少年使節の一行が南蛮船で長崎に帰って来たのは1590年、
天正18年の7月21日でした。
リスボンを発ったのが1586年4月12日でしたから復路に
要した月日が約4年、実はこの復路4年間にこそドラードたち
の「印刷研修」の期間が当てられたものと私は想像します。
なんとなれば、リスボン滞在の短い間にどれほど印刷実習が
できたかは疑問です。ことばのハンディもありました。前述の
ように、4人の使節の面倒見もありました。とても、印刷実習
に打ち込むだけの毎日は無理だったと思うのです。
実際に彼らが手とり、足とりで「活版印刷術」を学んだのは、
復路のゴアでの1年足らずとマカオでの2年、あわせて約3年の
滞在期間中だったと見てよいでしょう。
ヴァリニャーノは先見の人でした。リスボンから日本に向う修
道士の何人かは印刷キャリアの持ち主を当てたはずです。その修
道士たちが先生役をつとめたのです。
ゴアで印刷した『原マルチノの演説』もマカオで印刷した『キ
リスト教子弟の教育』や『遣欧使節対話録』も、いわば、印刷実習
のカリキュラムとしてでであり、組版や整版や印刷・製本の練習台
になったのです。
天正18年の7月21日でした。
リスボンを発ったのが1586年4月12日でしたから復路に
要した月日が約4年、実はこの復路4年間にこそドラードたち
の「印刷研修」の期間が当てられたものと私は想像します。
なんとなれば、リスボン滞在の短い間にどれほど印刷実習が
できたかは疑問です。ことばのハンディもありました。前述の
ように、4人の使節の面倒見もありました。とても、印刷実習
に打ち込むだけの毎日は無理だったと思うのです。
実際に彼らが手とり、足とりで「活版印刷術」を学んだのは、
復路のゴアでの1年足らずとマカオでの2年、あわせて約3年の
滞在期間中だったと見てよいでしょう。
ヴァリニャーノは先見の人でした。リスボンから日本に向う修
道士の何人かは印刷キャリアの持ち主を当てたはずです。その修
道士たちが先生役をつとめたのです。
ゴアで印刷した『原マルチノの演説』もマカオで印刷した『キ
リスト教子弟の教育』や『遣欧使節対話録』も、いわば、印刷実習
のカリキュラムとしてでであり、組版や整版や印刷・製本の練習台
になったのです。
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