ついこの間、(キリスト教系の)HPで鬱病の癒しのことについてのお証しを聞きました。
欝病や統合失調症など、精神の病いからの解放を求めて、神さまに祈り求めていた時にイエスさまによって救われた……という方はとても多いと思います。
わたしも経験があるのでわかりますが、人間的な努力の力によってどうにも出来ない時、人は藁にも縋る思いで何がしかの宗教に頼ろうとするものなのではないでしょうか。
以前、河合隼雄先生の本だったと思うのですが、家族の問題などで困っている時に霊感商法の方が家にやって来て、「何か問題があってお困りなのではないですか?」みたいに言われ、「あ、当たってる……!!ガビ━━(゜ω゜;)━━ン! lllll」みたいになって、その方の勧める壺を買ってしまう……といったことがある、みたいなエピソードを読んだことがあった気がします。
それで、引用不正確で申し訳ないんですけど(汗)、河合先生がおっしゃるには、「人生で何か悩みごとがあるのではないですか?」と言われて、何も悩みのない人なんているわけないから、その時に「ど、どうしてわかるの!?ガビ━━(゜ω゜;)━━ン! lllll」みたいになっちゃう人っていうのが結構いるみたいで(^^;)
人が教義的に「ちとおかしいな」という宗教に入っていってしまう、嵌まってしまうきっかけっていうのはそういう部分もあるのかもしれませんが、↑の壺などは明らかにおかしかろう……というものでも、たとえば息子さんが部屋に引きこもって出てこないといった場合、その壺を家の南西に飾るといい、なんて言われてしまうと、割と資産家の方だったりした場合、「それで息子が良くなるのなら」といった感じで、買ってしまったりすることがある……とのことでした。
ところで、今回のタイトルは鬱病の癒し、ということなのですが、インターネットでお証しを聞いていて、自分も昔そうだったなあと思い、なんとなくしみじみしてしまったというか(^^;)
わたしの場合、自分でそうした状態を乗り越えてから教会のほうに導かれたため、イエスさまを信じることによって欝から解放された!!といったこととは少し違うのですが、でも当時の自殺することを考えていた精神状況のことなどはよく覚えているため、今欝になっているとか、その他の精神的病いにやられて困っている……といった話を聞くたびに、とても人事とは思えないんですよね。。。
わたしも肉体的・精神的病いの癒しについては、ほとんど毎日のように祈っている気がするのですが、癒しということについてかなり積極的に信仰を用いている教会で何故ガンといった肉体の病い、あるいは精神の病いからの癒しや解放が起きるのかは、言葉でどう説明したらいいのかわかりません(^^;)
ただ、特に日本人の場合、「人から癒しを直接祈ってもらう」ということをされた経験って、ほとんどないという方のほうが多いのではないでしょうか。
わたしも初めて教会へ行った時、職場の人間関係のことなどを他の教会員の方に祈ってもらった気がするのですが、それは本当に少し不思議な感じのすることでした。
というのも、他の方が「本当に真剣に自分のために祈ってくださっている」ことはわかるため、どちらかというと「まあ、問題は解決しないだろうけど、そのお気持ちだけ有難くいただいておきます」みたいな感じで……もちろん、今にして思えばこうした姿勢は不信仰だとわかるのですが、仮にわたしが癒しを祈ってもらったとしても、きっと最初の頃は似た気持ちになったかもしれません。
「まあ、癒されないだろうけど、そのお気持ちだけ、有難くいただいておきます」……といったような。
でも実際には、教会で複数人の方に祈ってもらったところ、次の検査で腫瘍マーカーが下がっていたから、この教会の集まりにこれからも繋がり続けます……あるいは、その後欝的症状が軽減されたからといった理由で引き続き教会へ来続ける方っていうのは、実際の数として本当に多いみたいです(^^;)
そして、医者からもうこの段階では手術できない、治らないと言われた方が癒されたり、あるいは自殺することを考えるまでに追い詰められていた方がイエスさまによって救われたりといったことは、数としては本当にたくさんあると思います。
わたしも、そうした癒しのひとつとして、欝病の方の「神さまに感謝し喜び賛美することで」癒されたお証しを聞いていたのですが、その三日後くらいにわたし、気持ちがちょっと非常に落ち込みまして(^^;)
その時に思ったのです。「嗚呼、そうだ。このモヤモヤした暗い、自分の力ではどうすることも出来ない曇り空のヴェールが心と精神にかかった感じ……」と、過去の記憶が少しだけ甦ったというか。。。
というのも、そのお証しのお話にとても共感しつつもわたし、「自分はもうイエスさまを信じてるし、そんな状態には二度とならないんだ!」といったように心のどこかで思っていたらしく……ある部分人ごとみたいに思っていたのかな、と少し反省させられました
もっとも、その二日後くらいにまたマーリン・キャロザース先生の賛美と感謝の教えによって気分が元に戻っていたのですが、やっぱり癒しを祈る上で、「苦しみに対する共感度」が深いほど聞かれるという部分があるのではないだろうか……とは漠然と感じているので、そんな気分の落ち込みについても、神さま、イエスさまに感謝しました
わたし自身にもし
苦しみというものがなかったとしたら――
果たしてわたしには想像できただろうか?
他の人々の苦しみや悲しみといったものを――
わたしは思う
だからこそこの世に苦しみや哀しみといったものが
消えてなくなることはないのだと――
苦しみは、苦しみそれ自体ではむなしいもの。
しかし、キリストの受難を分かちあう苦しみは、素晴らしい神さまへのおくりものです。
人のささげる最も美しいおくりものは、キリストと苦しみを分かつことができること。
そうです。それこそキリストの愛のおくりものであり、愛のしるしです。
(『マザー・テレサのことば~神さまへのおくりもの~』半田基子さん訳/女子パウロ会より)
上の詩のほうはわたしの書いたものですが、ある部分、人間が神さまにお捧げすることが出来るのは本当に苦しみと、それを耐え忍ぶ心だけ……というのは真実だと思います。
もちろん、神さまは愛の方ですから、人々を苦しみに捨ておくだけということはないのですが、こうした苦しみの極みにある時にこそ(自分の取り巻く状況を神さまに感謝し賛美した時こそ)、聖霊さまの満たし、感謝と賛美と喜びの霊によって癒されるというのは、本当に不思議なことである気がします。
それではまた~!!
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