サイモン・マクバーニーはやっぱり面白い そして今回は深津絵里の声に惹かれた 少女時代の春琴を人形に見たてて、彼女が黒子をやりながらセリフをしゃべる 人形浄瑠璃を彷彿とさせるその演出 人形と共に動く彼女のしなやかな声に想像力を掻きたてられる 今回は畳と卒塔婆がモチーフになっていて、それがくるくる縦横無尽に人の動きに合わせて動き回っている それが横のラインだとしたら縦のラインが三味線や襖の開け閉めの音だったり 立石涼子のナレーションだったり 舞台は言葉主体と視覚主体の二つに分かれると思うが、マクバーニーの舞台は間違いなく後者である 視覚から饒舌に言葉を引き出すのだ 視覚が言葉というものを肉付けしていくのだ そしてそれは決してよどみがなく、人の営みが太古からそうであったかのような錯覚にさせられるような自然な本能が舞台には横たわっている 原始人が持ち得ている言葉にできない感覚が舞台で体現されるからであろうか そう、彼の舞台を観るたび、何で饒舌な視覚であろうと思わずにはいられない だからこそ狭い空間にあっても四方八方に広がっていくような、しなやかさ、のびやさかさを感じ無限の広がりを感じてしまうのである
野田秀樹の「パイパー」を観る 極限状態での人肉を喰らうというエピソードは「赤鬼」を彷彿とさせる
人間の傲慢さや業が、自ら地獄を引き寄せるということ 人間が生きる世界というものは地球であろうと火星であろうと安らぎを見出せるものではないのか 理想郷は所詮理想郷 姉(宮沢りえ)が言った「希望なんて絵空事」そして妹(松たか子)が言った「絶望も絵空事」が頭から離れない そう実は実体を持たない仮想空間に人は望まずしてほうりこまれ、あがきながら、己の人生をまっとうしていくものなのかもしれない
どうして・こんな・世界に・自分は・生きて・いるのだろう・こんなはずではなかった・ここはどこだ・どこまで続くのだ でも生きていく・自分は生きていく・生きることは・呼吸をすることと一緒で・当たり前のこと・希望も・絶望も・そして自分すらも・絵空事なのかもしれない・そしてどこかで・分かっている・動機付けっていうのかなあ・希望と絶望・両方あるから・人はきっと・生きていくんだよ
元始何も無かったこの世界に人間が作り出したもの 道徳やモラルやらも全てあとから作り出されたものだ 人は自分で線引きをして 自分で自分を苦しめたりする でもきっと細胞だった頃から ずっと存在しているものが実はあって
遥か彼方の記憶に支えられて人は生きていけるのかもしれない
人間の傲慢さや業が、自ら地獄を引き寄せるということ 人間が生きる世界というものは地球であろうと火星であろうと安らぎを見出せるものではないのか 理想郷は所詮理想郷 姉(宮沢りえ)が言った「希望なんて絵空事」そして妹(松たか子)が言った「絶望も絵空事」が頭から離れない そう実は実体を持たない仮想空間に人は望まずしてほうりこまれ、あがきながら、己の人生をまっとうしていくものなのかもしれない
どうして・こんな・世界に・自分は・生きて・いるのだろう・こんなはずではなかった・ここはどこだ・どこまで続くのだ でも生きていく・自分は生きていく・生きることは・呼吸をすることと一緒で・当たり前のこと・希望も・絶望も・そして自分すらも・絵空事なのかもしれない・そしてどこかで・分かっている・動機付けっていうのかなあ・希望と絶望・両方あるから・人はきっと・生きていくんだよ
元始何も無かったこの世界に人間が作り出したもの 道徳やモラルやらも全てあとから作り出されたものだ 人は自分で線引きをして 自分で自分を苦しめたりする でもきっと細胞だった頃から ずっと存在しているものが実はあって
遥か彼方の記憶に支えられて人は生きていけるのかもしれない
「ロープ」 野田秀樹演出
”私は、この芝居で「距離感のない熱狂の中で、繰り広げられる暴力」を描いた。”
(パンフレットより)
あったことをなかったことにすることは赦されないことである。
野田さんの舞台は、いつも観る度に何かを示唆されるような気がする。
わが身を振り返るではないけれど、思わず自分の背中を見たくなるような感覚に囚われる。
まったく前知識がなかったので、劇場に着いて舞台の上に据えられた四角いリングを観たとき、「ロープ」とはリングの四方に張り巡らされたそれだと知った。
舞台の背面の壁に羅列された文字が遠目 でよく分からなかったのだが、後半のくだりでその羅列の意味を知り、体が震えるような衝撃を受けた。羅列された文字はベトナム戦争時、ソンミ村の虐殺で亡くなった村民の方達504名の名前だったのだ。
“あったことをなかったことにすることは赦されない”
入国管理官(中村まこと)が舞台上で何度もそのセリフを繰り返す。八百長に端を発し、何かによって洗脳され、逃げ場の無い四角い空間で、常軌を逸していくプロレスラー達。「リングの中では何をやっても咎められない、人殺しにはならない」。やがてそれはヘリコプターのけたたましい爆音と共に、ベトナム戦争時の虐殺事件の実況中継へとスイッチしていく。
タマシイ(宮沢りえ)が淡々と赤裸々に村民達の虐殺される様を実況中継していく。人殺しゲームと化した“戦い”の渦中に巻き込まれたプロレスラーノブナガ(藤原竜也)は、数十年前の遥かかの地で、絶命寸前のベトナム女性が産み落とした“びしょびしょに濡れた何か”=タマシイを受け取ったことを思い出す。
リングの内側と外側。ロープが境界線のその狭間で、人は何を見据えていかなればならないのか。
内側から外側へ逃げ出したノブナガを仲間達は罵倒するけれど、外側へ飛び出していくのも、理性であり、勇気なんじゃないのか。
野田さんのメッセージはいつも真摯で、強力だ。直球ストレートを胸のど真ん中で投げ込まれる感じ。あまりの衝撃と重みに倒れそうになるくらい。
ノブナガが受け取った“びしょびしょに濡れた何か”それを観客も受け取っているのだと思う。
”私は、この芝居で「距離感のない熱狂の中で、繰り広げられる暴力」を描いた。”
(パンフレットより)
あったことをなかったことにすることは赦されないことである。
野田さんの舞台は、いつも観る度に何かを示唆されるような気がする。
わが身を振り返るではないけれど、思わず自分の背中を見たくなるような感覚に囚われる。
まったく前知識がなかったので、劇場に着いて舞台の上に据えられた四角いリングを観たとき、「ロープ」とはリングの四方に張り巡らされたそれだと知った。
舞台の背面の壁に羅列された文字が遠目 でよく分からなかったのだが、後半のくだりでその羅列の意味を知り、体が震えるような衝撃を受けた。羅列された文字はベトナム戦争時、ソンミ村の虐殺で亡くなった村民の方達504名の名前だったのだ。
“あったことをなかったことにすることは赦されない”
入国管理官(中村まこと)が舞台上で何度もそのセリフを繰り返す。八百長に端を発し、何かによって洗脳され、逃げ場の無い四角い空間で、常軌を逸していくプロレスラー達。「リングの中では何をやっても咎められない、人殺しにはならない」。やがてそれはヘリコプターのけたたましい爆音と共に、ベトナム戦争時の虐殺事件の実況中継へとスイッチしていく。
タマシイ(宮沢りえ)が淡々と赤裸々に村民達の虐殺される様を実況中継していく。人殺しゲームと化した“戦い”の渦中に巻き込まれたプロレスラーノブナガ(藤原竜也)は、数十年前の遥かかの地で、絶命寸前のベトナム女性が産み落とした“びしょびしょに濡れた何か”=タマシイを受け取ったことを思い出す。
リングの内側と外側。ロープが境界線のその狭間で、人は何を見据えていかなればならないのか。
内側から外側へ逃げ出したノブナガを仲間達は罵倒するけれど、外側へ飛び出していくのも、理性であり、勇気なんじゃないのか。
野田さんのメッセージはいつも真摯で、強力だ。直球ストレートを胸のど真ん中で投げ込まれる感じ。あまりの衝撃と重みに倒れそうになるくらい。
ノブナガが受け取った“びしょびしょに濡れた何か”それを観客も受け取っているのだと思う。
「DECADE」 2006.11.24
10年一昔というけれど、、、
2006年11月24日は恵比寿リキッドルームでROCK'N ROLL GYPSIESを観た。
ライブ中、ステージの赤いライトに照らされた花田を見ていたら、急に11月24日だったことを思い出した。1996年から数えて10年。
ああ、もう10年経ったのか・・・・・
10年を一区切りというわけではないけど、それだけの月日を越えてきて、今、ライブを見ている自分がちょっと不思議な感じがした。
10年経って、不完全な状態ではあるけど、こうやって好きな音楽を聴きながら、心地よい想いに浸ることができているということ。
あの頃、10年後にこうやっている自分の姿を想像できただろうか。
曲が終り、メンバーがステージから下がる。アンコールの拍手の中、自分も拍手をしながら心の中で自分に拍手を送ってみた。自分を評価できるのは、きっと、自分しかいない。とりあえずは音楽を享受できる環境にいられる自分を誉めてあげたかった。今日だけは自分を認めてあげようと。
ステージでは再びメンバーが戻ってきて、曲が始まる。花田が「君と一緒にいたい」「新しい道を歩いていきたい」と唄う。
同じくアンコールで演った「再現できないジグゾーパズル」はタイトな音とは裏腹に、自分の胸に響いた。11月24日じゃなければ、こんな風に想わなかったかもしれない。この世で取り戻せないことの一つ、それは「時間」。
取り戻せないものがどんどん堆積していって、見えなくなっていくから、人は前に進むことができるのかな。忘却の力なのかな。
だけど2006年11月24日 この日のこのライブは心の中に留めておこうと思う。
10年一昔というけれど、、、
2006年11月24日は恵比寿リキッドルームでROCK'N ROLL GYPSIESを観た。
ライブ中、ステージの赤いライトに照らされた花田を見ていたら、急に11月24日だったことを思い出した。1996年から数えて10年。
ああ、もう10年経ったのか・・・・・
10年を一区切りというわけではないけど、それだけの月日を越えてきて、今、ライブを見ている自分がちょっと不思議な感じがした。
10年経って、不完全な状態ではあるけど、こうやって好きな音楽を聴きながら、心地よい想いに浸ることができているということ。
あの頃、10年後にこうやっている自分の姿を想像できただろうか。
曲が終り、メンバーがステージから下がる。アンコールの拍手の中、自分も拍手をしながら心の中で自分に拍手を送ってみた。自分を評価できるのは、きっと、自分しかいない。とりあえずは音楽を享受できる環境にいられる自分を誉めてあげたかった。今日だけは自分を認めてあげようと。
ステージでは再びメンバーが戻ってきて、曲が始まる。花田が「君と一緒にいたい」「新しい道を歩いていきたい」と唄う。
同じくアンコールで演った「再現できないジグゾーパズル」はタイトな音とは裏腹に、自分の胸に響いた。11月24日じゃなければ、こんな風に想わなかったかもしれない。この世で取り戻せないことの一つ、それは「時間」。
取り戻せないものがどんどん堆積していって、見えなくなっていくから、人は前に進むことができるのかな。忘却の力なのかな。
だけど2006年11月24日 この日のこのライブは心の中に留めておこうと思う。
「まとまったお金の唄」 大人計画
2004年の「イケニエの人」以来の本公演。人間の本質的な喜怒哀楽を過剰なまでのデフォルメで表現し、ときには観客を笑わせたり驚かせたりしながらも、最後には本質を浮き彫りにしていく流れはいつも通り・・・だったと思うのだけど、何か今までと違うものを感じた。あまり出番は無かったけど、松尾スズキの佇まいが、何かを抑えているように見えたのは気のせいだろうか。劇場の中はお客さんでぎっしり。客層は若い女性が多く見受けられた。そんな中での舞台の時代背景~学生闘争や、大阪万博や岡本太郎、太陽の塔(特に太陽の塔は、この物語のキーワードになっている)といったものを知っている客がどれだけいたのかな、と思ったり。おそらく知らなくても(平岩紙が解説の役も兼ねていたし)、充分に楽しめるものであったとは思うけど、松尾スズキがどうして大阪万博を題材に、そしてストレートにそれを表現した、というところにいつもと違うものを感じたのかもしれない。
でも、最後のジョン・レノンの「イマジン」の替え歌は胸に落ちるところがあったし、荒川良々の大阪のおかん役がすごいはまってたり、阿部サダヲと市川実和子の似てない姉妹とか、宮藤官九郎の怪しげな哲学者くずれとか、役者達も相変わらず個性豊かで楽しめたことには間違いはない。
自分的には芥川賞をぜひ松尾スズキに取ってもらいたいな、とも思っているのだけど、今、映画やTVや本や、松尾スズキのベクトルが多様な方向に向っていると思うし、多様化の複合体として、今回の舞台が生まれたのかな、と考えたりもする。確かに根幹は変わっていない。表層が変わっただけ。松尾スズキの書くセリフにはいつも力がこもっている。文字として紙の上に書かれた言葉が、役者達によって生きた言葉となって、一つの物語を形成していく。空気を震動させるような言葉の応酬。松尾スズキの、大人計画の舞台からもそれを感じるから、いつも足を運びたくなる。次の本公演はどんなものになるのだろうか。
2004年の「イケニエの人」以来の本公演。人間の本質的な喜怒哀楽を過剰なまでのデフォルメで表現し、ときには観客を笑わせたり驚かせたりしながらも、最後には本質を浮き彫りにしていく流れはいつも通り・・・だったと思うのだけど、何か今までと違うものを感じた。あまり出番は無かったけど、松尾スズキの佇まいが、何かを抑えているように見えたのは気のせいだろうか。劇場の中はお客さんでぎっしり。客層は若い女性が多く見受けられた。そんな中での舞台の時代背景~学生闘争や、大阪万博や岡本太郎、太陽の塔(特に太陽の塔は、この物語のキーワードになっている)といったものを知っている客がどれだけいたのかな、と思ったり。おそらく知らなくても(平岩紙が解説の役も兼ねていたし)、充分に楽しめるものであったとは思うけど、松尾スズキがどうして大阪万博を題材に、そしてストレートにそれを表現した、というところにいつもと違うものを感じたのかもしれない。
でも、最後のジョン・レノンの「イマジン」の替え歌は胸に落ちるところがあったし、荒川良々の大阪のおかん役がすごいはまってたり、阿部サダヲと市川実和子の似てない姉妹とか、宮藤官九郎の怪しげな哲学者くずれとか、役者達も相変わらず個性豊かで楽しめたことには間違いはない。
自分的には芥川賞をぜひ松尾スズキに取ってもらいたいな、とも思っているのだけど、今、映画やTVや本や、松尾スズキのベクトルが多様な方向に向っていると思うし、多様化の複合体として、今回の舞台が生まれたのかな、と考えたりもする。確かに根幹は変わっていない。表層が変わっただけ。松尾スズキの書くセリフにはいつも力がこもっている。文字として紙の上に書かれた言葉が、役者達によって生きた言葉となって、一つの物語を形成していく。空気を震動させるような言葉の応酬。松尾スズキの、大人計画の舞台からもそれを感じるから、いつも足を運びたくなる。次の本公演はどんなものになるのだろうか。
「贋作 罪と罰」 野田秀樹 脚本・演出
野田秀樹の舞台にはいつも泣かされてしまう。
観始めて数年だが、氏の作る舞台や、紡ぎだす言葉に魅了されている。
今までで一番インパクトが強かったのは2004年に観た「赤鬼」。このときはすっと通り過ぎていくようなセリフにどっと涙が出てしまった。
もしかしたら、自分は氏の舞台の世界観を本 当の意味で理解していないのかもしれないと思いつつも、ずっと惹かれ続けている。
本作も、善悪をばっさりと切り分けるのではなく、それぞれの位置から導き出されたものが、最後には一本 の太い道となる。善と悪の間には、そんな距離はないのだ。その様を客席から観客は見届けていく。混沌や煩悶から導き出されるこの世の真実というものをおそらく最後に主人公は手中にし、安寧のいっときを過ごすわけだが、その姿が美しく哀しい。ああ、続いていくものにはいつも哀しみが伴う。そんなことを感じつつ、また涙が出てしまった。
野田秀樹の舞台にはいつも泣かされてしまう。
観始めて数年だが、氏の作る舞台や、紡ぎだす言葉に魅了されている。
今までで一番インパクトが強かったのは2004年に観た「赤鬼」。このときはすっと通り過ぎていくようなセリフにどっと涙が出てしまった。
もしかしたら、自分は氏の舞台の世界観を本 当の意味で理解していないのかもしれないと思いつつも、ずっと惹かれ続けている。
本作も、善悪をばっさりと切り分けるのではなく、それぞれの位置から導き出されたものが、最後には一本 の太い道となる。善と悪の間には、そんな距離はないのだ。その様を客席から観客は見届けていく。混沌や煩悶から導き出されるこの世の真実というものをおそらく最後に主人公は手中にし、安寧のいっときを過ごすわけだが、その姿が美しく哀しい。ああ、続いていくものにはいつも哀しみが伴う。そんなことを感じつつ、また涙が出てしまった。