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深空(mi so ra)

忘れたくないこと、憶えておきたいこと、心に留めておきたいこと・・・
記憶の受け皿に少しずつ並べていく。

2008年1月17日

2008-01-16 20:57:47 | 
寒さがだんだんと身体に沁みる季節になってきました

肩をすくめながらも、気持ちが少し濾過されたような
心地よさを内側に感じながら夜道を歩く

ほんとうに小さな幸福感

久しぶりに屋上へ上ってみる

冷たさと透明感と同居する冬の夜空

遠く高層ビル群が放つ光の塊が見える

近くに見えるのはいつものように
冬の夜を過ごしている人達の家

いつもの夜を壊さないように
そっと階段を降りた




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2007年8月29日

2007-08-29 22:15:31 | 
くやしいこと

追いつけないこと



辿るということ


今は後をついていくだけ



望むこと

一点でいいから交わりたい



地図がほしいな
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2006年11月14日

2006-11-14 12:29:55 | 

 
病室に見舞いに行く。ベッドの上の父親は、私の顔を見るなり「よくきたな」と、とても嬉しそうな顔をした。

もう一つの夢

家の居間で父親が一人芝居をしている。観客とおぼしき人も何人かいて、自分も観客の中に混じって観ている。そして何度か幕がひかれ、再び幕があげられた時、もう父親はそこにはおらず、窓の向こうの庭を一人で歩いていた。こちらに気づくとにこにこしながら「もうおしまい」と言った仕草をして遠くに消えていった。

医大の解剖実習が終了し、遺体が帰ってくる連絡を大学の献体事務局から受けた直後、同じ夜に私と母親がそれぞれそんな夢を見た。
お互いに、死後父が夢の中に出てきても、笑った顔をみたことがなかった。生前に時折見せていた柔らかい笑顔。あんな風に笑った顔・・・自身の気持ちがそんな夢を見させたのかもしれないし、父が何かを伝えに夢の中に出てきたのかもしれない。

とにかく一年半近く時を隔てて、やっと父の体が荼毘にふされることとなる。






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2006年3月13日Ⅱ

2006-03-13 20:54:45 | 
大事なのは


愛することではなく


愛しつづけること
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10月26日

2005-10-26 22:05:08 | 
最近は電車の夢をよくみる。幼い頃からよく利用した地元の駅と、巨大なビルの中を上下するエレベーター、指定席とおぼしき車内の席、それらが繰り返しでてくるのだ。そう、駅と、エレベーターと、車内を行き来している感じ。そして、また同じ夢を見ていると夢の中で思う。たとえば、電車に乗って昔通った中学の古い校舎が見たいと夢の中で思うと、思っていた風景に場面がスイッチする。ああ、また繰り返しているな、と夢の中で思う。
でもそんな夢は自分にやすらぎを与えてくれて、夢を見ているのに、ぐっすり眠れたような気持ちになって、朝、何となく幸福感に満たされていることがある。
人が抱える無尽蔵の記憶。そんな中から、夢は、自分が安らぐ風景というのを描き出してくれているのかもしれない。
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8月26日

2005-08-26 18:52:55 | 
仕事中に同僚と話をしながら、あ、このシチュエーションはいつか夢で見たな、と思う。そして、夢で見た通りの内容で、夢で見た通りに話が進んでいく。
最近、こういうこと無かったな。夢が現実になるのは久しぶりのことだ。夢日記をつける習慣もいつも3日坊主で終わってしまう。毎日観ている夢を記録していったら、あっという間にノートは埋まってしまうと思うのだけど。
日々観る夢はどんどん忘れてしまっているけど、現実によって、夢がプレイバックするのは面白いな、と思う。

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6月10日

2005-06-10 17:39:33 | 
夢の家


何年前からか、ときどき見る夢。

ふと気づくと、家がひしめきあって建っている住宅街の細い路地を一人で歩いている。
どれくらい歩いたか、木塀に囲まれた木造二階建ての大きな家が見えてくる。広い庭には、木々や草花が群生している。
一階の玄関脇のドアを開けて、薄暗く傾斜のきつい階段を上ると、右手に共同の台所、左手に住人達の部屋のドアが並んでいる。住人達の生活をひとしきり覗いた後、自分の部屋に入り、窓を開ける。

そう、そこは私の住んでいるアパートなのだ。それもかなり老朽化している。
一階が大家さんの住まい、二階がアパートになっているのだが、築何十年か分からない位そのアパートは朽ちていて、その老朽化ぶりにいつも夢の中で溜息をつく。たてつけの悪いドアと、襖のような薄い壁で仕切られた作りの部屋。そこには自分以外に、夫婦、学生風の男子、妙齢の女性達が住んでいる。自分の部屋に入り、木枠でできた摺りガラスの窓を開けると、物干し場があって、眼下には大家さんの広い庭が見える。

そんな家がときどき夢に出てくるのだ。そしてその夢をみるたび、夢の中で「ああ、また同じ夢を見ている」と思う。そして、同じ夢を見ているとわかっているから、例えば、アパートの廊下でこんな人とすれ違いたいとか、自分の部屋の間取りをこんな風にしたいとか、夢の中でつらつら考える。そうすると、大枠の背景は変わらないものの、そのときの自分の願望通りに、細かいシーンが変わる。そして、夢の中で「ああ、部屋が綺麗になった」などと満足したりする。いつもその繰り返しである。
でも、そんな風に夢の内容を変える一方で、目覚めた後「自分は確かにあのアパートに住んでいた」という強い確証がしっかり残る。現実にそんなアパートに住んだことはないのに、根拠のない確証が現実の世界でもこみ上げてきて、不思議な感覚を起こさせる。

最近まで知らなかったのだが、コントロールできる夢のことを「明晰夢」というらしい。自分のこの夢も「明晰夢」になるのだろうか。
毎日夢を見ることが(厳密に言うと毎日夢を憶えているということだが)、呼吸と同じくらい自分には当たり前のものとなっている。子供の頃から、自分で思い描いたストーリーを夢の中で実現させたりするのが好きだった。夢に気持ちを救われることも多かった。現実の世界の畏れや哀しみ、怒りとか逃れたいものを夢の中で放つことによって、救われていたのかもしれない。
夢分析とか夢占いといったものには、あまり興味が持てないのだけど、明晰夢にはかなり興味を惹かれていて、関連書籍でも読んでみようかと思っている。

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5月12日

2005-05-12 17:57:04 | 
週明けから、頭痛やめまいに悩まされている。

とりあえず身体を休めるに限ると思い、いつもより早い時間に寝に入って、寝入りばなにうっすらと夢を見る。ふと目覚めて、夢の余韻に浸りながら、再び眠りに落ちていく。

どういうわけだか、自分は夢を毎朝目が醒めるまで必ず憶えている。友人の勧めもあって、夢日記をつけようと思いつつ、いつも三日坊主で終わってしまう。
夢を観るのは毎夜の楽しみであり、寝ることが好きなのは、夢を観られるからかもしれない。

そして夢分析ではないけど、そのとき観る夢が、自分の精神状態や生活状態を表していることが多く、朝、観た夢を反芻しつつ、成る程と自分で思ったりする。

夢から醒めて、夢だったことにほっとすることもあるが、夢から醒めて、夢だったことに軽い失望を憶えることのほうが多いのは、現実の世界が充足感で充たされていないからなのか。

内田善美の「星の時計のリデル」を読んだときに、決して幸福とはいえない人生を送っている女性が、“夢”に魂を救われていて、あちら側の世界に住むことを望んで薬を飲んで昏睡状態に陥ってしまう話が出てきて、とても共感したことがある。薬を飲みたくなるほどあちら側の世界に行こうとは思ってはいないが、夢を観ることは、自分にとって欠くことのできない、ある種の救いになっているのかもしれない。

昨夜、夢から引き戻されたのは、つけっぱなしのTV番組のバラエティのBGMで流れていたデヴィッド・フォスターの音楽が、夢の隙間に入り込んできたためらしい。
懐かしい音をぼんやりした頭の中に響かせながら、「セントエルモスファイアー」を久しぶりに観たいな、と思った。

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