少年使節派遣のかげの理解者として間接的に日本最初の活版印刷にもつながる人物として私は興味を持たずにはいられません。
話を戻しますがこの長崎、茂木のイエズス会寄進の問題ももっと現代の我々には掴みがたいウラの問題もあったのではないでしょうか。たとえば、純忠が1562年にイエズス会との契約で横瀬浦が南蛮船の寄港地として開港されたにもかかわらず、その翌年に焼き打ちにあってしまうというじけんがありました。ここにはどんな力が暗躍したのでしょうか。
この界隈の海で生きる「家船」と呼ばれる「漁船」、「漁民」がたくさんおりました。ひょっとしたらその中には水軍まがいの船もあったかもしれませんが、彼らと大村純忠と間ははたしてうまくいっていたのでしょうか。イエズス会の所管になると彼らが手が出せないといったことはなかったでしょうか。秀吉のバテレン追放令発令寸前に純忠は死没しましたが、秀吉の逆鱗にふれ寄進状はパアになりました。