神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

迷信。

2016年04月12日 | キリスト教
【不吉な顔】エドワード・バーン=ジョーンズ




 すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。

(テサロニケ人への手紙、第5章21節)


 迷信、でぐぐってみると、>>誤った信仰。また、道理に合わない言い伝えなどをかたくなに信ずること。と、出てきました。

 古今東西、迷信と呼ばれるものはたくさんあって、中にはある種、伝統というか文化の一部のようになっている場合さえありますよね(^^;)

 たとえば、馬の蹄鉄をぶら下げると魔除けになるとか、日本だったらしめ縄飾りをお正月に玄関先に飾るといった類のことです。

 わたしも自分がクリスチャンになる前まではそうした事柄を色々信じていました。

 人生の悩みがとても深かった頃、たまたま十九歳で厄年に当たっていたため、これで自分の心身症が治るならと思い、神社に御祓いに行ったこともありました。

 そこでは、その年厄年に当たっている三十~四十人の方が一同に集められ、宮司さんっぽい格好の方が何か呪文のような言葉(たぶんお経かな?)を発しながらバッサバッサと白い魔除けの……ハタキじゃないし、あれ、なんていうんでしょう(笑)とにかく、そうしたものでみなさんの厄を祓ってくださるのでした。

 この時のことでわたし、とても印象に残っているのが、人型にくり抜いた紙の人形を渡されたことです。その紙人形を御祓いの最中に体の患部の悪いところにあてると治ると言われ、わたしもかなり必死な思いで祈ったという記憶があります。

 でもわたしの場合、結局これではまったく治りませんでしたし(笑)、その後人生が何かの形で上向いたということもなかったのです。

 何を言いたいかというと、ようするにこの種の類いのものは日本だけでなく世界各地にたくさんあるわけですが、いわゆるパワースポットと呼ばれる場所へ行ってなんとなく運気が上がったように感じて帰ってくる……ということが以前(今も?)割と流行っていたと思うのですが、その中には人を害するものも結構あるのではないか、ということでした。

 わたしも、もし自分が今クリスチャンじゃなかったら、絶対パワースポット派です(笑)もともと神社仏閣が大好きでしたし、小学生の頃から「いつかお遍路さんとして、八十八箇所巡りをしたい!!」という非常な熱意すら持ってる子供だったのです(^^;)

 他に、世界各地にあるいわゆる(キリスト教から見て)偶像を祀った場所なども、すべて回ることが出来たらどんなにいいか……という強い憧れを持ちつつ、アンコールワット遺跡の写真などをワクワクしながら見ていたものです。

 ところで、パワースポットは何故危険なのでしょうか。これはキリスト教を信じている人ではない方が、普通の会話としてテレビで話されていたことなのですが、ようするにパワースポットというのは「霊の交わる場所」ということでした。つまり、そうした意味で危険なのだそうです。「霊といってもいい霊ばかりではないし、そうした場所で悪い霊と交わってしまうことも可能性としてありうる」ということでした。また、場所だけでなく、そうした所に人は基本的に真夜中に行こうとは思いませんよね。いわゆる逢魔ヶ時などにも、そうした場所では変わったことが起きる確率が高いといったように、一般的に信じられているところがあります。

 この場合、「怖い。絶対何かが起きる」という人間の心理に何か霊的なものが実際に関わるのか、それともそうした人間の激しい思いこみから実際に何かが起きる、心霊的体験をするのかというのは、科学的証明がとても難しいことです。

 こうした事柄の他に、やはり<厄年>といった考え方というのは、人の心を縛るところがあると思います。ちょうどわたしがそうだったように、「きっと厄年だからこういう悪いことが」と思いこんだり、「今年は本厄に当たっているから、きっとろくなことがない」と思いこんだりするといったことが、心の縛りや思索の縛りということに繋がります。

 キリスト教ではこうした事柄に対して、「神おひとりにだけ目を留めよ」といったように勧めています。そしてわたし自身は実際にこうした縛りからはすっかり解放されました。御父なる神、子なる神(イエス・キリスト)、聖霊さまからなる三位一体の神だけを信じることによって、他の偶像的な祭式といった事柄については、信じるに値しなくなったのです。

 そして、イエス・キリストのことを信じて以降は、「神さまのことを信じる前まで犯していた、これら偶像に関わる事柄一切をお許しください」と祈るようになったのでした。

 今はもう星占いのページすら見なくなったのですが(以前はこうした事柄やタロットカード占いなども大好きでした)、それでも「迷信」というのはなかなか根深く人の心に根を下ろしているものなのでしょう。最近、こういうことがありました。

 先月の末頃、とある場所に引っ越すことに決めたのですが、当然のことながらずっと「みこころの場所に引っ越せますように」と祈っていました。ところが、わたしが人間的に考えて「ここがいいんじゃないかな」と思っていた場所が何故か閉ざされ、その時不動産会社の方が紹介してくださった部屋が開かれたのです。

 正直、車の中で見取り図などを渡された時には「ここは絶対に違う」と思っていました。けれど、実際に案内された時に、「ここです」ということが聖霊さまによって示されたんですよね(^^;)

 でもわたしは疑い深いですから「本当にそうだろうか」としつこく確認を取った結果として、「どうもここらしい」ということで、こちらでお話のほうを進めていただきました。

 そしてこの時、わたしが「聞き違いじゃないかな」と思ったのが何故かというと、建物名にという数字がつくということでした。日本の病院などでは、4と9のつく病室ってないと思うのですが、わたしもやはりこの9ということが気になって、住んだあとに隣近所や上や下の方の騒音問題があったとしたら――「あの時のことは自分のただの勘違いだった (´;ω;`)」なんていうことになるんじゃないかなと思って、不安だったのです。

 けれど、聖霊さまを通して「わたしはあなたのその迷信をやめさせる」という語りかけがあったことで……「ああ、そっか。わたしはただ迷信に囚われていただけだったんだ」ということがわかりました。

 わたしは9という数字から「苦しみ」という言葉をイメージして、なんとなく嫌な気持ちになっていたのですが、それはわたしのただの迷信だったのです。そしてこの少し前にラジオで、ジョン・レノンが「9という数字を自分のラッキーナンバーにしていた」という話が語られていたのを思いだしました。その時には、「まあ、欧米の人にとっては4とか9って、べつに関係ないもんね☆」というくらいな感じで聞き流していたのですが――その後、ここの9という数字のつく建物の管理会社の方が、「0009」とか「0909」といったナンバーの車に乗っているのをお見かけし、ちょっと驚いたのです

 ついでにいうと、この管理会社さんの名前自体に9という言葉が入っていて(わたしの住んでいる建物も9階建て・笑)、おそらく社長というかCEOのような方が、よほどこの9という数字に思い入れがあるか、人生上で何かがあってジョン・レノンと同じように9という数字がラッキーナンバーだと思われているということなのではないでしょうか。

 本当に、人の人生というのはその人の考え方次第ということなのかもしれません。9という数字はわたしにとって長く不吉な何かを思わせる数字だったのですが、ある人にとってこの数字というのは「ただの9じゃん☆」というものであり、また別の方にとっては「9こそ俺のラッキーナンバー♪」ということでさえあるのです。

 なんにしても、「これから幸せになっても今までの苦労や苦しみを忘れるな」といったように祈りを通して聖霊さまから語りかけがあったため、9という数字を見るたびに、このことを思いだそうと個人的には思っています(^^;)

 それではまた~!!



 ※聖霊さまの語りかけ=聖霊さまの語りかけというのは、クリスチャンのすべての人が真実祈り求めるならば与えられるものであり、わたしだけでなく、すべての信者に(聖霊のバプテスマを受けてのち)共通して同じように与えられるものです。





コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« あしあと。 | トップ | 鬱病と癒し。 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

キリスト教」カテゴリの最新記事