「献体者慰霊祭」
先日、遺族として、医大の献体者慰霊祭に招かれてきた。
同祭は、医歯学の研究発展のために、死後自らの体を献体された方達への慰霊祭であり、医学部や歯学部での解剖学実習や病理解剖および司法解剖に献体された御霊に対し、冥福を祈るというものである。
会場となった大学の講堂には、教授、学校関係者、医学部生、付属の看護学校の生徒達も参列し、百合の花で埋め尽くされた祭壇を前に、大学側の挨拶や、学生代表挨拶、献花と粛々と儀式が進められていった。
式の最中、塚本晋也監督の「ヴィタール」がふっと頭の中に浮かび上がった。
浅野忠信扮する主人公の医大生が、交通事故で恋人を失い、自身も記憶喪失に陥るのだが、奇しくも大学の解剖実習で恋人の遺体の解剖を受け持つことになり、彼女の体と向き合うことによって、記憶の再生のみならず、事故前に抱えていた煩悶と向き合い、事故前とはまた違った場所に到達していくという内容の映画である。監督自ら、大学の解剖実習に立会い、綿密な取材を行っただけあって、その解剖実習のシーンは精緻かつ重みをもって描かれており、その生々しさに圧倒された。また、恋人の遺体から愛を呼び起こしていく作業・・人間は魂と魂という、眼に見えないもので深く結びついているわけだけれど、魂の抜けてしまった肉体にも愛は確かに残存しているということ。
“愛”というものがどれだけ深遠で果てしないものであるのかということも、この映画から感じたし、そういった純愛映画としても強烈に記憶に刻み付けられている。
「献体」については、身内から献体者が出るまで、いや、この映画を観るまで漠然とした知識しかなかった。
献体という事実に接することになったのは、「ヴィタール」を観て程なくしてからのことだった。なので、一層この映画に因果を感じてしまっているようである。
おそらくこの映画を観ていなかったら、自分は「献体」ということに対して柔軟な気持ちを持てなかったかもしれない。この映画のおかげで、どんな風に献体者が実習で扱われるのかということや、慰霊祭でも聞いたことだが、実習は、合掌から始まり、合掌で終わるということ。最後には遺体に冥土への旅支度を施して、献体者の冥福を祈るということ等々。そんなことを知ることができたからこそ、当人が望んでいることであれば、と納得することができたのである。
慰霊祭で、祭壇に献花を行う、医者や看護士の卵達を見つめがら、不思議な感慨に囚われた。彼ら彼女らは、初めて人間の肉体の内部と向き合い、実際にどう感じ、今この会場でどんな気持ちでいるのだろうか。そしてこれから、どんな医学の道程を辿っていくのだろうか。そんなことを考えていたら、胸に熱いものがこみ上げてきた。
「ヴィタール」、また観返してみようと思っている。