【聖アンデレの磔刑】マッティア・プレティ
では今回は、十二弟子のふたり目、アンデレの紹介です♪(^^)
アンデレはペテロの弟で、ある意味、聖書内の目立ち度(?)ということで言うと、お兄さんが弟子たちのリーダー格で、言及されるそそっかしいエピソードが多いのに比べ――ちょっと控えめで目立たない感じかな、という気がしたり。
「遠藤周作で読む、イエスと十二人の弟子」によると、アンデレのところには「ペテロの弟で裏方タイプの穏健派」とあります。
この弟アンデレのエピソードというか、伝承的なもので一般に有名なものといえば、彼がX型の十字架にかかって殉教した……ということでしょうか。
これはイエスさまと同じ十字架にかかるのは恐れ多いとの理由かららしいのですが、兄のペテロもまた同じ理由によって、逆さ磔の刑によって殉教しているんですよね。
では、「遠藤周作で読む、イエスと十二人の弟子」より、一部文章を抜粋させていただきたいと思いますm(_ _)m
アンデレはペトロの弟である。“一番弟子”ペトロの影にかくれて、アンデレの話はあまりのこっていない。十二弟子のうちとくにイエスが信頼した“側近”はペトロとヤコブ&ヨハネ兄弟であり、アンデレはその三人とごく近しかったのにそこに入っていない。
イエスに会うまえ、アンデレは親友のヨハネとともに洗者ヨハネの弟子だった。師からイエスの評判をきいて会いにいき、その人柄にほれこんで弟子入りした。
そしてすぐに兄のペトロにイエスのすばらしさを話している。ペトロとイエスが出会うきっかけをつくったのもアンデレである。その後ペトロのはたした役割を思えば、アンデレの功績は大きい。
でも側近にはなれなかった。ヨハネとともに“最初の弟子”のひとりでありながら、ずっと「あのペトロの弟」で過ごした。
きっとアンデレはそんなことどうでもよかったのだろう。不平ひとついわない。なにかにつけてだれがいちばんえらいかを口論する弟子たちのなかで、彼はめずらしくおだやかで控えめな男だった。ちなみにアンデレとは“男らしい”という意味である。主役ではないが渋いヤツという感じだったのだろう。
さて、そんなアンデレもいくつかエピソードをのこしている。まず「パンの奇蹟」から。
イエスの人気が絶頂だったころの話である。ガリラヤ湖畔で布教を終えたイエスのあとを五千人(!)の聴衆がついて歩いている。もう日暮れどき、そろそろ夕飯の時間だが彼らは家にかえろうとしない。
空腹でくたびれきっていた弟子たちははやいとこ聴衆をかえして休みたいと思っていた。
ところが、イエスは賄い担当のピリポをよぶと「パンを彼らにあたえたいが、どこで買ったらいいだろう」ときく。
ピリポはこたえる。
「とてもムリです。そんなお金ありません」
そこでアンデレ登場である。待ってました!といいたいところだがあんまりたいしたことはしない。弁当(五つのパンと二匹の魚)をもっていた少年をみつけて「なんかの足しにはなるかな」とイエスのもとへつれてきただけである。でもそれが奇蹟をよぶ。
イエスは少年のパンをちぎって人々にくばりはじめた。するとふしぎ、いくらちぎってもパンはへらず、五千人すべてにいきわたってしまったのである。
(『遠藤周作で読む、イエスと十二人の弟子』新潮社より)
この五千人の給食の話は、四福音書のすべてに出てきます。
記述に若干の差異があるとはいえ、二匹の魚と五つのパンが、五千人以上の人々に行き渡ったという奇跡……これはちょっと俄かには信じ難い、まさに神さまにしか起こしえない奇跡だったろうと思います。
と同時に、この五千人の給食のお話は、旧約聖書のモーセの時代、神さまがイスラエル民族を養うために天からマナを降らせてくださった奇跡を思いださせます。イスラエル人がエジプトで奴隷であった時、モーセがその解放者として立ち、紅海を割ったという話はあまりに有名ですが、この出エジプト後、イスラエル民族はそうした神さまの起こしてくださった<奇跡>の有り難みを忘れ、水がないとか食料がないとか、あれが食べたいとかこれが食べたい……といったように荒野でつぶやくようになっていきます。
神さまはそうした民の不平不満を聞いて、<マナ>と呼ばれる食物を天から降らせ、日々イスラエル人を養ってくださったのですが、民の不平やつぶやき、背きが積み重なっていった結果として――イスラエル民族は40年の間荒野をさまよい、神の<約束の地>へ実際に入ることが出来たのは、出エジプトを経験した世代の者ではなく、その次の世代の人々でした。
旧約聖書を要約するとしたら、神さまに選ばれたイスラエル民族が、いかに神さまの言いつけに背き、最後には滅ぶことになったかという歴史が綴られているといっていいと思うのですが、イエス・キリストというのは、この神に選ばれた人モーセの再来どころか、それ以上の方だということですよね。
「人はパンのみにて生くるにあらず」……この言葉もまた有名なものですが、人間にはパン(経済的必要)が必要であるのと同時に、神さまのことを求める霊的必要といったものがあり、これらの必要のうちどちらが上かといえば、1が霊的必要であり、次がパンといった食物に代表される経済的必要なのだと思います。
「神の国とその義とを第一とせよ。さらばこれらのものは与えられん」とも聖書には記されているわけですが、人間はしばしばこの順番を間違える、取り違えるということがあまりに多いのかもしれません(実際、わたし自身もそうです^^;)。
神さまのことを第一として神さまのことを熱心に求めるような生活をするならば、他の生きていくに際して必要なものは自然と与えられるだろう(野の百合は紡ぎもしなければ、織りもしません)……でも人間は容易にそうとは信じられません。まずは先にパン(経済的必要)を与えよ、そうすればあんた(神)のことを信じてもいいよ――ということが、人間の側にはあまりに多いわけです。
神さまは人間のそうした求めについてもよく理解し、ここでも譲歩されているといっていいのかもしれません。
まずは飢えた人々にパンを与え、病いを癒し、悪霊といった悪いものの縛りの支配下から人々を解放し――そうしたあとで「自分について来なさい」とおっしゃったのですから。
けれど、イエスさまがここまでしたにも関わらず、心の頑ななある人々はやはりイエスさま、神さまのことを信じませんでした。
わたしたちはイエスさまの言行録の記された新約聖書を読む時、イエス・キリストと呼ばれた男の生きた、ある時代のひとときのこと……と思ってしまうことがあるかもしれませんが、その核心がどこにあるかといえば、やはりそれは<神の愛>という一語に尽きると思います。
つまり、まず神さまのほうが先に人間という存在に対し、<愛>を与えてくださったということですよね。「神さまが(先に)ああしてくれたら」、「こうしてくれたら」お宅のことを信じてもいいよ……と、人間の側では条件を出すことが多いわけですが、神さまのほうでは実はとっくの昔に「先に与える」という愛を実践してくださっているというか。
神さまの厳しく激しい人間への愛は、ご自身のひとり子であるイエスさまを十字架刑につけることによって頂点を極めるわけですが、この自己犠牲の愛、命さえも捨てるというすべてを捧げ尽くす愛の姿をイエスさまが実践してくださったことで、わたしたちキリスト教信者もまた、「先に与える愛」ということの後ろ姿を追っていくことが出来るのかもしれません(それこそ、十字架を背負った姿で、時によろめき、ふらつきながら)。
逆にいうとすれば、「神さま、あれしてください」、「これしてください」、「そうすればわたしもあなたに対してあれやこれやのことをして差しあげましょう」……といった考えを捨て、神さまのことを第一とする、自分の願望や欲望が一番ではなくて、神さまが人間に対して「先に与える愛」を実践してくださったように、わたしたちのほうでまず神さまに捧げるということをするなら――どんなにか神さまは豊かに祝福してくださることか……ということなのだと思います(十分の一を捧げてわたしを試してみよ)。
もちろん、神さまは恵み深い方ですから、人間のそうした逼迫した肉体的・精神的状況といったことについても理解してくださり(特に祈りを通して)、人間に対し「極限まで試す」ということを行なわれる反面、「先に与える」という深い愛を実践してくださる方なのです。
つまり、キリスト教における理想の人間関係というのは、(イエスさまが愛してくださるように)<互いに愛し合う>、すなわち、わたしも「先に与える愛」を実践するし、あなたも同じように「先に与える愛」を実践する……ということが理想の形なのだろうと思います。
「あなたが何々してくれたら、わたしもこれこれのことをするわよ」というのではなく、互いに譲りあい、与えあい、支えあうということをするなら、それが完全な愛の形といっていいのではないでしょうか。まあ、言うは易く、行なうは難しみたいなことではありますけれど(^^;)
そして、神さまのほうでは人間が<先に与える愛>を神さまにお捧げするのを、いつでも待っておられるのだろうという気がします。なんというか、神さまが目を留められる人間というのは結局、「あれしてくれ」、「これしてくれたらあんたを信じるよ」といった祈りを捧げる人間ではなく――「神さまにすべてをお捧げしたいのですが、どうしたら良いでしょうか」という、そのような信仰を持った人なのだと思います。
もちろんわたしも、「神さまにすべてを捧げるために献身する」といったことはいまだにしていないですし、一応理屈としては↑のようなことなのだろう……と理解してはいても、なかなか実践にまでは至らないという、実に信仰の弱い人間なのですorz
それでは、次回は十二弟子の三人目、ヤコブについてお書きしたいと思いますm(_ _)m
ではまた~!!
では今回は、十二弟子のふたり目、アンデレの紹介です♪(^^)
アンデレはペテロの弟で、ある意味、聖書内の目立ち度(?)ということで言うと、お兄さんが弟子たちのリーダー格で、言及されるそそっかしいエピソードが多いのに比べ――ちょっと控えめで目立たない感じかな、という気がしたり。
「遠藤周作で読む、イエスと十二人の弟子」によると、アンデレのところには「ペテロの弟で裏方タイプの穏健派」とあります。
この弟アンデレのエピソードというか、伝承的なもので一般に有名なものといえば、彼がX型の十字架にかかって殉教した……ということでしょうか。
これはイエスさまと同じ十字架にかかるのは恐れ多いとの理由かららしいのですが、兄のペテロもまた同じ理由によって、逆さ磔の刑によって殉教しているんですよね。
では、「遠藤周作で読む、イエスと十二人の弟子」より、一部文章を抜粋させていただきたいと思いますm(_ _)m
アンデレはペトロの弟である。“一番弟子”ペトロの影にかくれて、アンデレの話はあまりのこっていない。十二弟子のうちとくにイエスが信頼した“側近”はペトロとヤコブ&ヨハネ兄弟であり、アンデレはその三人とごく近しかったのにそこに入っていない。
イエスに会うまえ、アンデレは親友のヨハネとともに洗者ヨハネの弟子だった。師からイエスの評判をきいて会いにいき、その人柄にほれこんで弟子入りした。
そしてすぐに兄のペトロにイエスのすばらしさを話している。ペトロとイエスが出会うきっかけをつくったのもアンデレである。その後ペトロのはたした役割を思えば、アンデレの功績は大きい。
でも側近にはなれなかった。ヨハネとともに“最初の弟子”のひとりでありながら、ずっと「あのペトロの弟」で過ごした。
きっとアンデレはそんなことどうでもよかったのだろう。不平ひとついわない。なにかにつけてだれがいちばんえらいかを口論する弟子たちのなかで、彼はめずらしくおだやかで控えめな男だった。ちなみにアンデレとは“男らしい”という意味である。主役ではないが渋いヤツという感じだったのだろう。
さて、そんなアンデレもいくつかエピソードをのこしている。まず「パンの奇蹟」から。
イエスの人気が絶頂だったころの話である。ガリラヤ湖畔で布教を終えたイエスのあとを五千人(!)の聴衆がついて歩いている。もう日暮れどき、そろそろ夕飯の時間だが彼らは家にかえろうとしない。
空腹でくたびれきっていた弟子たちははやいとこ聴衆をかえして休みたいと思っていた。
ところが、イエスは賄い担当のピリポをよぶと「パンを彼らにあたえたいが、どこで買ったらいいだろう」ときく。
ピリポはこたえる。
「とてもムリです。そんなお金ありません」
そこでアンデレ登場である。待ってました!といいたいところだがあんまりたいしたことはしない。弁当(五つのパンと二匹の魚)をもっていた少年をみつけて「なんかの足しにはなるかな」とイエスのもとへつれてきただけである。でもそれが奇蹟をよぶ。
イエスは少年のパンをちぎって人々にくばりはじめた。するとふしぎ、いくらちぎってもパンはへらず、五千人すべてにいきわたってしまったのである。
(『遠藤周作で読む、イエスと十二人の弟子』新潮社より)
この五千人の給食の話は、四福音書のすべてに出てきます。
記述に若干の差異があるとはいえ、二匹の魚と五つのパンが、五千人以上の人々に行き渡ったという奇跡……これはちょっと俄かには信じ難い、まさに神さまにしか起こしえない奇跡だったろうと思います。
と同時に、この五千人の給食のお話は、旧約聖書のモーセの時代、神さまがイスラエル民族を養うために天からマナを降らせてくださった奇跡を思いださせます。イスラエル人がエジプトで奴隷であった時、モーセがその解放者として立ち、紅海を割ったという話はあまりに有名ですが、この出エジプト後、イスラエル民族はそうした神さまの起こしてくださった<奇跡>の有り難みを忘れ、水がないとか食料がないとか、あれが食べたいとかこれが食べたい……といったように荒野でつぶやくようになっていきます。
神さまはそうした民の不平不満を聞いて、<マナ>と呼ばれる食物を天から降らせ、日々イスラエル人を養ってくださったのですが、民の不平やつぶやき、背きが積み重なっていった結果として――イスラエル民族は40年の間荒野をさまよい、神の<約束の地>へ実際に入ることが出来たのは、出エジプトを経験した世代の者ではなく、その次の世代の人々でした。
旧約聖書を要約するとしたら、神さまに選ばれたイスラエル民族が、いかに神さまの言いつけに背き、最後には滅ぶことになったかという歴史が綴られているといっていいと思うのですが、イエス・キリストというのは、この神に選ばれた人モーセの再来どころか、それ以上の方だということですよね。
「人はパンのみにて生くるにあらず」……この言葉もまた有名なものですが、人間にはパン(経済的必要)が必要であるのと同時に、神さまのことを求める霊的必要といったものがあり、これらの必要のうちどちらが上かといえば、1が霊的必要であり、次がパンといった食物に代表される経済的必要なのだと思います。
「神の国とその義とを第一とせよ。さらばこれらのものは与えられん」とも聖書には記されているわけですが、人間はしばしばこの順番を間違える、取り違えるということがあまりに多いのかもしれません(実際、わたし自身もそうです^^;)。
神さまのことを第一として神さまのことを熱心に求めるような生活をするならば、他の生きていくに際して必要なものは自然と与えられるだろう(野の百合は紡ぎもしなければ、織りもしません)……でも人間は容易にそうとは信じられません。まずは先にパン(経済的必要)を与えよ、そうすればあんた(神)のことを信じてもいいよ――ということが、人間の側にはあまりに多いわけです。
神さまは人間のそうした求めについてもよく理解し、ここでも譲歩されているといっていいのかもしれません。
まずは飢えた人々にパンを与え、病いを癒し、悪霊といった悪いものの縛りの支配下から人々を解放し――そうしたあとで「自分について来なさい」とおっしゃったのですから。
けれど、イエスさまがここまでしたにも関わらず、心の頑ななある人々はやはりイエスさま、神さまのことを信じませんでした。
わたしたちはイエスさまの言行録の記された新約聖書を読む時、イエス・キリストと呼ばれた男の生きた、ある時代のひとときのこと……と思ってしまうことがあるかもしれませんが、その核心がどこにあるかといえば、やはりそれは<神の愛>という一語に尽きると思います。
つまり、まず神さまのほうが先に人間という存在に対し、<愛>を与えてくださったということですよね。「神さまが(先に)ああしてくれたら」、「こうしてくれたら」お宅のことを信じてもいいよ……と、人間の側では条件を出すことが多いわけですが、神さまのほうでは実はとっくの昔に「先に与える」という愛を実践してくださっているというか。
神さまの厳しく激しい人間への愛は、ご自身のひとり子であるイエスさまを十字架刑につけることによって頂点を極めるわけですが、この自己犠牲の愛、命さえも捨てるというすべてを捧げ尽くす愛の姿をイエスさまが実践してくださったことで、わたしたちキリスト教信者もまた、「先に与える愛」ということの後ろ姿を追っていくことが出来るのかもしれません(それこそ、十字架を背負った姿で、時によろめき、ふらつきながら)。
逆にいうとすれば、「神さま、あれしてください」、「これしてください」、「そうすればわたしもあなたに対してあれやこれやのことをして差しあげましょう」……といった考えを捨て、神さまのことを第一とする、自分の願望や欲望が一番ではなくて、神さまが人間に対して「先に与える愛」を実践してくださったように、わたしたちのほうでまず神さまに捧げるということをするなら――どんなにか神さまは豊かに祝福してくださることか……ということなのだと思います(十分の一を捧げてわたしを試してみよ)。
もちろん、神さまは恵み深い方ですから、人間のそうした逼迫した肉体的・精神的状況といったことについても理解してくださり(特に祈りを通して)、人間に対し「極限まで試す」ということを行なわれる反面、「先に与える」という深い愛を実践してくださる方なのです。
つまり、キリスト教における理想の人間関係というのは、(イエスさまが愛してくださるように)<互いに愛し合う>、すなわち、わたしも「先に与える愛」を実践するし、あなたも同じように「先に与える愛」を実践する……ということが理想の形なのだろうと思います。
「あなたが何々してくれたら、わたしもこれこれのことをするわよ」というのではなく、互いに譲りあい、与えあい、支えあうということをするなら、それが完全な愛の形といっていいのではないでしょうか。まあ、言うは易く、行なうは難しみたいなことではありますけれど(^^;)
そして、神さまのほうでは人間が<先に与える愛>を神さまにお捧げするのを、いつでも待っておられるのだろうという気がします。なんというか、神さまが目を留められる人間というのは結局、「あれしてくれ」、「これしてくれたらあんたを信じるよ」といった祈りを捧げる人間ではなく――「神さまにすべてをお捧げしたいのですが、どうしたら良いでしょうか」という、そのような信仰を持った人なのだと思います。
もちろんわたしも、「神さまにすべてを捧げるために献身する」といったことはいまだにしていないですし、一応理屈としては↑のようなことなのだろう……と理解してはいても、なかなか実践にまでは至らないという、実に信仰の弱い人間なのですorz
それでは、次回は十二弟子の三人目、ヤコブについてお書きしたいと思いますm(_ _)m
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