神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

神のみぞ知る。-【3】-

2019年08月28日 | キリスト教


 >>植物状態は、昏睡が新たに生んだ症状のひとつにすぎない。昏睡から回復した人のなかには、植物状態にはならず、目を開き、自分とまわりの世界を知覚して意識を完全に取り戻すものの、全身が麻痺したままの患者もいるのだ。その場合、痛ましいことだが、体が一時的に麻痺する手術中の患者とは異なり、神経が損傷を受けているために麻痺が解けることはない。(わずか数センチメートル程度の)小さい範囲の傷でも、それが鍵となる場所の損傷であれば、往々にして麻痺の原因になる。

 たとえば、脳幹のうち、大脳皮質から脊髄へ動作の指令を運ぶ(何十万もの)繊維が集まって、ひとつの束を構成している箇所である。この部分にダメージを受けると、英語圏でロックトイン(閉じ込め)と呼ばれる症候群が引き起こされる。世界から取り残された無力な症状を、これほどよく表した名称はほかにはないだろう。ロックトイン症候群の患者は、植物状態と誤診されることが少なくない。特に、症状が出てからの最初の数か月間は誤診が起こりやすい。

 幸いにも、ロックトイン患者の多くは、時間の経過とともに、まぶたを開け、目を上下に動かす能力を取り戻す。というのも、損傷よりも上の箇所から脳幹の外に出る繊維があって、目の運動はその繊維により可能になる唯一の動きだからだ。その目の動きが偶発的ではないことに最初に気づくのは、患者の家族であることが多い。患者が大変な努力をし、意識があることを伝えようとしている必死のサインをキャッチするのだ。意識があるとまわりに認知されると、ロックトイン患者は、残された身体機能である目を動かす力を使って、二者択一のサインを定めることから始める。最初は基本的なコミュニケーション(はい/いいえ)を行い、時間がたつにつれて、もっと効率的なやりとりが徐々にできるようになる(最終的には、アルファベットの文字をひとつひとつ指し示せるようになる。その際、コンピュータの力を借りることが多い)。

(『意識はいつ生まれるのか~脳の謎に挑む統合情報理論~』マルチェッロ・マッスィミーニ、ジュリオ・トノーニさん著、花本知子さん訳/亜紀書房より)


 >>自然は、善しにつけ悪しきにつけ、いろいろな状態を際限なくつくりだす。植物状態とロックトイン症候群のあいだにも、「最小意識状態」という名の、実態があまりつかみきれていない状態も存在する。この状態が植物状態と別のものであると認知されたのは、2002年のことにすぎない。このことは、昏睡後に現れる状態について、われわれの理解がいかに追いついていないかを示している。これからの数十年で、まだまだいろいろなことが明らかになるだろう。最小意識状態の患者とは、コミュニケーションはまったくとれないが、不定期にではあっても、自動的とはいえない体の動きのサインを出す患者である。その典型的な例として、ふだんは反応がないのに、ときどき、病室に入ってくる家族や医師を見つめ、目で追うという行為が見られる。

 最小限の意識のサインは、日々変動する。日々といわず、一分単位で変化することもある。それらは、意図的ではない強い反射の動きと、非常に見分けがつきにくい。とらえるのが大変難しいサインである。患者の指が動いたりまぶたを閉じたりしても、外部の刺激に対する意図的な返事なのか、ただの偶然なのか、判断がつかないことがままある。突然泣きだしたり、笑いだしたりするという行為の裏には、感情が潜んでいるのか。それとも、脳幹周辺の部位にあるニューロン・グループが、やみくもに活動しているだけなのか。

(『意識はいつ生まれるのか~脳の謎に挑む統合情報理論~』マルチェッロ・マッスィミーニ、ジュリオ・トノー二さん著、花本知子さん訳/亜紀書房より)


 わたしがロックトイン症候群という名前を知ったのは、ALS(筋萎縮性側索硬化症)の患者さんがもっとも恐れる症状がロックトインと呼ばれる意識状態だ……と聞いたことからだったと思います。

 ALSの患者さんは、運動神経系が衰えていくことによって、体の手や足が使えなくなっていくだけでなく、やがて呼吸筋麻痺や嚥下筋麻痺によって人工呼吸器を使用したり、胃ろうによって栄養を摂取することになると思うのですが、それでも意思疎通の最終手段として、目のまばたきによりYes,Noを伝えたり、コミュニケーションボードによって何をどうして欲しいかを伝えたりといったことが可能と思うんですけど……この目の筋肉をも使えなくなった時、意識はあるのに、自分の意思を伝達できなくなる、この状態をロックトイン状態と呼ぶ、と確かテレビで聞いたように記憶しています(^^;)

 けれど今回、「意識はいつ生まれるのか」を読んで、目の筋肉を動かすことが出来なくなっても、眼球の動きによって意識の確認と意思の疎通は可能である――と書いてあるのを読み、何か少しだけ安心しました。このこともまた、前回書いたとおり「自分がもしそうなったらどうしよう」という恐れから、植物状態といったことと合わせて長く関心を持ち続けている事柄なのですが……ALS患者さんの多くは、ロックトインと呼ばれる状態になる前に亡くなる場合のほうが多いとも聞き、そのことにもほんの少しだけ安心したり。。。

 そして、<最小意識状態>と呼ばれる意識状態があると、今回「意識はいつ生まれるのか」を呼んで、初めて知りました。<植物状態>と<最小意識状態>でどう違いがあるかといえば、TES脳波計の他にも、人の意識があるかないかといったことを計るそうした科学的装置があって、<最小意識状態>の患者さんの場合、その後意識が戻ってくることが多い、ということがわかっているそうです。

 見た目のほうは、<ロックトイン症候群>の患者さんも、<植物状態>の患者さんも、<最小意識状態>の患者さんも、昏睡状態に見えるという意味では、一見違いってないと思うんですよね。けれど、そうした意識をはかるための装置にかけてみると、相手の意識のある・なしというのがわかり、そうした以前はわからなかった違いがわかるようになってきたというのは、本当にとてもすごい科学的進歩ではないでしょうか。

 このあたりのことは是非、「意識はいつ生まれるのか」の本のほうを読んで欲しいのですが、やっぱりここまでのことがわかるようになって来ても、唯一植物状態にある患者さんのみ、<意識があるのかないのか>の判断がつかない、あるようには思えないが、かといって絶対にないとも言えない……ということなんだと思うんですね。


 >>昏睡を脱する患者の多くは、脳組織に受けた損傷があまりに重い――皮質ニューロンの大部分がだめになったり、ニューロンをつなぐ軸索の大半が破壊されたりしている――ので、ほとんど希望が持てない状況にある。脳の構造的な回復の余地は、かなり限られているからだ。だが、ほかの患者についてはどうだろう。大脳の右半球はまるまる無事なのに、ずっと眠りについている、あの若い元ボクサーはどうなのか。ある微細な機能が失われたために、脳がブロックされ、ばらばらのモジュールになっているケースもあるだろう。なんらかの鍵さえ見つかれば、動かなくなった機(はた)が、ふたたび意識体験を織り出すようになるかもしれない。これは、その解明に一生を捧げようと決心する人が現れてもおかしくないような疑問だ。脳という物体において、複雑性がどのように生まれ、崩れ、復活するのか、それを明らかにする挑戦が待っている。

(『意識はいつ生まれるのか~脳の謎に挑む統合情報理論~』マルチェッロ・マッスィミーニ、ジュリオ・トノーニさん著、花本知子さん訳/亜紀書房より)


 前回、頭の中で震度7の地震が起きた場合――脳の中の機能はバラバラの島のように千切れてしまい、お互いの組織の間にかける橋がない状態になる……みたいなたとえ話をしたのですが、これがようするに>>ばらばらのモジュールになっている。ということなんですよね。

 つまり、簡単にいえば橋さえかかれば、再び動かなくなった機(はた)が、再び意識体験を織り出す可能性というのがあると思うのです。それで、このことも前回お書きしましたとおり、これから再生医療の技術が進めば――植物状態に陥り、十何年にもなる患者さんであったとしても、意識が戻ってくる可能性があるのではないかと想像しています。

 そして、ここからがさらに大切な点なのですが、では、<死>とは何か、という問題が出てくると思うんですよね。「意識はいつ生まれるのか」の中では、脳死患者さんの意識については、<脳死>と診断された時点でそれは<全脳死>ということを意味することから、意識はないと分類されているのですが……個人的に、この<脳死>ということにも倫理的な意味で非常に問題があると思っています(参考記事=「脳死とラザロ」)。

 また、これも「意識はいつ生まれるのか」の中に書かれている文章なのですが、こう考えていった場合――わたしたちは結局、<死>を恐れる必要はないのではないかということでした。何故といって、「死を感じる意識」というものは死んだらないわけですから、人間の意識というのは<死>そのものを意識することはないということです(あの、意味わかっていただけますでしょうか?笑)。

 ゆえに、この昏睡状態における意識のある・なし問題の最大の問題点は、植物状態と診断された患者さんが、実は意識があるのにないとされている可能性が僅かながら残っている、そしてそのような状態で何年、あるいは何十年も放置されることがありうるというのは、そのような方がひとりでも存在する……というだけでも、到底耐えられない状態だ、ということなのです。

 そのですね、再生医療ということを突き詰めていくと……技術の進歩、ということでは、これからさらに何年、何十年も研究を重ねていく必要があるにしても――一度死んだ脳細胞を再生医療によって新しく復活させることが出来るとしたら、脳死状態の患者さんですらも甦らせることが出来るのかどうか、再生医療が最大限に発達した場合、人は<死>をもいつか克服し、<永遠の生命>ということが実現するのかどうか……専門家さんのお話を是非一度聞いてみたいような気がしています(^^;)

 この件については、その道の専門家さんにお聞きするしかないので、一旦閉じますが、「人の意識のある・なし」、<死>ということに関して、わたしが経験した少し怖いお話をここでしたいと思いますm(_ _)m

 わたしが某脳外科さんで看護助手の仕事をしていた時、初めて夜勤というのを経験した時のことです。その時、その後一度も経験したことのない、一番おそろしい思いをしたといっても、今も過言でないと思っている出来事が起きました。

 確か大体六十台後半か、七十台初めくらいの患者さんで、仮にその方をMさんとお呼びしたいと思います。その、わたしの初めての夜勤の時、ナースコールがもう何度となく鳴ってMさんに呼ばれました。それで、すでに就寝時間もすぎた十時とか十一時くらいからはじまって、翌日の早朝、さらには日勤帯の職員さんが出勤してくる時間になっても――Mさんのそうした状態というのは続いたんですよね。

 この時、Mさんが何を介護者及び看護師さんに求めていたかというと、それは次のようなことでした。「ねえ、お願いだから助けてェっ。自分が自分でなくなっていくのがわかるうっ!!」という……言葉は違っても、大体これと同じことを繰り返されるんですね。

 それで、そこの病棟のシステムとしては、ナースコールっていうのは名前だけで、ナースコールが鳴ったらば、わたしと同じ看護助手、あるいは介護福祉士さんがまずは取らなければならず、それで患者さんの話を聞いてトイレ介助をしたりとか、自分たちで間に合わない場合はその病室担当の看護師さんにそのことを伝えにいくわけです。

 で、言うまでもなくわたし、このことを夜勤の看護師さんに伝えにいきました。なんていうか、わたしの目から見て「明らかにこれはおかしい」というのはハッキリしてましたし、このMさん、左半身麻痺があったとはいえ、それ以外では意識のほうはもともと相当しっかりした方だったのです。

 その、普段は穏やかで優しい人が、こんなにも叫んでいる……わたしこの時、看護師さんに伝えさえすれば、すぐにお医者さんがすっ飛んでくるか何かして、Mさんの状態を診てくれるものと思ってました。

 ところが、ですね。。。

 とにかくナースコールが何度となく鳴らされるものですから、その度に看護師さんに伝えにいくものの――最初は仕事が忙しいのかと思いきや、かなり手がすいてきて休憩に入ったりするようになってからも、看護師さんたちがあまり具体的に動いてくれないのです(^^;)

『えっ!?この状態、明らかにおかしいってわかるでしょ?』と、素人のわたしでさえわかるのに、何故何もしてくれようとしないのだろう……で、ですね。看護師さんがわたしに言う指示というのも、「あなたがなだめてどうにかして」というものだったんですよ。

 もちろん、わたしもわたしなりに色々話しかけたりして頑張りました。でも、わたしだけじゃなく、看護師さんも「ちょっとどうしたのよ?」というくらい、とにかくばんばんナースコールが鳴るものですから、まあ仕事してても休憩してても誰も落ち着かないですよね。

 そこでその後、Mさんはナースステーションのすく真横あたりにある、意識のない状態の患者さん四人がいる病室のほうへベッド移動してくるということになりました。いえ、相変わらずこの時も言ってることは同じなのです。「お願いだから助けてェっ。自分が自分じゃなくなってくのがわかるのよォっ!」という……。

 これはMさんが突然精神病を発症したとか、せん妄状態というやつで、暫くすればよくなるとか、そうした種類のものとは絶対的に違っていました。今、Mさんの頭の中では何かが起きていて、そのことがMさんにはわかるんだ……ということが、切実なくらいわたしには伝わってくるのですが、看護師さんたちの態度というのがですね、案外冷淡なのです(^^;)

 一応、誤解のないように書いておきますと、その日、三人いた看護師さん(ひとりは4床あるICU担当)はみなさん優秀なというか、人柄的にも良い方ばかりだったのですが、その後わたしにわかったのは、まずお医者さんというのは特に夜勤帯の場合、よほどのことでもないと呼ばれることはない、ということだったでしょうか。

 いえ、病院というのは善意の医療という名を冠したブラック企業的なところがあると思うので、そのことも理解はできるのです。夜勤のあとに普通に日勤が入ってたりとか、「どうかしてるぜ、労働基準監督署☆」という実情があると思うのですが、しがない看護助手という立場のわたしとしては「ここまでおかしかったら医師を呼ぶべきだ」としか、Mさんの症状を見ていて思えなかったというか。。。

 でも、ですね……これでわたしが看護師さんだったらどうしてたかっていうと、やっぱりお医者さんを呼んでない可能性のほうが高かったりもするんですよ(^^;)何故かというと、Mさんがそうした状態になったのが10時とか11時とかそのくらいで、その後5時間しても6時間してもそのような状態が続くというよりは――まあ、3時間もすれば叫び疲れて眠るんじゃなかろーか、と思っていた可能性のほうが高いと思うからです。

 それに、看護師さんだったらきっと、「そんなせん妄状態の患者、これまでに何人も見てきとるわい」といった経験もあったでしょうし、この程度では到底医師に連絡するほどではない……と判断した気持ちもわかります。ところがですね、このMさん、翌朝になって日勤帯の職員さんたちが出勤してきてからも、とにかく一睡もせずに起きていて、ずっと同じことを叫び続けていたのです。。。

 夜中の間、他の患者さんの体位交換やオムツ交換、その他トイレ介助コールに対応するなど、色々な仕事をこなす合間の時間はこのMさんをなだめていなくてはいけないという、本当に大変な夜勤勤務となりました

 そしてこのあと、Mさんがどうなったかというと……その後ターミナルと呼ばれる状態になってしまったのです。わたし、看護師さんからその名称を聞くまで知らなかったのですが、その時夜勤で一緒でなかった別の看護師さんに「Mさんはターミナルだから」とお聞きしたのです。

 ターミナルというのは、ターミナルケアのことで、もう余命いくばくもない(大体3~6か月くらい)の方に対する終末期医療のことで、ターミナルと聞いて多くの方が連想されるのは、ガンなどによってホスピスでケアを受ける方のことではないかと思います。

 それで、ですね。ターミナルと呼ばれることになったMさん、この時点で意識のほうがまったくありませんでした。何か意味のある言葉を話すこともなければ、目のほうがもう一体どこを見ているのか……といった状態だったんですね。前はあれほど明瞭に話すことも出来、トイレの介助を受ければ「ありがとう」と言ってくれる優しい人だったのに、あの夜勤の時を境に劇的に意識状態が変わってしまったのです。

 もちろん、あの夜勤のあった翌日に突然ターミナルになったわけではなく、わたしが夜勤の翌日休んで次に出勤した時には、元は持っていた明瞭な意識を失っていたということなのです。では、この夜、Mさんの脳内では一体何が起きていたのか――「わたしがわたしでなくなっていくのがわかる」、そのような感覚というのが人にはありうるのか、この続きについては次回以降取り上げていきたいと思うのですが……このお話、真夏によく聞く怪談話より、よほど怖くありませんか?(^^;)

 でもですね、病院内におけるこうした「ちょっと怖い話」、「いや、ちょっとどころでなく怖い話」、「かなり怖い話」……というのは実際結構あるのではないでしょうか。

 今は昔はなかったインターネットというものがありますから、病院に入院して少しでも不快なことがあれば、「△□病院に入院したところ、手術後にこんなひでえ目にあった」的なことを、いくらでも書けてしまうわけですが――手術後、夜に体のどこかが痛むなどして看護師さんを呼んでも何もしてくれなかった、そこで「あんたじゃ話にならんから医者を呼べっ!」と何度も言ったところ、体を拘束帯によって拘束された……など、この手のことというのは一般的によくあるそうです(拘束されないまでも、とにかく夜勤帯になってからはお医者さんというのはよほどのことでもなければ来てくれないという話^^;)。

 でもこれ、お医者さんや看護師さん側も自分が入院して初めて、患者さんが何を言ってるのかがよくわかった、ということがよくあるそうです。たとえば、手術前に尿道に管を入れられると思うのですが、男性患者さんの中には手術後、「とにかくなんでもいいからこれを抜いてくれ!」とおっしゃる方は多いらしく……でも、夜勤帯の看護師さんっていうのは「手術後なんですから、多少の不快感は我慢してください」としか言わないということなんですよね(ある意味、当たり前のように思われますけど、「あんたは男じゃないからわからないんだっ!」と叫ぶ患者さんがいても実際はまるで不思議はないという話^^;)。

 まあ、わたしも女なのでわからないとはいえ、なんかあれ、相当不快だったり、突然そのあたりがカッと熱を持ってるようになったりとかして、「とにかく抜管してもらえれば楽になる」という感覚が、どうも患者さんのほうにはあるらしいのです。。。

 でも、こうしたことって、看護者・介護者側にとってはもう「ああ、ハイハイ。みんな手術後にはなんやかやあるのが当たり前ですからねー」的にしか受け止めてもらえないっていうことだったんですよ(^^;)

 そこでまあ、手術によって体もよくなり、お医者さん・看護師さん双方に感謝しつつ退院したものの、その部分の恨みだけを取り上げてネット投稿する……といったことは、今の世の中、割合よく見られる現象のようです

 ちょっと本筋から話が逸れてしまいましたが、とにもかくにも次回はこの続き、ということで。。。

 それではまた~!!





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