
【聖三位一体】マザッチョ
神さまの聖(きよ)さということについて、ずっと書こうと思いつつ、と同時になかなか難しいテーマのようにも思ってまして(^^;)
なので、今回も例によってわたしの個人的なたとえ話なのですが……キリスト教というか聖書は、人間はひとり残らず罪人だと教えています。けれども、イエス・キリストの十字架とその血の贖いを信じる者は、赤ん坊のように生まれたままの、まったく罪のない状態としていただけます。
でも、教義としてこう教えられても、その<実感が伴う>ためには聖霊が必要であり、またイエスさまのことを信じない限り、この聖霊さまは与えられない――というわけで、こうしたことをノンクリスチャンの方にもわかりやすいように伝えるのが結構難しいというのがあって。。。
ただ、自分的に、それは感覚としてはこんな感じのことじゃないかな……というのがあって、それは、聖霊の泉に体を落っことすみたいな感じのことです(^^;)
ちなみに聖書には、<聖霊の泉>なんていう言葉は出てこないわけですけど、普通、真っ白い布があって、それに黒いしみがついたら、染み抜きするのは相当大変ですよね。ものによってはもうその白い布自体が台無しになってしまうというか。
これと同じく、自分の心の中を点検して、「わたしの心の布の中には黒いしみなどひとつもないわ!!オーッホッホッ!!
」みたいに言える人はたぶんいないと思うんですよね。
それで、わたし自身自分のこの心の布というのは、まー、こっっきたないもんですよ(笑)。しかもあちこち破れてるだけでなく、到底人の前に自慢して広げられるもんじゃーないなという。。。
でも、イエスさまの十字架の血が一滴ここに触れただけで――この布はどんなスーパー洗剤使ったんだろうというくらい、本当に綺麗にしていただけます。それはもう、何かの洗剤のCMの回し者なんじゃないのっていうくらい
そして、このことを個人的な感覚で言い表すとしたら、聖霊の泉にドボンと落ちるみたいな感じのことなのです。もし仮にわたしが「あんた一体何年風呂入ってないの?
」というくらい汚れていたとしても、聖霊さまの泉に落ちると、上がってきた時にはもうすっかり綺麗になっているというか。
それで、この泉は人間の穢れ自体によって汚れるということは決してありません。
つまり、神さまの圧倒的聖さというのはそういうことだと思うんですよね。
<完璧な清さ>なんていうものは、あまりにも観念的で人間の心の中にしかないもののような気がしますけれども、唯一神様さまだけがこの<完璧な清さ>というものを持っておられて、それが完璧であるがゆえに汚れるということは絶対にない――そして、そこにもし人間がちょっとでも触れることが出来たとしたら、どんなに汚れていようとも、同じようにまったく聖くしていただけるのです。
ギリシャ神話にミダスの黄金の手というお話がありますけれども、このミダスという王さまには、手に触れるものすべてを黄金に変えてしまう力がありました。それと同じように、神さまも<完璧な清さ>を持っておられるがゆえに――イエスさまのほんの裾にでも触っただけでも、その人はすっかり清くなり、体と心と魂に至るすべてまでもを癒していただけるのです。
もちろんこれはたとえ話ですし、ギリシャ神話も引用してしまいましたが、もちろんギリシャ神話の中にはイエスさまに比肩しうるような神はひとりもいないと思います(^^;)
ただ、神さまはあまりに聖なる方であるがゆえに、もし本当にそこへほんの少しでも触れることが出来たとしたら、神さまの衣の裾に指の爪先がほんのちょっと触れたというだけで――その人は100%完全に清くなってしまいます。ただ、イエスさまを信じていなかったり、自分の罪といったものを自覚せずに神さまの聖なる何かに触れた場合、その人は神さまの聖さに耐ええず、滅びてしまう、というか。
>>見よ。主の御手が短くて救えないのではない。
その耳が遠くて、聞こえないのではない。
あなたがたの咎が、
あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、
あなたがたの罪が御顔を隠させ、
聞いてくださらないようにしたのだ。
(イザヤ書、第59章1~2節)
このわたしたち人間の側にはどうすることも出来ない神との<罪の仕切り>……これをなくすためにやって来られたのが神さまの御子、イエス・キリストでした。そしてこの我々人間と父なる神との間にある<罪の仕切り>をまったくなくし、神さまと我々罪深い人間との間に和解を成立させること――そのためにイエスさまは十字架におかかりになるという大きな犠牲を払われました。
イエスさまのことを信じると、目の覆いが突然取り除かれたように神さまのそうした深い愛を聖霊さまによって理解することが出来、イエスさまが人間ひとりびとりのためにいかに多大な犠牲を支払われたのか、そのことが本当によくわかります
けれど、この神さまの底知れぬ深い愛のゆえに、わたしたちは安心、というか平安を得ることが出来ています。何故かといえば、それほどまでに実は神さまは人間という生き物を愛してくださっており、さらにはイエスさまを信じる者は、死後に神さまのそうした<完全なる聖さ>に与り、<完璧な世界>――すなわち天国で安らい憩うことが出来るのです。
>>私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。
私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。
それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。
確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。
私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊(聖霊)を下さいました。
(コリント人への手紙第二、第5章1~5節)
一度、聖霊の泉に落ちるような喜びを体験し、神さまの完全な<聖さ>といったことが理解できると、そのような「聖さだけの世界」が実在するということがわかってきます。
つまり、天国というのは人間の頭の作りだした夢見物語ではなく、肉体の穢れに満ちたわたしたちはそのような場所にまったく相応しくないのですけれども、そこに御自身を信じる人々をおらせるために、イエスさまは十字架にかかり多大な犠牲を支払われ、そして彼の血がかかったことによって聖くされたわたしたちは、イエスさまのその和解の務めによって天国へ行くことが出来るのです。
たぶん、ノンクリスチャンの方がこうした文章を読まれた場合、「なんか理屈っぽいし、よくわかんないなー
」と感じられるかもしれません。でも、もし何かの参考にでもなり、キリスト教や教会に関心を持ったり、仮に「なんとなくわかる気がする」とか「そのような神を信じてみたい」と感じられる方がおられたとすれば幸いですm(_ _)m
それではまた~!!
神さまの聖(きよ)さということについて、ずっと書こうと思いつつ、と同時になかなか難しいテーマのようにも思ってまして(^^;)
なので、今回も例によってわたしの個人的なたとえ話なのですが……キリスト教というか聖書は、人間はひとり残らず罪人だと教えています。けれども、イエス・キリストの十字架とその血の贖いを信じる者は、赤ん坊のように生まれたままの、まったく罪のない状態としていただけます。
でも、教義としてこう教えられても、その<実感が伴う>ためには聖霊が必要であり、またイエスさまのことを信じない限り、この聖霊さまは与えられない――というわけで、こうしたことをノンクリスチャンの方にもわかりやすいように伝えるのが結構難しいというのがあって。。。
ただ、自分的に、それは感覚としてはこんな感じのことじゃないかな……というのがあって、それは、聖霊の泉に体を落っことすみたいな感じのことです(^^;)
ちなみに聖書には、<聖霊の泉>なんていう言葉は出てこないわけですけど、普通、真っ白い布があって、それに黒いしみがついたら、染み抜きするのは相当大変ですよね。ものによってはもうその白い布自体が台無しになってしまうというか。
これと同じく、自分の心の中を点検して、「わたしの心の布の中には黒いしみなどひとつもないわ!!オーッホッホッ!!

それで、わたし自身自分のこの心の布というのは、まー、こっっきたないもんですよ(笑)。しかもあちこち破れてるだけでなく、到底人の前に自慢して広げられるもんじゃーないなという。。。
でも、イエスさまの十字架の血が一滴ここに触れただけで――この布はどんなスーパー洗剤使ったんだろうというくらい、本当に綺麗にしていただけます。それはもう、何かの洗剤のCMの回し者なんじゃないのっていうくらい

そして、このことを個人的な感覚で言い表すとしたら、聖霊の泉にドボンと落ちるみたいな感じのことなのです。もし仮にわたしが「あんた一体何年風呂入ってないの?

それで、この泉は人間の穢れ自体によって汚れるということは決してありません。
つまり、神さまの圧倒的聖さというのはそういうことだと思うんですよね。
<完璧な清さ>なんていうものは、あまりにも観念的で人間の心の中にしかないもののような気がしますけれども、唯一神様さまだけがこの<完璧な清さ>というものを持っておられて、それが完璧であるがゆえに汚れるということは絶対にない――そして、そこにもし人間がちょっとでも触れることが出来たとしたら、どんなに汚れていようとも、同じようにまったく聖くしていただけるのです。
ギリシャ神話にミダスの黄金の手というお話がありますけれども、このミダスという王さまには、手に触れるものすべてを黄金に変えてしまう力がありました。それと同じように、神さまも<完璧な清さ>を持っておられるがゆえに――イエスさまのほんの裾にでも触っただけでも、その人はすっかり清くなり、体と心と魂に至るすべてまでもを癒していただけるのです。
もちろんこれはたとえ話ですし、ギリシャ神話も引用してしまいましたが、もちろんギリシャ神話の中にはイエスさまに比肩しうるような神はひとりもいないと思います(^^;)
ただ、神さまはあまりに聖なる方であるがゆえに、もし本当にそこへほんの少しでも触れることが出来たとしたら、神さまの衣の裾に指の爪先がほんのちょっと触れたというだけで――その人は100%完全に清くなってしまいます。ただ、イエスさまを信じていなかったり、自分の罪といったものを自覚せずに神さまの聖なる何かに触れた場合、その人は神さまの聖さに耐ええず、滅びてしまう、というか。
>>見よ。主の御手が短くて救えないのではない。
その耳が遠くて、聞こえないのではない。
あなたがたの咎が、
あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、
あなたがたの罪が御顔を隠させ、
聞いてくださらないようにしたのだ。
(イザヤ書、第59章1~2節)
このわたしたち人間の側にはどうすることも出来ない神との<罪の仕切り>……これをなくすためにやって来られたのが神さまの御子、イエス・キリストでした。そしてこの我々人間と父なる神との間にある<罪の仕切り>をまったくなくし、神さまと我々罪深い人間との間に和解を成立させること――そのためにイエスさまは十字架におかかりになるという大きな犠牲を払われました。
イエスさまのことを信じると、目の覆いが突然取り除かれたように神さまのそうした深い愛を聖霊さまによって理解することが出来、イエスさまが人間ひとりびとりのためにいかに多大な犠牲を支払われたのか、そのことが本当によくわかります

けれど、この神さまの底知れぬ深い愛のゆえに、わたしたちは安心、というか平安を得ることが出来ています。何故かといえば、それほどまでに実は神さまは人間という生き物を愛してくださっており、さらにはイエスさまを信じる者は、死後に神さまのそうした<完全なる聖さ>に与り、<完璧な世界>――すなわち天国で安らい憩うことが出来るのです。
>>私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。
私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。
それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。
確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。
私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊(聖霊)を下さいました。
(コリント人への手紙第二、第5章1~5節)
一度、聖霊の泉に落ちるような喜びを体験し、神さまの完全な<聖さ>といったことが理解できると、そのような「聖さだけの世界」が実在するということがわかってきます。
つまり、天国というのは人間の頭の作りだした夢見物語ではなく、肉体の穢れに満ちたわたしたちはそのような場所にまったく相応しくないのですけれども、そこに御自身を信じる人々をおらせるために、イエスさまは十字架にかかり多大な犠牲を支払われ、そして彼の血がかかったことによって聖くされたわたしたちは、イエスさまのその和解の務めによって天国へ行くことが出来るのです。
たぶん、ノンクリスチャンの方がこうした文章を読まれた場合、「なんか理屈っぽいし、よくわかんないなー

それではまた~!!

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