神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

十二弟子の任命。~【1】~

2014年12月01日 | キリスト教
【最後の晩餐】レオナルド・ダ・ヴィンチ


 さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。

 そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。

 こうして、イエスは十二弟子を任命された。そして、シモンにはペテロという名をつけ、

 ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、このふたりにはボアネルゲ、すなわち、雷の子という名をつけられた。

 次に、アンデレ、ピリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ、タダイ、熱心党員シモン、

 イスカリオテ・ユダ。このユダが、イエスを裏切ったのである。

(マルコの福音書、第3章13~19節)


 さて、今回からは、イエスさまの弟子であった十二弟子を、「遠藤周作で読むイエスと十二人の弟子」より、順にご紹介したいと思いますm(_ _)m



【悔悛する聖ペテロ】エル・グレコ

 ・シモン(ペテロ)

 四福音書を読むと、十二弟子のうち、一番言及の多いのがこのペテロという気がします。

 また、上の絵のようにペテロはよく鍵を持っていると思うのですが、これはイエスさまが元はシモンという名だったペテロに対し、「わたしは、あなたに天の御国のかぎをあげます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています」と言われたことに由来します。

 つまり、ペテロというのは<岩>の意味で、岩のように堅い信仰を彼が持てるように……というイエスさまの願いがこもっている気がするのですが、ところがこのペテロ、岩のように堅い信仰とは程遠い言動が福音書では目立つんですよね(^^;)

 簡単に言うとしたらこのペテロさん、性格的に相当そそっかしいというか(笑)

 イエスさまが最後の晩餐の前に弟子たちの足を洗ってくださるエピソードでも、「あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか。そんな恐れおおいこと、しないでください」と彼は謙虚な態度をとり、ところがイエスさまが「もしわたしがあなたの足を洗わなければわたしとあなたはなんの関係もありません」と言われると、「そんじゃ足だけじゃなく手も頭も洗ってください」なんて答えるのですから。

 なんていうか、キリスト教を信じる一信者としては、ペテロにはおおいに共感するところが多い気がします(わたし自身も相当そそっかしいので^^;)

 十二弟子の中には無学な人が多かったと思うのですが、マルコの福音書の第3章を読むと、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたとあることから、彼らひとりびとりが紛れもなくイエスさま、引いては天なる父の御心の弟子であったことがわかります(これはのちにイエスさまを裏切ることになるユダを含めてそうだったということですよね)。

 イエスさまもどうせ弟子を選ぶんなら、もっと博学で社会的にも尊敬されてるような連中を選べばよかったのに……と思う向きも多少あるかもしれませんが(笑)、この十二弟子の任命については、むしろのちにイエスさまを信じることになる我々信徒ひとりびとりのためにこうした無学で社会的地位も低い人々が選ばれた……といった側面があったのではないでしょうか。

 またもしそうでなくて、イエスさまの選んだ弟子が博学で社会的にも尊敬されるような人々ばかりだったとしたら、<我々もまたこの十二弟子を模範とする、立派な人格者にならねば決して救いは得られない>といったように、勘違いした苦しい道を歩まねばならなかったでしょう。

 そういう意味でイエスさまはただ、自分を信じ、自分の後ろに最後までついて来る弟子たちだけを選ばれたのだと思います。

 四福音書を総合して読んでみると、他の社会的に高い地位にある人々や、お金を持っている人、博学なある人々は、何かの理由によってイエスさまの後について来れないでいます。

 パリサイ人やサドカイ人と呼ばれる宗教的権威者は、何かと理屈をつけてはイエスさまのことを貶めようとしていますし、「父親を埋葬したらあなたについていきます」と言った弟子もあれば、色々な道徳的戒めを正しく守ってはいるものの、唯一自分の財産を手放すことが出来ないで、イエスさまについて行けなかった青年もいました。

 パリサイ人やサドカイ人といった律法学者たちはともかくとしても、他の「父親を埋葬したら」と言った弟子や、また父や母を敬い、隣人にも親切にしているらしき青年については――聖書を読む限り、「いや~、そういうのも無理ないんじゃ……」とか、「お父さんを埋葬したらついて来るって言ってるんだから、それでいいじゃん☆」みたいに思いますよね。それと、自分の財産を貧しい人に分け与えられなかった青年についても、「そんなに金持ちだったら、仕方ないんじゃないかな」と、つい人間的に思ってしまいます。

 けれど、イエスさまはその時に「鋤に手をつけてから後ろを振り返るのはよくない」とおっしゃったり、「金持ちが救われるのは、らくだが針の穴を通るよりも難しい」と弟子たちに教えているのですよね。

 つまり、このことは現代のキリスト教信者ひとりひとりにも実に当てはまることで、もし自分が大金持ちだったりしたら、神さまのことを求める気持ちはそんなに強くなかったかもしれないし、またいかにももっともな人間的理由によってでも――イエスさまについていくのが困難になるというのはよくあることだと思います。

 そこへいくと、ペテロや彼の弟のアンデレというのは、イエスさまがお呼びになった時に「すぐ」従っている、また最初はただ無条件にイエスさまについてきていた民衆の中には、のちに自分勝手な何がしかの粗を見つけて、イエスさまから離れ、彼の教えから脱落していった者もあったことでしょう。

 けれど、この十二弟子というのは、ただ単純に、純真にイエスさまについてきた……そうした部分が大きかったのだろうと思います。

 もっとも、「純真に」などといっても、「イエスさまは凄い方だから、この方についていけば最後は自分も立身出世できるかも」といった思い違いや、「この方こそローマの支配から我々イスラエル民族を解放してくださるに違いない」といった野心が弟子たちの心にまったくなかったといえば嘘になるとは思います。

 けれど、そうした人間の欲望をはらみやすい弱さといったものもひっくるめて、イエスさまはこの十二弟子をこそあえて選ばれたのに違いありません。

 ペテロを代表とする、こうした「弱く勘違いしやすい者」、「そそっかしい者」を選ぶことによって、なんというか、後世の信者たちが「十二弟子と同じくらい駄目ダメであっても、ちゃんと救いの道は開かれているんだよ」といった、そうしたある種の模範というか型のようなものが十二弟子にはあるような気がします(^^;)

 一般的に十二弟子というと、イエスさまのことを裏切ったユダが一番ダメな奴、悪かった奴……といったように解釈されると思うのですが、「遠藤周作で読むイエスと十二人の弟子」という本の帯のところに、「裏切り者はユダだけじゃなかった!」と書いてあるのを読んで、今回少しハッとしました。

 確かに、ユダほどひどくはなかったにしても、他の十一弟子もイエスさまのことを紛れもなく一度は裏切っているわけですし、そう考えていくと、わたし自身もまた――形は違えど何度神さまの御心に背き、裏切りを働いたことかと思ってしまうのです(^^;)

 ではでは、次回は十二弟子のプロフィールの第二回目、ペテロの弟、アンデレのことを御紹介したいと思います♪

 それではまた~!!




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