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深空(mi so ra)

忘れたくないこと、憶えておきたいこと、心に留めておきたいこと・・・
記憶の受け皿に少しずつ並べていく。

神の手はにじむピンク

2010-03-14 20:57:20 | 映画
ミッシェルガンエレファントの「THEE MOVIE」を昨年の暮れに観る。
年末の渋谷の映画館は全席完売で立ち見まで出るほどの盛況だった。
幕張メッセのラストライブが2003年10月11日。もう6年以上経つんだな・・・
解散してしまったことへの感慨や、アベフトシが亡くなってしまったという未だ信じ難い事実を差し引いても、大画面で大音量でライブ映像を観ることができたのは単純に楽しめた。冒頭の「ドロップ」はイントロを聴いた瞬間にパブロフの犬みたいに涙が出てしまったけれど。豊田監督の「青い春」でも「赤毛のケリー」と共に強烈な目に見えない残像をスクリーンに焼き付けた曲だ。そういえば「ドロップ」も「赤毛のケリー」もイントロはアベフトシのギターから始まる。アベがイントロを奏でそこからどっと音がなだれこんできて本編が始まる。ドロップの切なくも力強いあのリフは誰も同じように弾くことはできない。大画面に写しだされたアベの顔を観ながらそんな思いに囚われた。他に演奏された曲は懐かしく大好きだった曲群ばかりであって、「BIRDMAN」「ジェニー」「GET UP LUCY」等々・・・「ダニーゴー」も聴きたかったな。
確実に演じ手と受け手が共有した時間 二度と再生することができないその刹那を そのとき胸に去来した感情を記憶によって“生き物”として甦らせることができた二時間だった。
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ゴジラも世につれ

2009-10-05 20:53:35 | 映画
「東宝特撮映画DVDコレクション」

TVCMを観て、即効買い。もうビデオ持っているんだけど(笑)。

本屋で手に取ったとき、子供の頃買った附録つきの雑誌みたいになんかワクワクした。
こういうワクワクは久しぶりかも。

「水爆大怪獣ゴジラ」

これからじっくり観ることにします。

次号は「モスラ対ゴジラ」だそうで、ゴジラ作品の中でも自分の中ではいろんな意味で一番の作品なので、これも買ってしまうなー。

ほかにも「ガス人間第一号」や「「宇宙大戦争」「海底軍艦」観たい作品が目白押し。

ゴジラは現時点で最後の作品「FINAL WARS」まで全作品リリースしてくれるようで、FINAL WARSからもう5年も経ったのかと・・・もう5年ゴジラに会っていないのだな、と思ったり。
2001年の東京国際映画祭で「ゴジラ・モスラ・キングギドラ大怪獣総攻撃」を観たとき、キングギドラが千年竜王になるシーンでオーチャードホールが拍手喝采に包まれたのを思い出したり。

これも一つの「記憶を掘り起こす旅」であります。


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最近観た映画

2009-07-18 16:26:08 | 映画
「おと・な・り」

音(声)が、主役の男女(岡田准一、麻生久美子)を結びつけるという話だから、映画を録っている道中で録音には気をつかったのだろうか。シーンごとに聞こえてくる音の数々が、よりくっきりと際立って聞こえたような気がする。
特に、麻生久美子が花に触っているときの音(フラワーデザイナーを目指している設定)がとても印象的で、心地よく耳に残った。そして、麻生久美子の声は、こんな静かな映画にとてもしっくりくるなあと思った。
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2007年2月19日

2007-02-19 23:57:33 | 映画
「父親たちの星条旗」「硫黄島からの手紙」 監督:クリント・イーストウッド


「硫黄島・・・」は幸運なことに公開前にジャパンプレミアで観ることができたのだが、座席が天井席で音が回ってセリフがよく聞き取れない部分があった。それで「父親たち・・・」を観たあとに公開中の「硫黄島・・・」を再度観にいった。そして、この二つの映画がよりくっきりと自分の胸に残ることとなった。

「父親たち・・・」を観た直後、両作品があまりにもトーンの違う映画であったことにとても驚かされた。確かこの2作品は立て続けに撮られたようだが、アメリカ側と日本側という視点の違いはあるものの、硫黄島という共通した題材を取り上げながら、ここまで完全に別個としての作品を作った監督の力にうならされた。

矛盾した言い方になるかもしれないが、作品のトーンの明確な違いはあるものの、島での戦闘にかかわった兵士達の内面をストレートに描いているということにおいては、根本 に流れるものは両作品とも同じである。

監督の前には、日本であるとか米国であるとか、そういった線引きはまったくなく、戦争に関わった“人間”を描いた映画であり、だからこそ観る側にも両作品が同じように胸に響いてくるのだと思う。

「父親たち・・・」はアメリカ側から米軍兵士達の心情を描いている。ところどころに両作品がリンクしている、と思わせるシーンがあって、例えば「硫黄島・・・」の中で摺鉢山を日本 軍の塹壕の中から遠くに見やるシーンがあるが、山の天辺にはためいていた旗は、はっきり映し出されてはいなかったけど、星条旗だったのではないか。摺鉢山が陥落したあと、米兵達が上官に指揮されて頂上に星条旗を掲げるわけだが、その記事が米国内で大きな反響を呼び、政府は、戦争によって疲弊した財政を立て直すために、国民に国債キャンペーンをうつことを思いつく。その宣伝役として、新聞に取り上げられて時の寵児となった、硫黄島で星条旗を掲げた兵士達を選ぶのである。「父親たち・・・」のほうは前半で硫黄島の戦闘シーンが凄まじく描かれているが、後半は一転してアメリカ国内に舞台が移 る。心ならずして、プロパガンダ役を背負わされた兵士達が、国債キャンペーンで米国を行脚中に抱えこんでいく内面の葛藤を描き出していって、その三人三様の心の持ち方に胸を打たれる。戦時中は英雄ともてはやされても、終結してしまえば、一介の民間人となってしまうということ。戦争を乗り切った兵士達は、戦後の現実と向き合い、折り合いをつけていかなければ、世間をうまく泳いでいくことができない。そして戦争で受けた傷は誰にも癒すことができない。

かたや「硫黄島・・・」は日本側からの日本 軍兵士達の心情を取り上げている。栗林中将は死を覚悟して硫黄島に降り立つ。彼の心情は愛息に宛てた手紙によって語られるが、終盤「家族のために死ぬ覚悟なのに、逆に家族のことを思うと死ねない気持ちがある」と若い兵士に語りかけるシーンが印象的だった。この若い兵士が語り部的な役割を映画の中で果たしているが、彼も家族への思慕を募らせながらも、激戦の中でひたひたと押し寄せてくる“死”というものを少しずつ受け入れていく。この若い兵士役を二宮和也が演じていたが、素晴らしかった。淡々と、どこか冷めている部分を持ち合わせながらも、熾烈な戦いの中で感情を露わにしていくそのさまに、特にラストで彼が流した一筋の涙には、涙せずにはいられなかった。

勝ち負けに関わらず、兵士達は死ぬまで戦争という枷を背負っていく。日本軍も米軍も然り。以前TVで硫黄島で生き残った旧日本軍兵士のインタビューが取り上げられていたが
、その方達が60年経った今でも、硫黄島での戦いを決して忘れていないということ、それぞれが今でも戦争に対峙している姿に涙が止まらなかった。自分は戦争というものを知らない。太平洋戦争についても浅薄な知識しか持ち合わせていない。けれど、今回この両作品を観ている最中、ただただひたすらに戦争というものの虚しさ、哀しみというものが自分の内側に波のように何度も押し寄せてきた。そして過酷な状況下で己の生をまっとうしようとした兵士達の姿に人間の性を感じながらも「じゃあ自分はどうなんだ?」という自問自答をずっと繰り返していた。両作品を観ることができて本 当によかったと思う。監督に感謝したい。






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2007年1月27日

2007-01-27 00:23:22 | 映画
「カメラになった男 写真家 中平卓馬」 監督:小原真史

当時学生だった小原監督がビデオを片手に3年間中平氏と対峙したドキュメンタリー。
自分が観に行った日は、思いがけず上映後に小原監督と社会学者宮台真司氏のトークイベントもあり、そちらもなかなか興味深かったのだが、とりあえず凄いものを観てしまったという感想。
一日経った今もまだ余韻を引き摺っている。何か頭の中がカオス状態で、全然整然とされないのだが、とりあえず観たという事実だけここに書き記しておく。



「写真を撮ることで自己の解体・再生を目指す」

「四角いフレームによって切り取られた<現実>の断片は、まずぼく自身にとって、ぼく自身が生きてゆく中での火急なる現実として立ち現れてきたカッコぬきの現実である。そしてまた新たにカメラを取り、ファインダーをのぞく時、シャッターにかけた指先にはこの生の暗闇の総体がおしかぶさっているはずである。」



30年前に急性アルコール中毒により言語、記憶の一部を失うが、徐々に記憶を取り戻し、60を過ぎた今も写真も撮り続けている。

「私ようやく必要な文章を書くことが可能になりましたが、先ず何よりも、私が写真家で在る、と言うことに固執し続けて居ります。その一点を、私、放棄することは、まったく不可能です。正にそれ故に、私が生き始めた生の原点こそ、私が写真家で在る一点で在る、と思考し抜いております。」



愛用のタバコ、ショートホープの箱に羅列される氏の言葉。それは、被写体のことだったり、自分の名前のことだったりする。

「私、毎日、“Long Hope”ならず“Short Hope”を吸い続けています。それに即して言えば、写真、撮影行為においては、一挙に、世界総体を把握することが出来ず、日々、短い希望なのだが、それに依拠して、私、世界を全的に捉えることを願いつつ、生き続けています。」



沖縄のシンポジウムで中平氏が投げかけた
「写真は記憶でも創造でもない、ドキュメントだ」
という言葉。





何でもかんでも、これだけ、これしかない、自己矛盾であろうと、妄想的であろうと、観念的であろうと、とにかくこれだけ。唯一無二を持ち得る人こそが、この世の真実と成り得るということ。画面の中の氏の姿を見て、そう思わずにはいられなかった。

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2006年9月20日

2006-09-20 22:48:51 | 映画


”構図があっていればトリミングは必要ない”


劇場予告で観たこの言葉に釘づけになってしまった。
何か背中を押されたようで、すごく力づけられた。

「アンリ・カルティエ=ブレッソン 瞬間の記憶」

近いうちに観にいこうと思う。
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2006年7月17日Ⅱ

2006-07-17 21:27:16 | 映画
女優 寺島しのぶ


「やわらかい生活」 廣木隆一監督

廣木監督の作品は「ヴァイブレータ」以来。このとき主演だった寺島しのぶが今回も主演を務めている。

「ヴァイブレータ」が公開された前後に「赤目四十八瀧心中未遂」も公開されて、両方観にいったのだが、それぞれの作品においてまったく違った役柄を演じている寺島しのぶに魅了された。「ヴァイブレータ」は映画の作品以前に、主人公の女性にどうしても感情移入できなかったのだが、そういう気持ちにさせられたのも、寺島しのぶが演じたからだったのかもしれない。

今回の映画でも感じたことだが、とにかく表情が豊かな女優さんだと思う。所謂ステレオタイプ的な美人顔では決してないけれども、その時々に見せる幾つもの表情にはっとさせられ、惹き付けられる。「やわらかい生活」では、躁鬱病と共存しながら生きる30代女性を演じているが、病故に顔を苦痛に歪ませて苦しむ姿や、自暴自棄になってみせるはすっぱな姿や、生の営みにおける負の側面を、生々しい醜さを、こんなにリアルに曝け出せる女優はなかなかいないのではないかと思う。その一方で、引っ越してきた新しい街(蒲田)を歩きまわって、景観をカメラに収める姿はまるで子供のような無邪気さがあるし、発作から立ち直り、髪を整え顔に化粧を施し、柔らかい笑みで男(豊川悦司)を迎える顔は一変してとても美しい。

作品自体は、決して幸せな境遇にあるとはいえない女性が、病気と付き合いながら、それでも前を向いて歩いていく姿がとても印象的で、人は生きるということを無自覚なまま日々を過ごしているけれど、この主人公においても、事実を受容しながらも淡々と生きている。重苦しい現実がそこに在ったとしても、新しい街に喜びを見出す力が主人公にはある。だから決してハッピーエンドといえないラストシーンを観ても、不思議なくらい悲しい気持ちや辛い気持ちにならなかったのかもしれない。人間は1+1=2のように単純に計算できる生きものではないし、どんな人達も生きているということが当たり前の所作なんだという当たり前のことをつらつら考えた映画でもあった。


そして、何もかもひっくるめてこれが人生よ、とさらっと言える女優。私にとって寺島しのぶはそんな女優の一人なのだ。

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2006年4月28日

2006-04-28 21:35:25 | 映画
「HAZE」 塚本 晋也監督

「ヴィタール」以来、約1年半ぶりに塚本作品を観る。今回は約50分という尺の短さもあってか、「鉄男」の頃からずっと監督の中に在るものと、内包的なセンチメンタリズムがぎゅっと凝縮された作品になっていたと思う。

相変わらず監督、脚本 、撮影、美術等、何役もこなしている塚本 監督だが、今回は自ら主演もしている。以前より役者としての塚本 晋也もすごく良いなと思っているのだが、今回も期待を裏切らず、生死の境目 という迷路に迷い込んだ男をうまく演じていた。共演の藤井かほりは、君塚匠監督の「喪の仕事」や岡村靖幸の「PEACH」を観たときから気になっている女優なのだが、久しぶりに観たら、大人のしなやかさも加わり、昔から印象的だった眼に更に力がこめられていて綺麗だった。映像も、次は何が来るのだろうとどきどきしながらも期待せずにはいられないコマの展開が鮮やかで、いっときも眼が離せない。土壇場に追い詰められた男の呟く科白も、本人はいたって真剣なのだが、とても滑稽であり、極限の状況下に置かれた人間とはこうなのかもしれないと思わされる。それと塚本作品の常連である石川忠氏の音楽。今回の作品でも塚本監督は音にかなりのこだわりを持って撮っていたと思うのだが、石川氏の音楽の”音“も闇の恐怖をいやがうえにも増長させていた。

全編、漆黒と閉塞の世界と思いきや、最後のシーンがとてもメランコリックで、寂しげで、でも優しくて、「ヴィタール」を観たときに、美しい純愛映画だな、と感じたものに通じるものがあった。闇や密室とは対照的な空の青とその広がり、風にたなびく真っ白なシーツの波。今置かれている世界と、もう一つのあちらがわの世界。そこには人間がはまりこんでしまいがちな眼に見えない隙間が横たわっている。ふっと迷路に落ち込みそうになるけれど、“記憶”が人の気持ちを動かすのかもしれない。

塚本監督がリスペクトしている佐々木昭一郎氏が“人は記憶によって支えられ生きている”と「四季~ユートピアノ」を製作した際に語っていた。私はその言葉にとても共感し、今もずっと心の片隅にその言葉を留めているのだが、「四季~ユートピアノ」とはまったく趣きは違うものの、今回もそんなことを感じるラストだった。塚本監督は真性のロマンチストなのかもしれないな。。。


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2006年3月23日

2006-03-23 22:19:28 | 映画
「力道山」 ソン・ヘソン監督


のめりこんで観てしまったのは、力道山役のソル・ギョングによるところが大きい。
この映画を観ようと思ったのも、予告編でのリング上の彼の顔に惹きつけられたからだった。

ソル・ギョングをこの映画で初めて知ったのだが、以前から彼のファンである友人の話だと、元々は痩せ型でこの映画のために体を鍛え、ウエイトを増やしたとか。その体型についても、序盤の相撲部屋の見習い時代から、アメリカ修業を経て、日本で成功を収めていく過程において微妙に変わっていたし、そのあたりのコントロールも凄いと驚かされた。

もちろん体つきだけでなく、がむしゃらに突き進んでいた力士時代から、晩年に近付くにつれ強者であるが故の孤独感や疑心暗鬼に苛まれていく、力道山の人としての弱さや強さが、その佇まいから滲み出ていたし、内側も外側もすべてソル・ギョングが演じる力道山に惹きこまれてしまったのだと思う。

実際の力道山については、自分はリアルタイムでは知らない。昔家に新聞の縮刷版が置いてあって、幼い頃それを読むのが好きだったのだが、そこで黒タイツ姿の力道山を知った。シャープ兄弟との試合も然り、やくざに襲われ不慮の死を遂げたのも、その縮刷版の記事から知った。本当は日本人ではなく朝鮮人であること、元々相撲部屋出身のレスラーだったこと等は後で物の本で知ったのだが。勿論、この映画はフィクションとノンフィクションが併存しているから、映画の力道山=実在した力道山にはならないわけであるが、とにかく映画の中で生き抜いていった力道山の姿に強いインパクトを受けた。

日韓合同制作であるが、ソン・ヘソン監督やキム・ヒョング撮影監督を始めスタッフの大勢が韓国だった為だろうか(ちなみに美術監督は「楢山節考」「うなぎ」等を担当した稲垣尚夫)、昭和のあの独特の空気感が、その時代を知らない自分にとっても、とても懐かしいものとして伝わってきた。例えば、劇中に出てくるグランドキャバレーの匂い立つような猥雑な雰囲気。もしかしたら、平成の世を迎えてしまった日本映画においては、ここまで懐古感を伴う時代感の再現は出来なかったかもしれないとまで思わせた。力道山と綾が参詣する神社においても、柱の漆の赤や、桜の色が鮮やかで、その鮮明感が、“幸せだった頃の記憶”というものをよく具現化していた。

力道山は、朝鮮人であることをひた隠しにして、日本国民のヒーローとして絶大な人気を馳せていく。戦争に敗れた日本人が、自分よりも遥かに背の高い欧米人レスラーを力道山が打ちのめしていく姿に、かつてのプライドを呼び覚まし、失望や無念を晴らす対象として力道山に投影していく。さらに子供達のヒーローとして、力道山は日本人レスラーとしての王者であり続けようとする。勝ち続けることが唯一の自己実現であり、そして、彼を信じている子供達を裏切ることもできない。力道山の後継を育てるべく彼に引退勧告を勧める、力道山の一番の理解者そして支援者であった菅野会長と袂を分かつことになっても、彼は己の道を突き進む。力道山が力士からレスラーに転向する際に菅野会長に言った「自分は30年を無駄にしてきた」という言葉が強く印象に残った。異国日本の地で心から笑えるような人生を送る為に選んだ力士の道を、朝鮮人という理由で諦めざるを得なかった。力士に賭けてきたそれまでの人生が結果的に無駄になってしまったと、力道山は涙を流しながら会長に訴えかける。そしてこれからの人生を無駄にしたくないと。その心情だからこそ、彼は勝ち続けるしかなかったし、周りの思惑にとらわれて自己の信念を曲げてしまったら、また“無駄にした”と思ったであろう。一見、傲慢で自分勝手と取られるかもしれないが、それが、彼の本意であり、生きていく意味であったことを思えば、どうしてそれを責めることができるだろう。そして、責めに帰することはなくても、そんな生き方ゆえに周囲との乖離は止められようもなく、だんだんと深い孤独感に陥っていく。勝者には孤独がつきまとうというが、栄光の裏に見え隠れする寂しさや閉塞感。自分の望む道を進んでも、100%順風満帆とはならないのが人生であろうが、とりわけ万人の知る存在となった人間には負の部分もどうしても附帯してしまう。そう、確かに御伽噺のように「そのあとは末永く幸せに暮らしました」といえないのが人の生。

だからこそ、ただ一人の人間としての生き様を描いたこの映画は、観終わった後もじわりと心に迫るものがあり、余韻をしばらく引き摺ってしまった。

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2006年3月16日

2006-03-16 22:24:21 | 映画
「アメリカ、家族のいる風景」 監督:ヴィム・ヴェンダース

2時間強の映画だったが、あっという間だった。
遮るものが何もない大きく広がった空と、どこまでも続いていくハイウエイ。アメリカの原風景。
画面に登場する景観がくっきりと際立っていて、景観と共に必ず映し出される青空をつい眼で追ってしまったせいもあるかもしれない。
離れ離れ(といってもお互いに存在を知らなかった父と子なのだが)だった母子と父が20数年ぶりに出会う。
激しく拒否反応を示す息子と、為す術も無く立ち尽くす父親。昔の想いをいっとき蘇らせながらそれでも父親との修復を拒む母親。
そこに舞い降りる、父親のもう一人の子供であろう女性。母親を亡くし天涯孤独の身となった彼女は、自分の兄弟にあたる息子と、父親の距離を近づけようとする。
“舞い降りる”と書いたが、サラ・ポーリーが正に妖精(ニンフ)のようだった。軽やかで寓話的でいて、その眼には澱みがない。
往年の西部劇の俳優役のサム・シェパード、かつての恋人役のジェシカ・ラング、息子役のガブリエル・マン、投資会社社員のティム・ロス等々、出演俳優それぞれの存在感がとても際立っていた。ちなみにこの映画の原題は「DON'T COME KNOCKING」(エンディングに流れる同タイトルの歌もとても優しく心地よい)なのだが、邦題の通り、アメリカ中西部の普遍的な景観の”キャンバス”に或る家族の絵が描き足され、そして、人間の感情がその風景に溶け込んでいく、そして、わだかまっていた何かが氷解していく、、、そんな絵を眺めているかのような心地の良い映画だった。



「WARU」監督:三池崇史

とにかく哀川翔が最初から最後まで格好良い。
真樹比佐夫氏も、既存の俳優にはない何とも味わい深いものがあった。
終盤、哀川翔と石橋凌が屋台でコップ酒をあおるシーンが印象的だった。画面手前の石橋凌が煙草を吸いながら酒をあおり、奥に立つ哀川翔がそれを見つめるカメラワークに、映画の中の二人の関わってきた歳月が体現されているようで、ある種の感動すら憶えてしまった。
哀川翔と石橋凌は個人的にも思い入れの強い俳優なので、尚更かもしれない。二人の共演は「夜桜銀次」以来だと思うが、こんなシーンを撮ってくれた三池監督に感謝したい。

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