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神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

赤毛のアン。-【3】-

2016年01月19日 | キリスト教
【十字架降架】フラ・アンジェリコ


「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。
 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません」
 そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。

(マルコの福音書、第10章14~16節)


 ――『赤毛のアン』、第八章 アンの教育より――

 アンはすぐに広間の向こうの居間へ行った。だがもどってこない。十分間待ってからマリラは編物を下に置いて、むっとした顔で見に行った。アンは窓と窓の間の壁にかかっている絵の前に身じろぎもせずに立っていた。手をうしろで組み、顔をあおむけ、夢見るようにうるんだ目をしていた。窓の外からりんごの木と蔦の葉越しにさしこむ白と緑の光線が、無我の境に浸っているこの小さい女の子の姿の上を、神々しく照らしていた。

「アン、いったい何を考えているの?」

 マリラはとがった声で聞いた。

 アンははっとしてわれに返った。

「あれなの」

 とアンは「こどもたちを祝福するキリスト」と題した、いきいきした着色石版画を指さした。

「そしてあたしもあの中の一人だと想像していたの。あの青い服を着て、まるであたしのようにだれも身内がないみたいに、たった一人すみっこに立ってる女の子が、あたしだって想像していたの。あの子はさびしそうで悲しそうに見えるでしょう?きっとお父さんもお母さんもないんだと思うわ。でも自分も祝福してもらいたいもんで、おずおずとみんなのそばへ近づいて行くの。イエス様のほかだれにも気がつかれたくないと思いながらね。あの子の気持ちがどんなだったか、あたしにはわかるような気がするの。あたしがここに置いてくださいって頼んだときみたいに、あの子の心臓はどきんどきん音をたてて手は冷たくなっていたにちがいないわ。イエス様が自分に気がつかないんじゃないかって心配しているんだけど、気がつくわね。あたしすっかり想像してみたの。――あの子がすこしずつすこしずつ近づいて行くうちに、イエス様のすぐそばまできてしまうの。そうするとイエス様はあの子をごらんになって、手をあの子の頭におのせになるの。ああ、うれしくてうれしくて、あの子はぞくぞくっとするの。でもあの絵をかいた人がイエス様をあんなに悲しそうにかかなければいいのにと思うわ。よく見ると、イエス様の絵はどれもみんなそうだわ。でもほんとうはあんなに悲しそうなようすはしてないと思うの。そうでないとこどもたちはイエス様をこわいと思うでしょうもの」

 マリラはなぜ、もっと早くこの話をとめようとしなかったのかしらと自分でも意外に感じながら、

「アン、イエス様のことをもったいない――そんなふうに言うのは失礼ですよ」

 アンはふしぎそうに目を見はった。

「あら、あたしとても敬っている気持ちなのよ。失礼なつもりじゃなかったんだけど」

(『赤毛のアン』L.M.モンゴメリ著、村岡花子訳/新潮文庫より)


 ――イエス様って確かに、「悲しそう」っていうイメージがなんとなくありますよね(^^;)

 というより、わたしがまだノンクリスチャンだった頃、<イエス・キリストとは何者か>ということ自体、はっきり言って何もわかっていなかったと思います。

 ただとにかく、「神聖なよいイメージ」は持っていたものの、わたしの場合イエスさま本人というよりも、カトリックのマリアさまが幼な子イエスを抱っこしているというイメージが強く、その「神聖なよいイメージ」というのは、どちらかというとマリアさまからやって来るものであって、実はイエス・キリストが主体というわけではなかったのです(^^;)

 あと、キリスト教会では何故十字架があんなに大切なのかとか、カトリック教会における荊の冠を被ったイエスさまが血を流し、苦しそうに(あるいは目を閉じて)天上のほうを見ている姿ですとか、そうしたことも<なんのために>そんな像が教会にあるかのといったこともさっぱり知りませんでした。

 それと、わたしには聖母マリアさまを愛するイメージがあるのと同時に、キリスト教というものに対する反射的なアレルギーがあって、カトリック幼稚園のバスなどを見かけるたびに、「偽善者養成者に通わされる可哀想な子供たち!」といったように、勝手に思っていたという時期までありました(^^;)

 ただなんとなく漠然と「十字架にかかって死んだらしい」ということは知っていたものの、実際にはイエス・キリストが歴史に実在したかどうかといったこともどうでもよく、「歴史上に存在したかもしれないし、存在しなかったかもしれない」くらいな感じで、勝手に捉えていたと思います。

 ただ、日本のお寺がもともと好きだというのが小さい頃からあって、それと同じ気持ちで歴史的遺物としての教会という存在は大好きなのでした。たとえば、家の近くにある十字架がてっぺんについてる日曜になると何故か人がいっぱい集まってくるよくわかんない建物としての教会ではなく――バチカンのシスティーナ礼拝堂ですとか、コロンビアのラス・ラハス教会ですとか、ロシアの聖ワシリー大聖堂ですとか、そういった場所の写真などを見ては、「一度行ってみたいなあ」とよく思っていたというか。

 それから、宗教画というか、キリスト教絵画については昔から大好きだったので、羊が血を流していたり、光の中を鳩がくだっているという背景の意味はよくわからないながらも、「とにかく、ものごっついい絵や~」と思って眺めていた気がします。

 そして、わたしが実際にイエス・キリストとは何者かということを知ったのは、初めて教会なるものに通ったそのあとのことでした。もちろんいきなり全人類の罪を背負って十字架上で死なれたなどと聞かされても、あまりにトートツすぎて、「あんた、何言ってんの?」という感じかもしれません。

 でも、キリスト教徒になるということはある意味――他でもないこのわたし自身こそが、キリストを鞭打ち、彼に自分の罪のすべてを負わせ、つばきをかけて嘲弄し、荊の冠を他でもないこの命の君にかぶせたと認めるということなのではないでしょうか。

 イエスさまがその時、血の滲んだ眼差しでこちらを見て「それでいいのだよ」と言葉もなく瞳だけで語るのが見えてくる気さえしますが、大切なのはやはり、十字架上で死の極みを経験してのち、イエスさまが復活されたあと、彼がそのすべてを喜んだということなのだと思います。


 >>しかし、彼を砕いて、痛めることは
 主のみこころであった。
 もし彼が、自分のいのちを
 罪過のためのいけにえとするなら、
 彼は末長く、子孫を見ることができ、
 主のみこころは彼によって成し遂げられる。

 彼は、自分のいのちの
 激しい苦しみのあとを見て、満足する。
 わたしの正しいしもべは、
 その知識によって多くの人を義とし、
 彼らの咎を彼がになう。

(イザヤ書第53章10~11節)


 と、旧約聖書のイザヤ書に預言されてあるとおり。

 ようやくここで、『赤毛のアン』のことに話が戻りますが、だからイエスさまが「悲しそう」なのはわかるのと同時に、救いの業を成し遂げてのちは、喜びに光り輝くイエスさま……とのイメージと、どちらを強調するかで結構変わってくるところがありますよね(^^;)

 もちろん、イエスさまはご両親にお仕えになり、他の兄弟や妹たちに囲まれている時にも貧しいながらも幸せであり、出来の悪い(?)弟子たちとともに伝道の旅をなさる間も、「これですべての人々に天国への道が開かれる」と思い、喜んでおられたのだろうとは思います。けれどやはり、十字架におかかりになる前は、ゲッセマネの園で血の汗をお流しになって祈られたように、苦しみの多い生涯でもあったと思うんですよね。

 そしてそのような、貧困体験や、せっかく神さまの道を宣べ伝えているのに人々が耳を傾けないといった苦労や迫害など、その人生上の苦難は十字架上で極みを迎えます。よく宗教画などに描かれている十字架上の<INRI>という文字は、ラテン語で「IESUS NAZARENUS REX IUDAEORUM」の頭字語で、「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」という意味とのことでした。言うなればこれがイエス様の罪状書きだったのでした。自身を神の子と称し、ユダヤ人の王であると名乗ったということが。



【磔刑図】アンドレア・マンテーニャ


 >>ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。
 それには「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」と書いてあった。
 それで、大ぜいのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。
 イエスが十字架につけられた場所は都に近かったからである。
 またそれはヘブル語、ラテン語、ギリシヤ語で書いてあった。

 そこで、ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「ユダヤ人の王、と書かないで、彼はユダヤ人の王と自称した、と書いてください」と言った。

 ピラトは答えた。
「私の書いたことばは私が書いたのです」

(ヨハネの福音書、第19章19~22節)


 けれども、実際にはイエスさまにはなんの罪もありませんでした。

 ただ、人々を真実なる神の道へと立ち返らせ、病いある人々を癒し、多くの人の罪を赦して人生上の悩みから解放してくださったというのに――不当な罪に陥れられ、十字架への道を歩むということになってしまったのです

 わたしは昔、<イエス・キリストの死因>といったことは考えてみたこともありませんでした。手足を十字架で釘で打ち抜かれるのが十字架刑というものらしい……ということは漠然と知ってはいたものの、それがどのくらいの苦しみを当人にもたらすのかといったことは、想像してみたことさえありませんでした(この十字架刑というのはあまりに残酷な刑だということで、のちに廃止されたそうです)。

 十字架刑の死因――それは、手と足に釘が打ち込まれたことにより、十字架上で自身の体を支えられなくなることによって起きる、呼吸困難(窒息)ということでした。つまり、手首に釘が打ち込まれていますから、その状態で十字架が上げられると、両肩がまず脱臼するそうです。けれども、呼吸するためには当然息を吸い、そして吐くということが必要ですよね。足首にも釘が打ちこまれているため、手足をこのような形で固定され吊るされてしまうと人は、呼吸が出来ない状態になるそうです。そしてやがて窒息に陥る。

 このことを知った時、十字架刑というのはなんていう恐ろしい刑罰だろうと思うのと同時に――イエスさまがそのように苦しみを極みまで経験されたのも、すべての人に罪からの救済の道、天国への道が開かれるためだったと思うと……このキリスト教における奥義(福音)といったことを、ひとりでも多くの方に知ってもらいたいと、そのような気持ちにあらためてなったものでした

 そして、多くの絵画がイエス・キリストを<悲しみのひと>として描いているのも、こうした理由からなのだと思うのですが――と同時にイエスさまは今は、天上におられて再臨の時を待ちながら、すべての人がご自身の御許に引き寄せられて来るようにと父なる神に祈っておられるのだろうとも思います。

 それでは、次回は再びエミリー・ディキンスンのことについて、何か書いてみたいと思っています♪(^^)

 ではまた~!!





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