前回のお話は、ノンクリスチャンの方にとってはおそらく、「それで、コイツは結論として何を言いたいんだ?」といった感じだったと思うのですが……ちょっとまだ本のほう全部読み終わってないので(汗)、最後のページまで読み終わったら、また記事のほうは上げたいと思っていますm(_ _)m
という前提でお話を進めさせていただきたいのですが、今ちょっとお話のほうが重要なところに差しかかっていて、「ああ、なるほど!」と思ったことがあったものですから(^^;)
さて、わたしがこの本を「読まねばならぬ☆」と思った動機というのが、次のようなものでした。人間の<意識>といったものを論じた本は他にもあって、そちらもいずれいつか読みたいと思っているものの、本屋さんでこの本を見かけてぱらぱら読んだ時、<植物状態にある方の脳>や<ロックトイン(閉じ込め状態)にある方の脳>のことなどが論じられていることがわかり――で、後ろのページのほうを見たらば、日本で発行されたのが2015年5月とあったので、理論としては比較的新しいと見て間違いないと思ったというのがあります。
わたしがイエスさまのことを信じた時、某脳外科の病院で看護助手の仕事をしていたのですが、植物状態にある方や、あるいは脊髄損傷で意識はあっても首から下は動かせないといった患者さんがいらっしゃいました。
脊髄損傷の方の場合は、以前テレビで再生医療(神経再生)によって新しい光が差してきた――というのを、NHKでやっていた気がするのですが、仮に今すぐでなくても(今はまだ治験の段階なのだと思います)、この先いずれこの方法が治療のスタンダードになるだろう……というのでしょうか。そうした意味でわたしも、本当に心から嬉しく思いました。今まで「治る見通し(以前のように体を動かせるようになる)は絶望的だ」と、お医者さんのほうでも告げるしかなかった損傷が、「いずれ治療できるようになる」という見通しがつくようになったわけですから。
そして、わたしが病棟で見た植物状態にある患者さんというのは、脳梗塞や交通事故などで運ばれて来、手術をしたものの、運ばれてくるのが遅かったなどして、そのような意識状態に陥ってしまった患者さん……ということになると思います。
その、以前「はるかな国の兄弟」という記事の中にも書いたのですが、こうした植物状態の方がいらっしゃることによって、<介護>ということにおいてはとても勉強になったと思っています。つまり、そのような「意識があるのかないのかわからない状態」で生き続けるというのはご本人にとってもご家族にとってもつらいことであり、そうした患者さんと関わって介護させていただくというのは――ある意味、「常に相手の立場に立つ」ということの連続から成り立っていると思うんですよね。
向こうから何か意思表示されるということは一切ないわけですから、自分がもしこうした寝たきりの状態であったとすれば、どうして欲しいか、どんなふうに介護して欲しいか……ということを常に想像しなくてはいけませんし、植物状態の患者さんというのは当然、自分の意志で体を動かすことはありませんから、オムツの交換や体位交換、清拭、その他着替えや洗面など、すべてのことを介護者側が行わなくてはなりません。
つまり、こうしたことを毎日行う過程で、介護者はとても勉強になる部分が大きいですし、植物状態の患者さんというのはほとんど、介護者の「先生」とも言える存在ではないかという意味合いにおいて、「意識があるのかないのかわからない人の生は無意味だ」といったことは絶対にないと思います。
とはいえ、かといって自分が同じ状態になったら生きていたいかといえば、「殺してくれ」と思う可能性が高いのではないかと思いますし、ですから、この一般に<植物人間>と呼ばれる状態の患者さんを前にすると、本当にどう言ったらいいのか、表現できる言葉がなかなか見つかりません。
ただ、もしわたしが誰か知り合いの方のお見舞いなどにいって、ちらとそうした方を見かけたくらいだったら――(ああ、本当にお気の毒に)と思った翌日には忘れているくらいの体験だったろうなと思うのです。けれども、そこにいた一年近くの間に、わたしがその病院へやって来るずっと前からそうした状態であり、おそらくこれからも変化なく過ごされるであろう患者さんを介護してみて……その体験というのは、自分の一部のようなものになり、言ってみれば今もわたしの脳に住み着いて忘れることの出来ない出来事になりました。
そして、思ったんですね。ひとつの脳外科を専門にした病院にこれだけの植物状態の患者さんがいるということは――この問題は氷山の一角に過ぎず、日本全体、世界規模で見た場合には、<植物状態>の患者さんというのはかなりの数に上るのではないか、と。
こう書いてくると、何かわたしが慈善的な人間のように思われるかもしれませんが、わたしが<植物状態>(正確には遷延性意識障害)と呼ばれる患者さんに強い興味と関心を持っているのは、基本的には何か自分のためといった利己的な理由に基づいています。
というのもわたし、こう感じながら生きている人は圧倒的に多いとは思うのですが、どうもこう「運の悪い側の人間だ」という気がするのです。そこで常に<最悪の状態>というのを想定しながら生きているところがあるのですが、運命という名の悪魔というのは常に欺くもので、わたしが<最悪の状態>と想定した事態というのは実際に実現したり、あるいはそれよりもひどいことになった……ということがあったりするんですよね
ゆえに、思うのです。「自分だけはそんなことにならない」だとか、そんな考えはまったくなんの根拠もないことであり、明日階段から落ちて脊髄を損傷する可能性もあれば、運悪く交通事故に遭い、救急車で運ばれ集中治療室での治療の甲斐もなく、植物状態に――というのは、自分、あるいは家族のうちの誰かがそうならない可能性というのは絶対的にないと思っています。
だからずっと、「自分がそうなったらどうするか」と考え、また実際そうなってしまったらもう、仮に意識があったにせよ、外部に自分が何をどう思っているかを伝えられる術は遮断されることになるのだ……ということであり、<植物状態>といったことについて考えはじめると、大体この部分をずっとぐるぐる歩き回っておらねばならんわけです。
そこで、その病院を辞めたあと、自分でも色々勉強をはじめましたし、テレビでそうした事柄に関わりのある番組の放映があると、なるべく見るようにしたりと、そんなふうにして時間というのがただ過ぎていったのですが、この「意識はいつ生まれるのか」は、かなりのところわたしが情報としてずっと欲しいと感じてきたものを提供してくれたと思います。
つまり、かなり簡単にざっくり言ったとすれば、わたしたちの脳の中にわたしたちの<意識>と呼ばれるものがあるというのは誰もが知ってることなわけですよね?そして、この脳のうち、前頭葉が障害されたらどうなるかとか、頭頂葉が障害されたらどうなるかなど、その他側頭葉や後頭葉がどういった機能を司っているかなどもある程度わかっているわけですが……この脳のうち、どの部分をどの程度損傷したら我々の<意識>といったものが失われるのかというと、わたしたちの脳の中で<意識>に関して一番重要なのは、視床―皮質系だということでした。
前回、人間の大脳には約千億あるニューロンのうち二割(約二百億)が、小脳に残り八割(約八百億)のニューロンが詰まっている――といったように本の中から引用させていただきました。そして、交通事故などによってこの小脳のほとんどを脳外科の先生が切除せざるをえなかったとしても、その患者さんは術後、歩き方がおかしいといった運動機能に障害が見られるにせよ、大脳の意識に関わる部位さえ無事なら、その方の名前が仮に山田太郎さんであるとして、彼が<山田太郎さんである>という意識自体は事故前とまったく変わりなく存在し続けてゆくわけです。
ところが、約八百億もの小脳のニューロンが仮にほとんどなくなっても、その方が山田太郎さんであるという意識にまったく変わりはないのに、大脳にある残り約二百億のニューロンの多くが失われた場合……その方は自分は「山田太郎である」という意識を失うことになるわけです。
そして、この大脳の二百億のニューロンの分布のうち、特にどの部分が損なわれるか失われるかした場合、わたしたちは一般にいう<植物人間>と呼ばれる状態に陥るのか――なかなか難しい問題と思うんですよね(^^;)
>>植物状態は、脳幹の機能が回復しても、通常なら同時に回復するはずの視床―皮質系の機能が戻らず、覚醒していても意識がなく、なにかが見えることなく目が開いた状態、と定義できる。植物状態の患者は自発呼吸ができ、目覚めているように見えるが、意識がある兆候をまったく示さない。単純な指示に応えることがなく、ある部位に痛みを伴う刺激を受けても反応がない。反対に、筋緊張は高いことが多く、さまざまな動きが観察される。それらはオートマチックで、意図的でもなければ目的もない。物体を見るためではないのに目が動き、手や首が反射的に動き、顔をしかめたり、噛んだり、声を発したり、突然笑ったり泣いたりするということが、自動的に起こる。
(『意識はいつ生まれるのか』マルチェッロ・マッスィミーニ、ジュリオ・トノーニさん著、花本知子さん訳/亜紀書房より)
>>原因。
植物状態になるのは、大脳(脳の最大の部位)に重度の損傷を受け精神機能が不可能になっているものの、網様体賦活系はまだ機能していて覚醒が可能なときです。網様体賦活系は、覚醒レベル(目を覚ましているかどうか)を制御しています。網様体賦活系は、脳幹(大脳と脊髄をつなぐ脳の部位)上部の深くに位置する神経細胞と線維で構成されています。
植物状態の最も一般的な原因は、以下のものによる重度の脳損傷です。
・頭部外傷
・心停止や呼吸停止などの、脳への酸素供給を断つ病気
しかし、脳内への出血(脳内出血)や脳感染症など、脳をひどく損傷する病気であればどのようなものでも、植物状態の原因になりえます。
(MSDマニュアル家庭版より)
もう少しわかりやすく書いたとすれば、仮にわたしが交通事故に遭って救急車で運ばれたといったような場合――そちらの救急搬送先の病院では、おそらく(笑)最善を尽くしていただけると思うのですが、脳への酸素の供給や血流が途絶した状態から、一秒でも速く回復できることがもっとも望ましいとはいえ、なんらかの理由によって病院まで運ばれるのに時間がかかってしまった、あるいは事故の発見自体が遅れたといった場合……事故の程度や脳や体の損傷部位にもよるにせよ、わたしが植物状態に陥る可能性というのは高くなるかもしれません。
というのも、一度死んだ脳細胞は復活してこないにしても、人工呼吸器があれば、体に必要な酸素量というのは回復するわけですよね。また、救急病院の先生たちが脳の出血を止めてくださったり、頭蓋内の脳圧を正常にしてくださったにしても――その後の意識の回復については、「患者の意識が戻るかどうについては神のみぞ知る」ということはぶっちゃけ多いのではないでしょうか。
もちろん、脳・体ともに軽度の損傷であれば、「これなら間違いなく絶対に患者の意識は戻ってくる」と確信できると思うのですが、たとえば病院に搬送されるまでに一時間かかった、また、事故が起きてから何分経って発見されたのかも不明といった場合……脳外科的処置や手術をしたにせよ、その後意識が出てくるかどうかというのは、患者さん次第ということは結構あるような気がします(^^;)
たとえ話の続きとしては、わたしは救急病院に運ばれて、脳の損傷部位を手術してもらい、体の骨折などにも処置がなされました。ところが、三週間しても一月が過ぎても、さらには三か月が過ぎてもわたしの意識は戻ってきませんでした。呼吸や心拍などを調整する脳幹のほうはまったく無事だったので、わたしには自発呼吸があり、今では人工呼吸器も外されています。
さらには、わたしの口からは時折、不明瞭ながらも言葉が洩れることもあり、その度に母などは「△□ちゃん、わかる!?お母さんよっ!!」と叫んだりするのですが、わたしの目はどこかを見ているような見ていないような……何かよくわからぬ方向をいつも見つめているといった状態です。
お医者さんからも、「意識の回復は難しいものと思われます。そろそろ、そうした長期療養型の病院へ転院することをお勧めしたいのですが……」と言われたものの、家族は「絶対△□の意識は戻ってくる!」と信じてやまず――とはいえ、現実のわたしには、その後も一向なんの変化も起きない……といった状態をちょっと想像してみてください(^^;)
さて、この時わたしの脳内では何が起きているのか、という問題について再び考えたいと思うのですが、「意識はいつ生まれるのか」のサブタイトルは「脳の謎に挑む統合情報理論」というものなのです。
そして、著者のマルチェッロ・マッスィミーニさんとジュリオ・トノーニさんの考えによると、この人の一般にいう<植物状態>というのは、脳の中の情報統合能力が失われた状態、ということになるのだと思います。
わたしたちの頭の脳の中は、大脳、間脳、脳幹(中脳、後脳、延髄)、小脳の4種類の領域に分類されるわけですが、わたしたちの<意識>に関わるのは大脳の部分であり、前頭葉、頭頂葉、後頭葉、側頭葉などが互いに密接な連携プレーを行っているらしい……というのは、普段まったく意識しないにせよ、「まあ、なんかそうらしいね」くらいのことは誰もがご存知のことと思います。
現段階における最終的な結論としては、この大脳の中のどの部分をどの程度わたしたちが失ったらいわゆる<植物状態>と言われる「意識がない」状態になるのかは、はっきりしたことは言えないそうです。ただ、先ほどわたし、仮定のお話として交通事故に遭い、その後植物状態であると診断されたわけですが、このあともしわたしの意識が戻ってきたとしたら――わたしの脳の中では何が起きたということになるのか、というのが肝要な点なのではないかと思うわけです。
そして、著者のマルチェッロ・マッスィミー二さんやジュリオ・トノー二さんは、特殊な計測装置(TMS脳波計)によって、こうした<植物状態>、<ロックトイン状態>、<最小意識状態>にある方の脳を――おそらく何十人も、と思われるのですけれども、計測していったわけですよね。
そこで、あくまでざっくり最終的な答えをわかりやすく述べるとしますと、不幸な交通事故、あるいは脳梗塞などで大脳の脳細胞を損壊した方がその後、意識を回復した場合においては、「脳の機能を統合する能力を回復したことにより、意識が回復した」ということなのだと思います。
いえ、「そりゃーあったり前やがな☆」という話なのですが、意識が戻ってこない、あるいはそれがあるのに外部にそのことを伝えられないといった場合、この「脳の機能を統合することができない」、あるいは「統合する能力が部分的に失われている」ということを意味しているわけです。
ここでちょっとわかりやすいようにさらにたとえ話を入れますと、交通事故に遭って頭部に損傷を負うというのは、ある意味わたしの脳内で震度7クラスの地震が起こり、津波によって脳のそれぞれの部位にかかっている橋の多くが壊れてしまった状態……といっていいと思うんですよね。
このことによって、前頭葉は頭頂葉とも後頭葉とも一切連絡の取れない孤島状態に陥った――くらいなら、もしかしたらまだなんとかなるのかもしれません。けれどもそうではなく、前頭葉を司る機能は前頭葉の部位でさらにいくつもの群島のような状態となって、しかもここも橋の多くが壊れて連絡が取れなくなっている、また頭頂葉も側頭葉も後頭葉も大体似た状態だ……だが、脳幹は無事なので、患者は自発呼吸ができ、バイタルのほうも大体落ち着いている、といった場合、一度死んだ脳細胞同士の間に橋はかからないわけですから、この孤立した島の中で生きている機能があったとしても――脳は全体として統合する能力を失っているということになるわけです。
それで、ですね。この橋のかからなくなった小さな島同士の中には、ぶっちゃけ、そのまま海の中に沈んでも、生きる上でなくてもギリどうにかなるといった種類のものもあるでしょう。けれど、比較的大きな島として残った機能もあるのに、それは橋さえあれば再び機能できるはずなのに、そんな形で脳内の機能が<バラバラの島>として群生していたような場合……脳をMRIで撮ったりなんだりしても、「おお。だったらこことここを繋いでどうにかすれば患者の意識は回復するぞ」といったことは、今の医学ではまだわからない、ということなんだと思うんですよね(^^;)
<ロックトイン状態>や<最小意識状態>といったことについては、また別の記事で説明したいと思うんですけど……こうした<植物状態>の患者さんについて、もう本当に望みはないのかというと、「意識はいつ生まれるのか」を読んでみて、希望があるのではないかと、個人的にはそう思いました。
と言いますのも、やはり脊髄損傷の方が再生医療によって回復するかもしれないというのと同じく、再生医療、つまりは新しい細胞を用いるなどして植物状態の方の脳の駄目になってしまった部分を再生できた場合――再び意識を回復する可能性があるのではないかと、自分的にそう思ったからなのです(参考サイト様=「脳の再生医療」よりm(_ _)m)
つまり、脳内の<バラバラになった島>同士が再びそうした形で繋がるなら、脳は脳内のあらゆる部位を<統合する力>を回復し、統合する力が回復したなら当然、その方の意識は戻ってくるということです。まあ、わたしのこの書き方だと「何言ってんのかわからん」と感じられる方もいらっしゃるかもしれないのですが(汗)、とにかく、「意識はいつ生まれるのか」を読んで、「希望はあるし、再生医療がこれからさらに発達する段階において――救急医療において、助かる人の率はさらに上がる、また以前は植物状態に陥った方の意識が当たり前のように回復する」ということが、現実として間違いなく起きてくると思いました。
そしてこれはおそらく、今植物状態になって十何年にもなる……という方にも、適用できる方法ではないかと思いますので、将来的に希望があるのではないかと想像したのです。
もちろんわたしは医療の素人であって専門家ではありませんので(汗)、その分野の専門家の方がどうおっしゃるかはわかりません。でも、以前テレビで植物状態の方に関してではありませんでしたが、脳梗塞や交通事故などで救急搬送されてきた患者さんの治療法として、こうしたことがいずれスタンダードになるのではないか――的なことをやってるのをチラと見かけたことがあったんですよね(たまたまチャンネルを色々変えてたらそんな場面が映った……といった程度の記憶なんですけれども^^;)。
もっとも今はまだある程度の<見通し>がついたといった段階なのかもしれませんし、これからさらに研究や実際的な治験といったことを順にクリアしていく必要があるのだとは思います。そして、具体的にそれがいつのことになるのか、何年先なのかといったことについてはわたしもわからないのですが……昔なら「そんなこと、夢見物語だ」、「変に患者や患者の家族に期待や希望を持たせるんじゃない」、「三流のSF小説じゃあるまいし」……と言われたことが、かなり現実的な段階に入ってきた、と言っていいのではないでしょうか。
繰り返しになりますが、わたしが植物状態の患者さんのことを今も忘れられないのは、まず第一に「自分がそうなったらどうしよう」ということがありきではあるのですが、それと同時に、その患者さんやご家族の方の心痛を思い、「これは本当にいつか医療でなんとかならないのだろうか」と思い続けてきたということがあります。
また、これも繰り返しですが、わたしは医療の素人であって専門家でもなんでもありませんので、この記事に書いたことには誤りも含まれているかもしれない……ということも、一応最後に書き添えておきたいと思いますm(_ _)m
では、次回は<ロックトイン(閉じ込め)状態>や<最小意識状態>のことについてから、お話をはじめようかなと思っています。。。
それではまた~!!
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