
【エリコにて、盲人を癒すキリスト】エル・グレコ
>>「ふたりの人が、祈るために宮に上った。
ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。
『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております』
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。
『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください』
あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。
パリサイ人ではありません。
なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです」
(ルカの福音書、第18章10~14節)
人が何故宗教を求めるのかというと、大きくいって二つか三つあるのかなという気が直感的にします。
まず、ひとつ目が死の恐怖から逃れるため、ふたつ目が、「こんなにもどうしようもない私をお救いください」という、現世の悩みからの救いを求める心、そして三つ目が、ふたつ目の人ほど切迫した必要性を感じていなかったとしても……「生きていて何か虚しい。この心のスキマを何かで埋めたい。また、埋められるとしたら神以外にない。だけど、神さまなんてほんとにいるのかな?
」といったような方――にとって、宗教というのは大きな役割を果たすところがあると思うんですよね(^^;)
そして、この三つ目の理由と関連して、オウム真理教のことを思いだされる方も多いと思います。自分的には「心のスキマ、お埋めします……」なんて聞くと、喪黒福造さんのことを思いだすのですが、それはさておき。。。
人が「その教理、明らかにおかしくね?
」という宗教にハマってしまうことがあるのは、日常生活の虚しさや、自分でも最初おかしいと思ったけど、その宗教の集会に参加してみて「ドーン!!」と来る何かがあった――など、そうしたことがあったから信じるに至った……そんなことがきっかけかもしれません。
とりあえず今回は死の問題とこうした他宗教についての問題はよっこ☆しておいて、ふたつ目の「こんなにもどうしようもない私をお救いください」ということについて。
パリサイ人というのは、簡単にいえば「神さまの律法を遵守することには熱心だが、信仰の実質を見失ってしまった人々」だと思うのですが、対してここに出てくる取税人は、「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」と胸を叩いて神さまに告白しています。
この聖書の時代の取税人というのは、人々から取り立てた税の一部を自分の懐に入れていたということで、民衆からは嫌われる存在だったといいます。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる四福音書のうち、マタイは元は取税人だったと言いますし、聖書には他に有名な取税人として、ザアカイという人が出てきます。
>>それからイエスは、エリコにはいって、町をお通りになった。
ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。
彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群集のために見ることができなかった。
それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。
イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。
「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」
ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。
これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた」と言ってつぶやいた。
ところがザアカイは立って、主に言った。
「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します」
イエスは、彼に言われた。
「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」
(ルカの福音書、第19章1~10節)
そういえばこの間、カルロス・ゴーンさんが逮捕されましたね(^^;)
その記載を誤魔化した金額たるや、一般市民のわたしたちには「ええーっ!?一体あんた、どんだけ~!?
」と、驚くばかりの額ですし、一般的にいって「なんという奴や
」というのが、普通の反応と思います。
ただわたし……決してカルロス・ゴーンさんを擁護するわけではないのですが(汗)、ええと、50億とかそれ以上のお金を誤魔化していたんでしたっけ??でもわたし、この世界に生まれてから今まで、神さまや他の誰かに対して、大体このくらいの負債は軽く負っているのではないかという気がしています(^^;)
そして、イエスさまがこの世に来られて十字架におかかりになったその理由は、わたしたち人間の負う、そうした罪のすべてをかわりに背負ってくださる、何よりそのためでした。
>>それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。
(コロサイ人への手紙、第2章13~14節)
こうして、罪のない方がわたしたち罪深い人間の罪のすべてを十字架上で背負い、父なる神に血の贖いをなしてくださったことで――イエスさまを信じるすべての者が、罪赦され、父なる神と子なる神であるイエス・キリストの備えてくださった天国へ入ることの出来る恵みの道が開かれました。
12月24日はもちろんイエスさまの誕生日ではありませんが(汗)、それでもこの季節になるとやっぱり、街角で樅の樹やクリスマスの飾りつけを見るたびに、いつも以上にとても敬虔な気持ちになります
このイエスさまの特別な、そして全人類に送ってくださった素晴らしいプレゼントのことを日々覚え、そのことを感謝しつつ、信仰をあらたにする思いで、クリスマス&年末年始を過ごしていきたいと思っています♪
何より、神さま、イエスさま、聖霊さまを信じる者にとっては、日々毎日がクリスマスのようなものですし、むしろ逆に「何故毎日をクリスマスであるかのように神さまに感謝し、その恵みを覚えて暮らせないのか?」と、時々自問したりしつつ……(^^;)
それではまた~!!
>>「ふたりの人が、祈るために宮に上った。
ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。
『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております』
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。
『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください』
あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。
パリサイ人ではありません。
なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです」
(ルカの福音書、第18章10~14節)
人が何故宗教を求めるのかというと、大きくいって二つか三つあるのかなという気が直感的にします。
まず、ひとつ目が死の恐怖から逃れるため、ふたつ目が、「こんなにもどうしようもない私をお救いください」という、現世の悩みからの救いを求める心、そして三つ目が、ふたつ目の人ほど切迫した必要性を感じていなかったとしても……「生きていて何か虚しい。この心のスキマを何かで埋めたい。また、埋められるとしたら神以外にない。だけど、神さまなんてほんとにいるのかな?

そして、この三つ目の理由と関連して、オウム真理教のことを思いだされる方も多いと思います。自分的には「心のスキマ、お埋めします……」なんて聞くと、喪黒福造さんのことを思いだすのですが、それはさておき。。。
人が「その教理、明らかにおかしくね?

とりあえず今回は死の問題とこうした他宗教についての問題はよっこ☆しておいて、ふたつ目の「こんなにもどうしようもない私をお救いください」ということについて。
パリサイ人というのは、簡単にいえば「神さまの律法を遵守することには熱心だが、信仰の実質を見失ってしまった人々」だと思うのですが、対してここに出てくる取税人は、「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」と胸を叩いて神さまに告白しています。
この聖書の時代の取税人というのは、人々から取り立てた税の一部を自分の懐に入れていたということで、民衆からは嫌われる存在だったといいます。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる四福音書のうち、マタイは元は取税人だったと言いますし、聖書には他に有名な取税人として、ザアカイという人が出てきます。
>>それからイエスは、エリコにはいって、町をお通りになった。
ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。
彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群集のために見ることができなかった。
それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。
イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。
「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」
ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。
これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた」と言ってつぶやいた。
ところがザアカイは立って、主に言った。
「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します」
イエスは、彼に言われた。
「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」
(ルカの福音書、第19章1~10節)
そういえばこの間、カルロス・ゴーンさんが逮捕されましたね(^^;)
その記載を誤魔化した金額たるや、一般市民のわたしたちには「ええーっ!?一体あんた、どんだけ~!?


ただわたし……決してカルロス・ゴーンさんを擁護するわけではないのですが(汗)、ええと、50億とかそれ以上のお金を誤魔化していたんでしたっけ??でもわたし、この世界に生まれてから今まで、神さまや他の誰かに対して、大体このくらいの負債は軽く負っているのではないかという気がしています(^^;)
そして、イエスさまがこの世に来られて十字架におかかりになったその理由は、わたしたち人間の負う、そうした罪のすべてをかわりに背負ってくださる、何よりそのためでした。
>>それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。
(コロサイ人への手紙、第2章13~14節)
こうして、罪のない方がわたしたち罪深い人間の罪のすべてを十字架上で背負い、父なる神に血の贖いをなしてくださったことで――イエスさまを信じるすべての者が、罪赦され、父なる神と子なる神であるイエス・キリストの備えてくださった天国へ入ることの出来る恵みの道が開かれました。
12月24日はもちろんイエスさまの誕生日ではありませんが(汗)、それでもこの季節になるとやっぱり、街角で樅の樹やクリスマスの飾りつけを見るたびに、いつも以上にとても敬虔な気持ちになります

このイエスさまの特別な、そして全人類に送ってくださった素晴らしいプレゼントのことを日々覚え、そのことを感謝しつつ、信仰をあらたにする思いで、クリスマス&年末年始を過ごしていきたいと思っています♪

何より、神さま、イエスさま、聖霊さまを信じる者にとっては、日々毎日がクリスマスのようなものですし、むしろ逆に「何故毎日をクリスマスであるかのように神さまに感謝し、その恵みを覚えて暮らせないのか?」と、時々自問したりしつつ……(^^;)
それではまた~!!

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