「空中庭園」 豊田利晃監督
観ながら、ああ凄く凄くよく分かると何度も頭の中で呟いた。
とりわけ母娘の関係性に胸を衝かれた。
映画の冒頭では、観覧車のように景色が切り替わっていくさまが、どこか茫洋としていて、その先の展開を暗示していて、確固たるものとして自分が大事にしているものですらも、実は幻なのかもしれない、と思わされてしまう。
人と人は、いつもいつもうまくいくとは限らない。うまく触れ合えないことも多い。それは家族の間においてもそう。
豊田監督はいつも作品の中で、人と人との間に横たわる闇の部分を容赦なく照らし出して、本質を暴き出そうとしていたように思う。
人との関わりにおいて、うまくいかないからこそ夢を持つし、少しでも歩み寄りたいと願うのか。
この映画でも、小泉今日子扮する主人公の家庭はいつ破綻してもおかしくない状態なのに、家族が皆そこに踏みとどまる。それぞれの誰かを思う思いやりによって。
思いやりというのは、その人を好きと思う気持ち、大事にしたいと思う気持ちに成り立っているのだろうか。
家族といっても他者の集まりで、一番小さな社会集団であり、物理的に離れた場所にいても、その家族に属しているということ、母親の子供なのだ、という事実からは逃れられない。それは墓場までずっと続いていく。
生育した環境に絶望し、自分が構えた新しい家庭に希望や拠り所を求めても、過去は消せないし、何かを許さなければ、認めなければ、思いは叶わないかもしれない。
主人公の母親がバースデーケーキのろうそくを消しながら「立ち止まって・・・・・」と呟きを繰り返すシーンは、自身と娘に、人生における過去の後悔と未来の希望を示唆しているようで、象徴的である。
そしてラストに心を救われる。
小泉今日子扮する主人公が、雨の中ずぶぬれになりながら堰を切ったように叫び、自分を解放していくシーンには涙が止まらなくなった。
そして最期に主人公が開けたドアの先には、今までとは違う何かが待ち受けている。その何かを“違う”と認められること。それが人間の強さであり、再生力なのだと感じずにはいられなかった。
観ながら、ああ凄く凄くよく分かると何度も頭の中で呟いた。
とりわけ母娘の関係性に胸を衝かれた。
映画の冒頭では、観覧車のように景色が切り替わっていくさまが、どこか茫洋としていて、その先の展開を暗示していて、確固たるものとして自分が大事にしているものですらも、実は幻なのかもしれない、と思わされてしまう。
人と人は、いつもいつもうまくいくとは限らない。うまく触れ合えないことも多い。それは家族の間においてもそう。
豊田監督はいつも作品の中で、人と人との間に横たわる闇の部分を容赦なく照らし出して、本質を暴き出そうとしていたように思う。
人との関わりにおいて、うまくいかないからこそ夢を持つし、少しでも歩み寄りたいと願うのか。
この映画でも、小泉今日子扮する主人公の家庭はいつ破綻してもおかしくない状態なのに、家族が皆そこに踏みとどまる。それぞれの誰かを思う思いやりによって。
思いやりというのは、その人を好きと思う気持ち、大事にしたいと思う気持ちに成り立っているのだろうか。
家族といっても他者の集まりで、一番小さな社会集団であり、物理的に離れた場所にいても、その家族に属しているということ、母親の子供なのだ、という事実からは逃れられない。それは墓場までずっと続いていく。
生育した環境に絶望し、自分が構えた新しい家庭に希望や拠り所を求めても、過去は消せないし、何かを許さなければ、認めなければ、思いは叶わないかもしれない。
主人公の母親がバースデーケーキのろうそくを消しながら「立ち止まって・・・・・」と呟きを繰り返すシーンは、自身と娘に、人生における過去の後悔と未来の希望を示唆しているようで、象徴的である。
そしてラストに心を救われる。
小泉今日子扮する主人公が、雨の中ずぶぬれになりながら堰を切ったように叫び、自分を解放していくシーンには涙が止まらなくなった。
そして最期に主人公が開けたドアの先には、今までとは違う何かが待ち受けている。その何かを“違う”と認められること。それが人間の強さであり、再生力なのだと感じずにはいられなかった。