神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

不気味の谷を越えて。

2019年04月08日 | キリスト教


 ええと、まだマーリン・キャロザース先生の『聖なる楽しみ』の連載途中なのですが……【7】のところで、同書の第6章「選ぶとき」の冒頭の文章を引用しましたm(_ _)m


 >>『カルビンとホブズ』という漫画を見て何人の人が声を立てて笑ったことでしょう。その中で幼いカルビンは、機械が人間をコントロールして人間をふぬけの奴隷にしてしまうというものすごいサイエンスフィクションの話を読んで、トラの友だちのホブズに話をしている場面があります。

 ブランコに乗っていたホブズは慌てて下りて、本をひったくり、叫びました。

「俺たちが機械を操縦するんじゃなくて、機械が俺たちを操縦するんだって?恐ろしい考えじゃないか」

「そうだよ」とカルビンは言ってから、腕時計を見ながら叫んだ。「おい!今何時だい?僕の好きなショーが始まるよ」

 もしその漫画を見て笑わなかったら、あまりにも真実をついているからじゃないかと思います。私たちは神に仕える者と言いながら、時として機械であるテレビに操られている自分たちにハッとすることがあります。決してこれは笑い事ではありません。そして、私自身もそのテレビなるものの奴隷になっていました。

 私は、この世が生みだした機械つまりテレビという娯楽を好んで見てきたと告白しなければなりません。ノンクリスチャンと同じように楽しんで見ているのです。まるでテレビこそ私がいつも一緒にいたいと思う友だちのようです。

(『聖なる楽しみ』マーリン・キャロザースさん著/生ける水の川出版より)


 わたし、カルビンとホブズがどんな漫画かって知らないんですけど(^^;)、将来的に機械が人間を支配するって、ありうるんじゃないかなって思ったりしています。

 というのも、今どこの道を歩いていても、みんなスマホを片手にじっと画面に見入っていたり、あるいは画面に文字を打ち込んでいたりって、当たり前のような日常風景ですよね

 でもわたし、結構これってすでに「(人類の)終わりの始まり」の前触れ現象なんじゃなかろーか……なんて思ったりしています。

 先日も、某デパート内でエスカレーターを降りていたところ、二段ほど下のところにいた女性がサッとスマホを取り出し、Lineの画面を見ようとするところでした。もちろん、いつでも誰かから何かのメッセージが来てるって嬉しいことですし、そのメッセージに返事をするのもとても楽しいことです。

 でもこれ、携帯というものが誕生する前までは見られない光景でもあり……一度こうなってしまうともう後戻り出来ないという意味で、自分的には結構怖いかなっていう気がしたりしています(^^;)

 いえ、わたし自身はメールですら打つのが面倒くさいという、現代社会についていけてないカワイソウな人なのですが(笑)、かつてガラケーと呼ばれたものが今スマートフォンというものに進化したように――これは今後さらに進化していくものと思われます。

 今も時計タイプのものとか、眼鏡タイプのものとかって開発されてあるんでしたっけ??(^^;)

 そこらへんの細かいことはわからないのですが、SFの世界などではこうした携帯、スマートフォン的機能を持つものが体内埋め込み型になっていたり……今でもうすでにこれだけこんなに小さな機械に人が振り回されてるっていうことは、最終的に人間が機械に支配される日も遠くないのでは――なんて思ったりするんですよね。。。

 以前HKで、今後の人類の未来はどうなるか的番組をやっていたことがあるんですけど、もうみんな、携帯というか、タブレット型端末みたいなものを見ながら歩いてて、隣の人の顔さえ見てないんですよ。んで、家には今のVRがさらに進化したものがあって、今以上にリアルなゲームを楽しんだりすることが出来て、あんまし外へ出て行かなくても大抵のことは事足りる的な??

 で、人はみんなそのタブレットみたいなものに内臓された機械というか、A.Iとしゃべってるんですよね。たとえば、その日が休日で「暇だな~☆」なんて思ったら、タブレットに向かって話しかけ、「今日オレ、何したらいいかな?」って聞いたら、コンピューターの中のアレクサ(笑)なり誰なりが一日の最善のプランを細かく提案してくれたりするわけです。。。

 その他、「イタリア料理とフランス料理、どっちを食べにいくのがいいかな?」とか「おススメの店はどこ?」と聞けば、「御主人さまの今日の体調から鑑みて今日は~~をお食べになるべきかと」とか、「恋人のナターシャさまは中華料理がお好きでしたよね?」などなど、色々答えてくれるわけです。

 今のアレクサやSiriさんなどは、ある人々に言わせると「まだまだ話にならんよ☆」といったレベルらしいのですが、いずれ今あるこうした未発達の境界というのを、コンピューターは必ず越えてくると思います。

 ところで、今回のタイトルは<不気味の谷を越えて>なのですが、この<不気味の谷>というのは、ロボットというかアンドロイドさんたちが進化してゆく過程で人間が感じるある過程のことを差しているそうです。

 つまり、AIロボットのソフィアさんってとても有名と思うんですけど、彼女の顔の表情というのも、今はまだ不自然で不気味……な感じがしますよね。微笑みにしてもしかめっ面にしても、何かかなりのとこわざとらしい的な。。。

 でもこれがさらに進化して、より人間らしい表情をなめらかに浮かべられたとして――やっぱりそこまでいっても人間の側からは「言葉と顔の表情が一致していないような違和感」ですとか、「容姿がどんなに人間に近くても、言葉に心がこもってない」ように感じられるという、ある種の<不気味さ>を感じる(たとえは、「わたしはあなたを愛しています」とアンドロイドに言われても、むしろ虚しさしか感じないといった)……どこまでも人間に近いはずなのに、むしろ人間に近ければこそ感じる違和感を拭えないという段階があり、そしてこれが<不気味の谷>と呼ばれるものらしいのですが、この<不気味の谷>を越えてアンドロイドがさらに進化してゆけば……彼らはより人間に近い存在になれるだろう、みたいな話だったと思います。

 そして、AIロボットのソフィアさんが「人類を滅亡させるかもしれない」と言った言葉はとても有名なわけですが、その時代にわたし自身は生きていない可能性のほうが高いにせよ、わたし、たぶんこれが人類が滅亡するシナリオのひとつじゃないかなみたいに思ってます(^^;)

 ここはキリスト教について何か書くといった主旨のブログなので……ここからはそうした主旨のほうの話になるのですが、かつて昔(あるいは今でも)、人形に何か悪いもの(悪霊)が取り憑いているという怪談話というのはあらゆる国にありました。

 もちろんわたしはこのAIロボットに悪霊が取り憑いて人類を滅ぼしにかかるだろう――とまで言いたいわけではないのです(深い意味はありませんが、なんとなくチャッキーを思い出すなあ・笑)。ただ、今現在インターネットを見てみても、この中にも悪霊というか、何かそうした筋のものが巧妙に働いていることがあるように……キリスト教でいうサタン(悪魔)や悪霊といった存在は、実際のところAIロボットに取り憑くというところまでいかなくても……ところどころ、要所要所で、ポイントを押さえたところでほんの少しAIロボットに命令を下して人類をおかしな方向へ導くことさえ出来れば――人類というのはほとんど自滅するような形で簡単に滅びるのではないかという気がします。。。

 もちろん、「あんたが悪魔(サタン)なんぞという非科学的な存在を持ち出さなくても、人類は結局勝手に自分で自分の首を絞めるようにして滅びるわい」といった考え方の方もおられるでしょう。

 でもこうした時代背景の中で聖書の黙示録がどのように実現していくのか――ということを、一クリスチャンとしてはつい考えてしまったりするわけです。また、個人的には人類がそこまで進化する前にイエスさまの再臨が来て、この天地は滅びる可能性が高いのではないだろうか……と思っていたりもします(^^;)

 まあ、あんまり深い意味なく、軽いコラム的なものとして書いた記事ですので、そんなに難しく考えず、クリスチャンの方もそうでない方もサラっと読み流していただければと思いますm(_ _)m

 それではまた~!!





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