活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

キヨッソーネという名の男

2009-03-11 12:17:29 | 活版印刷のふるさと紀行
 「米欧回覧実記」の岩波文庫版をゴソゴソ探していましたら、書架の奥から1枚の展覧会チケットが飛び出しました。見ると1990年8月に日本橋高島屋で催された「キヨッソーネと近世日本画里帰り展」のものでした。

 ジェノヴァ生まれのイタリア人エドアルド・キヨッソーネが雇われ外人技師として当時の総理大臣なみ月給450円余で大蔵省紙幣寮に着任したのが明治24年、1891年でした。
 「米欧回覧実記」の使節団がドイツやアメリカで紙幣の印刷工場を見学したのは、おそらく、両から円への新貨条例が実施になってから日本の紙幣印刷のことを考慮に入れてのことでしたし、また、キヨッソーネに来日要請をしたのも彼らでした。

 明治5年に新政府によってはじめて出された新紙幣の明治通宝はゲルマン紙幣と呼ばれドイツで印刷されたものですし、その後、紙幣印刷でアメリカの印刷技術の力を借りたこともあったようですから、日本の紙幣が当時の印刷印刷先進国の力を借りてのスタートだったことは事実です。現在の世界に冠たる日本の技術からは想像できませんね。

 キヨッソーネは着任するや腐食法を採用していた日本の紙幣印刷を直接、銅版や鋼版に図柄を彫刻する「エングレービング」を採用したことで評価されています。
 私が不思議に思うのは、ビュランを使って彫刻する技術は1596年に九州、有家で、同じころ志岐のセミナリヨでも行われていた技術のはず。これもキリシタン
弾圧でそれっきり途絶えたのでしょうか。

 キヨッソーネは結局、明治31年亡くなるまで滞日し、本業の印刷ほか、1万数千点の絵画・彫刻・工芸分野の日本美術の蒐集でも有名です。生涯独身を通したといいますがお雇い外人の高給を日本の美術品につぎ込んだ点でもキヨッソーネという名の男、たいしたものでした。

 


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