活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

徳川幕府の崩壊で

2010-12-18 16:37:59 | 活版印刷のふるさと紀行
 私はときどき想像してみるのですが、徳川家が崩れ落ちて800万石から70万石の一大名になったとき、3万人ともいわれた幕臣の胸に去来したものはなんだったでしょうか。
 おそらく、事の成り行きを正確に理解して自分の去就を決めた家臣はひと握りだったのではないでしょうか。

 それから80年後に第二次大戦でアメリカはじめ連合軍に敗れ日本人は茫然自失するわけですが、私はそのショック度では徳川の幕臣たちの方が大きかったと思います。
 慶応4年の夏には徳川慶喜が駿府に移り、そのあとを幕臣の半数1万数千人が追って大移動をしました。家族や従者を含めると10万人にもなるというから大変です。

 『幕末史』の著者半藤一利さんによるとその大移動の総指揮をとったのは勝海舟だということです。いっぽう新政府は江戸を東京と改め、天皇が京都から移って文字通り明治維新を軌道に乗せなくてはなりませんが、その東京に徳川の幕臣が居座ったままではやりにくくてしかたありません。

 藩主に従って駿府に移るか、役人として新政府につかえるか、武士は廃業して農業や商売に転ずるか三者択一の道を選ばされてやむなく駿府行きを選んだ人が3万人の半数に及んだとみてよいのではないでしょうか。

 沼津兵学校を生んだのは徳川幕府の崩壊によることは当然ですが、それを企画したのは誰だったのでしょうか。

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