活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

えっ、活字が鉛弾にされたって

2006-09-29 13:34:25 | Weblog
 島原の乱なら、どなたも、一度は耳にされたことがあるはずです。
 日野江城は北有馬町ですが、島原の乱のとき、島原や天草のキリシタン農民が、幕府の大軍を相手取って3ヶ月も戦い、あわれ、皆殺しにあった「原城」跡は南有馬町にあります。

 島鉄に原城駅もありますが、日野江城から歩いてもたいしたことはありません。それにしても、島原の乱はキリシタン版を印刷した日本最初の活版印刷が根絶やしにされてから25~6年もあとの話のはず。紀行先にしなくてもいいじゃないかと思われそうですが。どうして、どううして。

 これからも、私はおそらく何度も不思議がると思いますが、キリシタン版を印刷した鉛の活字は、いまだに、1字も見つかっていないのです。
 もしかして、加津佐や口之津周辺の印刷に従事していた人たちは、そのときまで残っていた鉛活字を総動員して、火縄銃の弾にして戦ったのではないか。鉛活字が鉛弾に化けたのではないかという想像も満更、笑い飛ばすわけにはいきません。

 いろいろ想像をたくましゅうしながら、城址の公園を歩いていますと、なんと、天草四郎の像の隣に、城址から発掘された鉛玉の写真を添えた案内板があるではありませんか。もっとも、鉛弾ではありませんが。
 
 公園の前は橘湾、ふりかえると、普賢岳。あたりは、まさしく、一幅の絵になりそうです。島原の乱がむごたらしい終わり方をしたのが1638年(寛永15)4月でしたから、いまから370年ほど前のこと。島原の乱は遠くに霞んで、浄化されてしまったかもしれませんが、公園の端にあった数体のお地蔵は、悲しい目をしていました。
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ここに、「有馬のセミナリヨ」

2006-09-28 11:16:42 | Weblog
 
 セミナリヨは畳敷きだったのです。1人机が整然と並ぶ教室に、季節に合わせておそろいの紺色の着物で、坊主頭の生徒たちが座っていて、あるときはラテン語、あるときは、初歩の哲学といった具合にいろいろな科目の授業が進められていました。

 生徒の年齢は12歳ぐらいから16,7歳まで、いまの中・高一貫の学校を想像してください。もちろん、神父養成が目的ですから、ミサを立てる立派な祭壇がありました。

 400年以上前、1580年に日野江城下に、曜日ごとの「時間割」のもと、教育が行われていたとは驚きです。
 「ここに、有馬のセミナリヨ」とは、いうものの、実は、4人の使節たちが学んだ開校当時のセミナリヨ跡は確定できません。敷地は1580年から7年間と1601年からの12年間に3回変わったといい、最近、どうやら3回目の跡地が発掘されました。(「有馬のセミナリヨ」関係資料集 平成17年北有馬町役場刊)

 ここで、大事なことは、有馬のセミナリヨをつくったのは、イエズス会のヴァリニャーノで、そのセミナリヨの1回生から4人の使節が選ばれ、その従者として同行した1回生のドラードが、「活版印刷術」を持ち帰ったことで、有馬のセミナリヨは日本の印刷文化史の上で見落とせません。

 私は、《もし、有馬のセミナリヨなかりせば》、そう考えながら、日野江城跡をゆっくり散策しました。「日本の文化史のうえで貴重な価値を持ちながら、いまもほとんどの日本人が省みない一つの学校がある」遠藤周作は『銃と十字架』をこう、書き出しました。


 
 
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日野江城址を歩く

2006-09-25 15:33:58 | Weblog
島鉄を北有馬で下車して、歩き出して30分ぐらいになるでしょうか。
 草いきれと蝉しぐれの中にいます。橘湾でしょうか。繁みの向こうに海がひろがっています。そうです、ここは、日野江城址、有馬晴信の居城がありました。

 この晴信、生涯に何度も名前を変えていますが、数奇な運命をたどりました。彼は最初は熱心な仏教徒でしたが、叔父、日本最初のキリシタン大名、大村純忠の影響で洗礼を受けドン・プロタジオを名乗り、熱心な信者になります。

 当然、彼に洗礼を授けたイエズス会のヴァリニャーノ神父が企画した天正遣欧使節4人のヨーロッパ行きを応援します。
 秀吉とも家康ともうまくいった時代もありましたが、最終的には家康によって甲州で刑死させられてしまいます。

 龍造寺隆信との戦いこそありましたが、この日野江城の一隅に「有馬のセミナリヨ」ができたころが、有馬にとって、いちばんいい時代ではなかったでしょうか。

 現在のところ、城跡には何もありません。崩れた石垣の巨石や石段の遺構が見られる程度ですが、城址の一段高いところに立って、400年前にタイムスリップするのは悪くありません。
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名づけて「キリシタン印刷街道」

2006-09-23 17:50:50 | Weblog
 このゆっくり紀行に最後までつき合っていただくと、わかりますが、
日本最初の活版印刷ゆかりの地は、島原・天草・長崎と、西九州各地に点在しています。

 私は、ムリヤリ、これらの地を結ぶ「キリシタン印刷街道」なる架空の街道をつくりました。その中には、直接、「印刷」とは、接点がみつからないものの、寄らずにはおられない土地があります。

 きょう、訪ねた島原はそのひとつです。
 島原は、近くは雲仙普賢岳の噴火でクローズアップされました。しかし、それよりも、200年前、<島原大変肥後迷惑>で眉山が崩れるような大地震と大津波に見舞われています。
 島原駅で下車して、季節運転のトロッコ列車で車窓から景色を楽しむのもいいですが、やはり、島原城に足を向けてください。

 城そのものは昭和30年代に復元されたものですが、城内にあるキリシタン資料
は隠れキリシタン時代を知るのに貴重です。
 島原城を造った松倉豊後守重政の圧政が「島原の乱」を生み出したのですし、島原の乱が、ただでさえ、キリシタン弾圧で消失した日本最初の活版印刷の遺物を徹底的に葬り去った元凶と、私は考えていますから、見過ごすわけにはいかないのです。
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めざすは加津佐、「天辺の丘」

2006-09-19 17:53:26 | Weblog
 諫早の町とドラードに別れを告げ、目指すは、日本最初の活版印刷の地、島原半島の先端、「加津佐」といきたいのですが、ここで迷ってしまいました。
 諫早から加津佐に行くにはバスか電車かいずれかを選ばねばなりません。

 今回、選んだのは島原鉄道、いわゆる「島鉄」で有明海沿いをチンタラ行くプラン。
 なんせ、途中駅の数だけでも40もあります。島原城と雲仙普賢岳の「島原」、あれあれ、サッカーで有名な「国見」もあるぞ、4使節が学んだ有馬のセミナリヨのあったのは「北有馬」か、南蛮船が入港の「口之津」もあるぞ、運賃表示板の駅名を見て楽しくなりました。途中下車がどれだけできるかわかりませんが、電車に決めたのです。

 それにしても、のんびりした電車でした。車窓から見える海苔の養殖風景、土地の人同士のやさしい会話。まさに、グッド・タイムでした。
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ドラードの出生の秘密

2006-09-14 19:33:05 | Weblog
ドラードが諫早生まれで、小さいときに回らない舌で「カナヤ」、「カナヤ」といったことから、いまの諫早の金谷町生まれという説があります。
 はたして、どんなものでしょうか。

 日本名がないドラードの出生を詮索するのは、難しいことですが、私も最初、混血児説に傾いておりました。
 父親は南蛮船のポルトガル人の水夫でした。南蛮船は帆船ですから、季節風に乗って航海していました。当然、風待ちで何ヶ月も滞在しなければなりません。その間に、ねんごろになった日本人の娘との間にできたのがドラードという説です。

 ドラードは幼いときから日本語は不得意だったけれど、ポルトガル語をよく解したといいます。容貌や髪の色が日本人離れしていたといいます。
 あるいは、そこには肥前のこころやさしい娘が、難破して怪我をした異国の水夫を看病するうちにというようなラブロマンスもありえないわけでもありません。
 ポルトガル語でドラードには金銀細工師という意味があるから父親の家業からの命名ではないだろうかと考えた人もおられます。


 しかし、であります。当時の諫早は荘園があり、半農半漁の保守的な村でした。そして、島原半島一帯は領主たちの小さな戦争続きでした。そうしたなかでの、諫早を舞台にしたロマンスは考えられません。

 私は、ドラードの父親は兵士で出征中、戦死してしまった。留守を守っていた妻は、キリシタンで、 身ごもっていました。
 父親はいない、産み月は迫ってくる。キリシタンには、当時、農漁村では普通であった水子にすることは許されようはずがありません。母親は人目を避けて、家を出ます。たまたま、諫早にさしかかったときに、産気づいてしまい、やむなく、選んだのが捨て子の道だったというわけです。

 当時、貧しい暮らしの中で、赤子を拾って育てられるのは、宣教師くらいしかいません。幸い、拾われたドラードは、宣教師の住院で育ち、ポルトガル人やイタリア人の修道士たちに囲まれて大きくなって行ったのです。

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さあ、諫早へ

2006-09-10 14:22:11 | Weblog
 諫早へは大村から路線バスで向かいます。
 大村湾・有明海・橘湾と三方を海で囲まれた諫早は、島原半島のつけ根にあり、昔から交通の要衝です。最近も、干拓や女子高生のマラソンなどで、よく、テレビに顔を出す町でもありまが、なぜ、「さあ、諫早へ」と張り切るのでしょうか。

 諫早は、いまから400年以上も前、日本に始めてグーテンベルク直系の「活版印刷」をもたらたコンスタンチノ・ドラードの出生地であります。ドラードと同行して、リスボンで印刷術を習得し、不幸にも帰路、マカオで亡くなったジョルジュ・ロヨラも、諫早出身でした。

 よくある話ですが、諫早と活版印刷の結びつきなど、長い間、だれも心にとめる人はありませんでした。知られていなかったのです。
 平成15年2月28日、諫早市立図書館内にドラードの顕彰像がお目見えしました。日本最初の活版印刷人ドラードに、ようやく、日が当たったのです。

 ですから、活版印刷紀行のスタートにあたって、ぜひ、諫早市立図書館でドラードと対面していただきたいのです。 ドラードは1567年生まれ(永禄10)ですから、ギリギリで信長や秀吉や家康と同世代人です。
 肥前の伊佐早で孤児として生まれたその彼が、偶然から天正少年使節たちと同じ有馬のセミナリヨで学び、従者兼印刷技術習得要員として、南蛮船に乗り込むことになり、帰国して「キリシタン版」の印刷を手がけたとは、スゴイことです。
 
 日展作家の馬場正邦さんの手になるブロンズのドラード像は、若々しく、才気ばしって見えますが、あくまで、想像上の姿にしか過ぎません。
 ヨーロッパの印刷職人スタイルでたっているドラードは、リスボンで印刷を学んでいた21,2歳のころのイメージです。

 混血児説があったり、風貌やことばづかいも日本人離れをしていたといいますから、もうちょっと、エキゾチックであってもよかったと思います。


 今日は時間があるので、付録。
 諫早ではいつも「道具屋」という面白い名前のホテルにご厄介になります。接客も環境も料理もナカナカで一流です。実はこのホテルの所在地が金谷町で、ドラードの生まれたところともいわれております。
 「ホテル道具屋」のとなりにある「慶厳寺」をのぞきたい。八橋検校が琴の名曲「六段」を作曲した記念碑がある。「六段」には少年使節が持ち帰った西洋音楽の影響が見られるという。(横田庄一郎「キリシタンと西洋音楽」)
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長崎空港をスタート地点に

2006-09-09 11:57:33 | Weblog
 日本に、最初に西欧生まれの活版印刷をもたらしたのは、伊東マンショ・千々石ミゲル・原マルチノ・中浦ジュリアン、あの、4人の少年使節のヨーロッパ行きでした。そこで、彼ら4人の顕彰像に敬意を表して「紀行」の第1歩を踏み出すことにします。
 長崎空港のターミナルビルを出るとすぐそばに「蓑島大橋」があります。橋を渡りきった右手のたもとに、4人の少年が、はるか、ローマの方をきりりとした洋服姿で立っています。
 ここ、大村市は遣欧少年の後ろ盾のひとり、キリシタン大名大村純忠の領地でした。そのためか、JRの大村駅近くには、「天正夢広場」があり、南蛮船と地球儀と西洋楽器を奏でる少年使節の「からくり時計の塔」もあります。

 実は「活版印刷術」を習得して、印刷機とともに、日本に帰ってきたのは、4人の使節の従者として同行した、コンスタンチノ・ドラード(日本名はないが、日本人)でありました。この名前は、今後、たびたび、出てきますから、インプットしておいてください。
 少年使節に敬意を表したあとは、名物「大村寿司」に舌鼓を打つもよし、大村家の菩提寺、「本経寺」を訪ねるもよし、純忠の居城だった「三城城」、その息子、喜前(よしあき)の建てた玖島城址の公園を散策するのもよいと思います。
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活版印刷って?

2006-09-08 19:13:10 | Weblog
 


 いまの子どもたちは、「印刷」というと、パソコンでつくった絵や文章をプリンターにかける動作を連想するといいます。
 一般オトナの方も、印刷物が身近にゴロゴロしていながら、あらためて、関心を持つ人は少ないようです。
 
 かつて、グーテンベルクの「活版印刷術」は、羅針盤や火薬の発明とならぶ大きなものでした。それなのに、まことに、残念といわざるを得ません。
 
 もっと残念なのは、エレクトロニクスの進化で、金属活字を使う活版印刷は、私たちの前からほとんど姿を消してしまいました。

 「活版印刷」が人類の文化にはたしてきた功績を忘れてしまっていいものでしょうか。
 私は、まず、日本で、いつ、だれによって、どこで活版印刷がはじまったのか、その土地を訪ねるところから、この、ブログを始めることにします。

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