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神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

らくだが針の穴を通るのは難しい。

2018年12月15日 | キリスト教


 >>それからイエスは、エリコにはいって、町をお通りになった。

 ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。

 彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群集のために見ることができなかった。

 それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。

 イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。

「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」

 ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。

 これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた」と言ってつぶやいた。

 ところがザアカイは立って、主に言った。

「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します」

 イエスは、彼に言われた。

「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
 人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」

(ルカの福音書、第19章1~10節)


 前回も、取税人のザアカイさんのことに触れたのですが……そんでわたし、自分にも50億くらい、神さまや誰か人に対して負債があると思う、みたいに書いたんですよね。。。

 でもよく考えると、「50億じゃきかないかもなー」という気がして来、「じゃあ1兆円?それとも10兆円??いや、100兆円かも」と、だんだん訳がわからなくなって来

 この時代の取税人と呼ばれる人たちというのは、民衆から不正に税を徴収して私腹を肥やしていたということで、民衆からは嫌われていたと言います。そして、その取税人のかしらということは、ザアカイさんは相当のお金持ちだったものと思われます。

 でも、正直わたしがザアカイさんだったら、「自分が人からだまし取ったものは四倍にして返します」とは言えない気がします。何故なら、もうそんなふうにして大金持ちになって何年も時が過ぎていたら……たぶん、良心や何かもすっかり麻痺しているでしょうし、「ま、人間そんなものさ」と自分を騙しながら生きていくことに、なんの呵責も覚えない気がするからです。

 けれども、ザアカイさんの上にはイエスさまが「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」とおっしゃった、その「らくだが針の穴を通る」という奇跡が実現したのだと思います。

 逆にいうなら、ある意味これは「そのくらい人が救われる(神の国へ入る)」ことは難しいということでもあるのでしょう。


 >>イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。

「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか」

 イエスは彼に言われた。

「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。

 戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え』」

 すると、その人はイエスに言った。

「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております」

 イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。

「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい」

 すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。

 イエスは、見回して、弟子たちに言われた。

「裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう」

 弟子たちは、イエスのことばに驚いた。しかし、イエスは重ねて、彼らに答えて言われた。

「子たちよ。神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。

 金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」

 弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。

「それでは、だれが救われることができるのだろうか」

 イエスは、彼らをじっと見て言われた。

「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。
 どんなことでも、神にはできるのです」

(マルコの福音書、第10章17~27節)


 このお金持ちの青年は、ある意味ザアカイさんとは正反対かもしれません。

 自分の財産すべてを捧げることは出来なかったとしても、それなりに貧しい人々にも施しであるとか、そうしたことはしていたでしょうし、他に何か律法に引っかかるような罪深い生活をしていたというわけでもなく……むしろ善行に富んだ良い青年であるように思われます。けれども、そんな彼をもってしても、「イエスさまについて行く」ということは出来なかったわけです。

 もっとも、だからといってこの青年が「神の国へ入れない」ということではなく……その後に続くイエスさまの「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しい」との言葉から、イエスさまがこの青年を冷たく突き放しているように聞こえるかもしれませんが、その前にイエスさまは「彼を見て、いつくしんで言われた」とちゃんと書いてありますからね(^^;)

 ただ、毎日聖書を読んで祈り、日曜礼拝も守り、貧しい人々に対して献金をし……という生活を仮に送っていたとしても、(わたしもそうですが)唯一神さまの語りかけにだけは耳を傾けることがない、あるいは聞いていても自分にとって都合が悪いので聞こえない振りをしていたり、唯一イエスさまのおっしゃることに聞き従うことだけはない――ゆえに神さまの業が現れないにも関わらず、「こんなにわたしは信仰的にがんばってるのに、何故神さまは……」という信仰のボタンのかけ違いみたいなことって、実際クリスチャンあるあるですよね(笑)

 らくだが針の穴を通るというのは、まずもって不可能なことのように思えますが、イエスさまが次に語った言葉に注目しましょう。「人には出来ないことが、神には出来るのです」……「らくだが針の穴を通るだって?そんなことはありえない」というのは、ノンクリスチャンの方が言うべきことであって、クリスチャンがそんなことを言ってはいけません。

「そうだね。らくだが針の穴を通るなんてありえないよ」と言うのではなく、「人には出来ないことが、神には出来るのです」、「神にとって不可能なことは一つもありません」(ルカの福音書、第1章37節)と聖書の言葉を握りしめて、信仰告白していきましょう。

 この信仰の適用によって、動かない山が動く(どうやっても解決しそうにない問題が解決する)、進路を邪魔している大きな岩が粉々に砕かれる、蟻が象を投げ飛ばすといった、神さまの奇跡を経験することが出来るのではないでしょうか。

 なんにしても、クリスチャンの方の場合は、「らくだが針の穴を通るだなんて、イエスさまにあっては当たり前だよ!」というくらいの信仰でいるのが当然と思います。ただ、わたしたちも世にあって、特に日本の場合はノンクリスチャンの方に取り囲まれ、その誤解や偏見の間に生きていますから、そちらと歩調を合わせて生きていると……ついたまに「そーだよなー。なんでオレ、らくだが針の穴を通れるだなんて思ったんだろ」みたいな信仰の落ち込みを時に経験することがあるかもしれません。

 けれども、わたしたちに力がなくても、神さま、イエスさま、聖霊さまには力があります!ですから、わたしたちは神さまの御座に大胆に近づき、「らくだが針の穴を通るような信仰を与えてください」と祈ることが出来るのです。

 そして、リバイバルというのはようするに「らくだが針の穴を通る」ことの連続、一度のみならず、百度も千度も百万回でも、毎日そのようなことが起きてくるということなのではないでしょうか。

 それではまた~!!



 >>まさしく、聖書に書いてあるとおりです。

「目が見たことのないもの、
 耳が聞いたことのないもの、
 そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。
 神を愛する者のために、
 神の備えてくださったものは、みなそうである」

 神はこれを、御霊(聖霊)によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。

 いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。

 ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜ったものを、私たちが知るためです。

(コリント人への手紙 第一、第2章9~12節)


 >>神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。

 造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。

 さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちは信仰の告白を堅く保とうではありませんか。

 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。

 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に御座に近づこうではありませんか。

(ヘブル人への手紙、第4章12~16節)


 >>また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。

 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

(エペソ人への手紙、第1章22~23節)





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