
【Blooming Letters】マンディー・リン(オールポスターズの商品ページよりm(_ _)m)
エミリー・ディキンスンは、1775篇の詩を残したのですが、他に彼女が生前に書いた手紙が相当数残っていて編纂されています。
もちろん、この書簡集というのは、ディキンスンの詩の愛好家が、彼女の送った生涯についてある程度知っており、その上で読むからこそ、彼女の詩のような手紙の言葉遣いに胸を打たれたり、エミリーの性格の優しさなどに触れて感動する――といったタイプのものかもしれません(^^;)
けれど、おそらくエミリー・ディキンスンのことをまったく知らない方が読んだ場合でも、彼女が手紙を書く上で随分独特な書き方をしていることに気づくのではないかという気がします。なんていうか、もちろんわたしは訳されたものを読んでいるわけですが、彼女の手紙の書き方が<特殊だ>ということには、おそらく大抵の人が気づくのではないかと思うんですよね。
詩というのは、ひとつひとつの言葉選びがとても重要ですから、当然エミリーは凄くこの言葉と言葉が響きあう<感じ>というのを大切にしていたと思うのですが、それは彼女の手紙の文体などにも表れている気がします。そして、手紙というのは彼女の死後に家族が見つけた詩の束とは違って――エミリーが他の方に出したものですから、交遊のあった方々から譲ってもらうというのはかなり大変なことだったのではないかと推察します。けれど、多くの人がエミリーの手紙を手元に留めておいたというのは、彼女の書いた手紙がとても心のこもったものだったり、あるいは純粋にエミリーの書いたものが読み物として素敵だったというせいがあったのではないかという気がします。
いくらわたしがディキンスンのことが好きで、彼女の詩や伝記などを読んでいたにしても……ただそれだけでは、書簡集を読んで面白いとまでは思えなかったかもしれません。けれども、エミリーの手紙は普通(?)に読んでもとても面白いのです。そんなわけで、前に書いた記事の『地獄の実在性Ⅲ』との関連として、今回は彼女の手紙のうちの一通をご紹介したいと思いますm(_ _)m
――アバイア・ルートへ――(1846年、1月31日)
私の手紙にこんなに早くお返事下さってうれしく思いました。他の事情なら私はもっと早くあなたの手紙にお返事すべきだったでしょう。でもあなたはどちらの道を取るべきか迷っている。そんな落ち着かない状態でいるところへ、私が何か言って、それほど大切なことからあなたの注意をそらしはしないかと心配したのです。あなたの手紙を読んで随分泣きました――最後の箇所で。私はあなたのために願い、また、心配もしました。アバイア、私も同じような気持ちだったのです。もう少しでキリスト教徒になる気になったのです。もう決して考えなしになったり、この世のことにかまけたりしないだろうと思いました――そして私が自分の救世主を見い出したと思ったこの短い時ほど、完全な平安と幸福を覚えたことはなかったと言えます。でもすぐに朝の祈りを忘れたり、面倒くさくなったりしました。ひとつずつ前の習慣が戻って来て、これまで以上に宗教のことにかまわなくなりました。私はずっとあなたのお便りを待っていました――あなたがどんな決意をなさったか知りたくて。あなたがキリスト教徒になっていらっしゃればいいと思います。誰でも天国の宝がなくて幸せになれるとは思えませんもの。キリストへの愛なくして私は決して幸せになれない気がします。
私が大変幸せな時、どんな楽しいことにも針があります。バラには必ずトゲがあるものです。私の心の中にはうずく空虚さがあって、それはこの世が決して埋めることのできないものだと私にははっきりわかっています。宗教の問題に関しては私は考えなしなんかではありません。いつもキリストが私に、「娘よお前の心を捧げよ」とおっしゃる声が聞こえます。多分あなたは今回よりもずっと以前に心を決められたことでしょう。おそらくあなたは、時が与えてくれる束の間の喜びを、不滅という王冠と交換なさったのでしょう。おそらく天で輝いている天使の群が、一人の救われたばかりの罪人の歌に合わせてその黄金のハープを奏でたことでしょう。私は時々天の門が私を受け入れるために開き、天使達が私を妹と呼んでくれるように願います。私はいつもキリスト教徒になることをのばしのばしにしているのです。悪の声が私の耳で囁きます――まだ充分時間はあると。毎日、私が生きていて慈悲が与えられているのに、心を閉ざしていることで、ますます罪を犯しているような気がしています。慈悲は惜し気もなく私に差し出されているというのに。――この冬こちらではリバイバル運動がありました。会合は老いも若きも人々で一杯でした。真面目なことを一番ひどく嘲笑した人々が、一番早く自分たちの無力さを思い知らされ、キリストを受け入れたかのようでした。罪深い人の近くに天国があるのを見るのは本当に素晴らしいことです。宗教には何もないと思っている多くの人々は、何かがあるのかもしれないと思い、それを知りたいとすぐ出かけ、そしてたちまち気持ちを動かされたのでした。
アバイア、おそらく信じられないでしょうが、私はこの冬会合には一度も出ませんでした。私は自分が簡単に感激してしまってはまた欺かれ、自分を信じる勇気がなくなると思ったのです。たくさんの人々が私と真剣にしかも愛をこめて話をして下さったので、私は自分より偉大なキリストの求めにもう少しで従う気になりました。日々キリストの恵みのもとに生き、それでいてキリストとその大義に逆らった状態にいるとは、何て私は恩知らずなのでしょう。
【中略】
私たち皆が神の法廷で無罪となり、「よくやった、善良で忠実なしもべよ。汝らの主の喜びの内に入れ」と歓迎の言葉をかけてもらえますように。私たちは天国でお互いがわかるかしら、そして、この世でと同じように選ばれた仲間かしら。そうだろうと思います――そして私たちの愛は、地上でより天上での方がもっと純粋だろうという気がします。私は、人生は短く時ははかないと――そして、今や私の創造主と折り合わねばと思います――私の心が喜んでキリストに従いたいと思う黄金の機会はこれからそう遠くはないと、そして、私の罪が記憶の本からすべて消し去られるようにと願っています。いま速く過ぎ去っていくこの年の終わりまでに、私たちの仲間の誰かが天上の審判の席に呼ばれるでしょう、そして、私は最後の決定がなされる時に、私たちが別れ別れにならないようにと願います。だって、私たちの仲間の一人が悲しみの暗い国に行くのはとても悲しいことでしょうから。そして、その国には決して死なない虫もいるし、どんな水でも消すことのできない火があるのですから。そして、私たちが天国で一まとまりのゆるぎない仲間であれば何と幸せなことでしょう。私はあなたの手紙をアビの所へ持って行きました。そして彼女は私と同じ気持ちでじっくり読みました。私たちは二人してあながよい方を選んで(洗礼を受けるかどうか決めて)ぜったい今後変わらないようにと願いました。アビがくれぐれもよろしくとのこと、そしてこの世と永遠の、両方の幸福を祈っていますって。彼女はあなたからお手紙をすぐに、とにかくすぐに頂きたいそうです。アビと私は、あなたからお手紙を頂いてあなたがどんな選択をしたか、それとも深刻なことを考えるのをやめたか伺うまで落ち着かない状態にいることでしょう。私にすぐお手紙下さい、あなたのこと、あなたの気持ちを教えて下さい。それからあなたのお手紙にこんなに長い間お返事しなくて許して下さいね。私はキリスト教徒ではありませんが、手遅れにならない前に、そのことに気を向けることの大切は十分に感じているのです。
(『エミリ・ディキンスンの手紙』山川瑞明・武田雅子さん編訳/弓プレスより)
――これはエミリー・ディキンスンが15歳の時に他の学校へ転校していった女生徒に宛てて書いた手紙です。
15歳!ということに、個人的にまず物凄く驚かされます(^^;)
そして一読してよくわかるように――彼女は少女らしい快活さを持っていたからこそ、信仰深くありたいと願いながらも、つい他のことにも気を取られてしまう……といったように素直に告白しているかのようです。
でも、普通に考えたらそれが当たり前とも思うんですよね。わたしはクリスチャンホームで育ったわけではなく、日本の至極一般的な葬式仏教徒の家庭で育ったのですが、それでもやはり両親が自分たちの信じるキリスト教的価値観を押しつけてきたとしたら、むしろ逆に反発するあまり、いわゆるニューエイジ的なものに惹かれていったかもしれません。
この時期、エミリーの住んでいた地域(マサチューセッツ州アマースト)では、信仰復興運動(リバイバル)がありました。そこでエミリーもまたそうした集会へ出かけていき非常に感銘を受け、一時的に祈ることなどに熱心だったものの――おそらくはその他のことに関心が移ったりで、自身の信仰に自信が持てなくなったのでしょう。
つまり、この場合の<自身の信仰に自信が持てない>というのは、キリストが主であるということは心から信じているものの、再びお祈りに励んだりとか、あらゆる信仰的な集会に出かけていく……というのは、まだ若い彼女の心には重荷となることだったのかもしれません。
けれど、自分と似たような悩みを持つ友達のアバイア・ルートが、正式に洗礼を受けるべきかどうかと手紙に悩みを告白してきた時、やはりよいほう(キリストを主として受け容れるとの)を選ぶようにと、友人として勧めています。おそらく、エミリーの場合はキリストを主と認め、心の内には受け容れているものの――そうなった場合、神を第一とし、キリストのために時間を使わねばならぬという制約がある気がして、正式に神さまのことを受け容れるというのはもう少しあとでも良いのではないか……との思いがあったのかもしれません(でもやはり、15歳くらいの少女にとってはそのくらいなのが当たり前なのではないかという気がします^^;)
なんにしても、この手紙を一通読んでみただけでも、ディキンスン自身はもともとが相当に信仰深い清らかな性質の女性だったことがわかると思うんですよね。また、聖書やキリスト教神学にある程度通じていないと、こうした手紙の言葉は出てこない……ということも、多くの方に理解されるかと思います。
ではでは、次回はまたエミリー・ディキンスンの詩を何かご紹介できればと思っています♪(^^)
それではまた~!!
エミリー・ディキンスンは、1775篇の詩を残したのですが、他に彼女が生前に書いた手紙が相当数残っていて編纂されています。
もちろん、この書簡集というのは、ディキンスンの詩の愛好家が、彼女の送った生涯についてある程度知っており、その上で読むからこそ、彼女の詩のような手紙の言葉遣いに胸を打たれたり、エミリーの性格の優しさなどに触れて感動する――といったタイプのものかもしれません(^^;)
けれど、おそらくエミリー・ディキンスンのことをまったく知らない方が読んだ場合でも、彼女が手紙を書く上で随分独特な書き方をしていることに気づくのではないかという気がします。なんていうか、もちろんわたしは訳されたものを読んでいるわけですが、彼女の手紙の書き方が<特殊だ>ということには、おそらく大抵の人が気づくのではないかと思うんですよね。
詩というのは、ひとつひとつの言葉選びがとても重要ですから、当然エミリーは凄くこの言葉と言葉が響きあう<感じ>というのを大切にしていたと思うのですが、それは彼女の手紙の文体などにも表れている気がします。そして、手紙というのは彼女の死後に家族が見つけた詩の束とは違って――エミリーが他の方に出したものですから、交遊のあった方々から譲ってもらうというのはかなり大変なことだったのではないかと推察します。けれど、多くの人がエミリーの手紙を手元に留めておいたというのは、彼女の書いた手紙がとても心のこもったものだったり、あるいは純粋にエミリーの書いたものが読み物として素敵だったというせいがあったのではないかという気がします。
いくらわたしがディキンスンのことが好きで、彼女の詩や伝記などを読んでいたにしても……ただそれだけでは、書簡集を読んで面白いとまでは思えなかったかもしれません。けれども、エミリーの手紙は普通(?)に読んでもとても面白いのです。そんなわけで、前に書いた記事の『地獄の実在性Ⅲ』との関連として、今回は彼女の手紙のうちの一通をご紹介したいと思いますm(_ _)m
――アバイア・ルートへ――(1846年、1月31日)
私の手紙にこんなに早くお返事下さってうれしく思いました。他の事情なら私はもっと早くあなたの手紙にお返事すべきだったでしょう。でもあなたはどちらの道を取るべきか迷っている。そんな落ち着かない状態でいるところへ、私が何か言って、それほど大切なことからあなたの注意をそらしはしないかと心配したのです。あなたの手紙を読んで随分泣きました――最後の箇所で。私はあなたのために願い、また、心配もしました。アバイア、私も同じような気持ちだったのです。もう少しでキリスト教徒になる気になったのです。もう決して考えなしになったり、この世のことにかまけたりしないだろうと思いました――そして私が自分の救世主を見い出したと思ったこの短い時ほど、完全な平安と幸福を覚えたことはなかったと言えます。でもすぐに朝の祈りを忘れたり、面倒くさくなったりしました。ひとつずつ前の習慣が戻って来て、これまで以上に宗教のことにかまわなくなりました。私はずっとあなたのお便りを待っていました――あなたがどんな決意をなさったか知りたくて。あなたがキリスト教徒になっていらっしゃればいいと思います。誰でも天国の宝がなくて幸せになれるとは思えませんもの。キリストへの愛なくして私は決して幸せになれない気がします。
私が大変幸せな時、どんな楽しいことにも針があります。バラには必ずトゲがあるものです。私の心の中にはうずく空虚さがあって、それはこの世が決して埋めることのできないものだと私にははっきりわかっています。宗教の問題に関しては私は考えなしなんかではありません。いつもキリストが私に、「娘よお前の心を捧げよ」とおっしゃる声が聞こえます。多分あなたは今回よりもずっと以前に心を決められたことでしょう。おそらくあなたは、時が与えてくれる束の間の喜びを、不滅という王冠と交換なさったのでしょう。おそらく天で輝いている天使の群が、一人の救われたばかりの罪人の歌に合わせてその黄金のハープを奏でたことでしょう。私は時々天の門が私を受け入れるために開き、天使達が私を妹と呼んでくれるように願います。私はいつもキリスト教徒になることをのばしのばしにしているのです。悪の声が私の耳で囁きます――まだ充分時間はあると。毎日、私が生きていて慈悲が与えられているのに、心を閉ざしていることで、ますます罪を犯しているような気がしています。慈悲は惜し気もなく私に差し出されているというのに。――この冬こちらではリバイバル運動がありました。会合は老いも若きも人々で一杯でした。真面目なことを一番ひどく嘲笑した人々が、一番早く自分たちの無力さを思い知らされ、キリストを受け入れたかのようでした。罪深い人の近くに天国があるのを見るのは本当に素晴らしいことです。宗教には何もないと思っている多くの人々は、何かがあるのかもしれないと思い、それを知りたいとすぐ出かけ、そしてたちまち気持ちを動かされたのでした。
アバイア、おそらく信じられないでしょうが、私はこの冬会合には一度も出ませんでした。私は自分が簡単に感激してしまってはまた欺かれ、自分を信じる勇気がなくなると思ったのです。たくさんの人々が私と真剣にしかも愛をこめて話をして下さったので、私は自分より偉大なキリストの求めにもう少しで従う気になりました。日々キリストの恵みのもとに生き、それでいてキリストとその大義に逆らった状態にいるとは、何て私は恩知らずなのでしょう。
【中略】
私たち皆が神の法廷で無罪となり、「よくやった、善良で忠実なしもべよ。汝らの主の喜びの内に入れ」と歓迎の言葉をかけてもらえますように。私たちは天国でお互いがわかるかしら、そして、この世でと同じように選ばれた仲間かしら。そうだろうと思います――そして私たちの愛は、地上でより天上での方がもっと純粋だろうという気がします。私は、人生は短く時ははかないと――そして、今や私の創造主と折り合わねばと思います――私の心が喜んでキリストに従いたいと思う黄金の機会はこれからそう遠くはないと、そして、私の罪が記憶の本からすべて消し去られるようにと願っています。いま速く過ぎ去っていくこの年の終わりまでに、私たちの仲間の誰かが天上の審判の席に呼ばれるでしょう、そして、私は最後の決定がなされる時に、私たちが別れ別れにならないようにと願います。だって、私たちの仲間の一人が悲しみの暗い国に行くのはとても悲しいことでしょうから。そして、その国には決して死なない虫もいるし、どんな水でも消すことのできない火があるのですから。そして、私たちが天国で一まとまりのゆるぎない仲間であれば何と幸せなことでしょう。私はあなたの手紙をアビの所へ持って行きました。そして彼女は私と同じ気持ちでじっくり読みました。私たちは二人してあながよい方を選んで(洗礼を受けるかどうか決めて)ぜったい今後変わらないようにと願いました。アビがくれぐれもよろしくとのこと、そしてこの世と永遠の、両方の幸福を祈っていますって。彼女はあなたからお手紙をすぐに、とにかくすぐに頂きたいそうです。アビと私は、あなたからお手紙を頂いてあなたがどんな選択をしたか、それとも深刻なことを考えるのをやめたか伺うまで落ち着かない状態にいることでしょう。私にすぐお手紙下さい、あなたのこと、あなたの気持ちを教えて下さい。それからあなたのお手紙にこんなに長い間お返事しなくて許して下さいね。私はキリスト教徒ではありませんが、手遅れにならない前に、そのことに気を向けることの大切は十分に感じているのです。
(『エミリ・ディキンスンの手紙』山川瑞明・武田雅子さん編訳/弓プレスより)
――これはエミリー・ディキンスンが15歳の時に他の学校へ転校していった女生徒に宛てて書いた手紙です。
15歳!ということに、個人的にまず物凄く驚かされます(^^;)
そして一読してよくわかるように――彼女は少女らしい快活さを持っていたからこそ、信仰深くありたいと願いながらも、つい他のことにも気を取られてしまう……といったように素直に告白しているかのようです。
でも、普通に考えたらそれが当たり前とも思うんですよね。わたしはクリスチャンホームで育ったわけではなく、日本の至極一般的な葬式仏教徒の家庭で育ったのですが、それでもやはり両親が自分たちの信じるキリスト教的価値観を押しつけてきたとしたら、むしろ逆に反発するあまり、いわゆるニューエイジ的なものに惹かれていったかもしれません。
この時期、エミリーの住んでいた地域(マサチューセッツ州アマースト)では、信仰復興運動(リバイバル)がありました。そこでエミリーもまたそうした集会へ出かけていき非常に感銘を受け、一時的に祈ることなどに熱心だったものの――おそらくはその他のことに関心が移ったりで、自身の信仰に自信が持てなくなったのでしょう。
つまり、この場合の<自身の信仰に自信が持てない>というのは、キリストが主であるということは心から信じているものの、再びお祈りに励んだりとか、あらゆる信仰的な集会に出かけていく……というのは、まだ若い彼女の心には重荷となることだったのかもしれません。
けれど、自分と似たような悩みを持つ友達のアバイア・ルートが、正式に洗礼を受けるべきかどうかと手紙に悩みを告白してきた時、やはりよいほう(キリストを主として受け容れるとの)を選ぶようにと、友人として勧めています。おそらく、エミリーの場合はキリストを主と認め、心の内には受け容れているものの――そうなった場合、神を第一とし、キリストのために時間を使わねばならぬという制約がある気がして、正式に神さまのことを受け容れるというのはもう少しあとでも良いのではないか……との思いがあったのかもしれません(でもやはり、15歳くらいの少女にとってはそのくらいなのが当たり前なのではないかという気がします^^;)
なんにしても、この手紙を一通読んでみただけでも、ディキンスン自身はもともとが相当に信仰深い清らかな性質の女性だったことがわかると思うんですよね。また、聖書やキリスト教神学にある程度通じていないと、こうした手紙の言葉は出てこない……ということも、多くの方に理解されるかと思います。
ではでは、次回はまたエミリー・ディキンスンの詩を何かご紹介できればと思っています♪(^^)
それではまた~!!

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