私は500年前のヴェネツィアでは、印刷術は新技術ということで、さぞかし職人は高給で厚遇され、刷り上がった書籍は貴重品扱い、印刷人は蝶よ花よともてはやされていたであろうと想像しておりました。ところが、その想像はレプリの『書物の夢、印刷の旅』によってすっかり裏切られたのです。
前回に書きましたように、職人は長時間労働を強いられ、少しでも好条件の勤め先を求めて転職を繰り返して行く、さらに、『宮廷人』のような売れ行きを望める場合は海賊版が出され、ヴェネツィアからパリやリヨンやサラマンカめざして舶載されていったといいます。いっぽう、出版社側で出版企画をたて、編集や校正など机上ワークを進めるのは貴族階級ですから社交界を舞台にあれこれと仕事の駆け引きが されたようです。女性をめぐっての話題までレプリはいきいきと描写しています。
海賊版は別にして、正規の書籍は元老院の許可がなければ刊行出来なかったのでツテを頼って丁丁発しの交渉が展開したようですし、ヴェネツィアの文士たちの裏話や新しい書体を開発する制作者の話なども興味ぶかく読みました。とにかくバルダッサール・カスティリオーネのベストセラー『宮廷人』の原稿がヴェネツィアで刊行されるまでの経緯を書きながらルネッサンス期の出版史、印刷文化史、政治史をつぶさに散りばめているこの本の一読をお奨めしたい気がします。