罪から解放されて、義の奴隷となったのです。
(ローマ人への手紙、第6章18節)
>>私の孫娘がかって、なぜ私がテレビばかり見ているのかと質問したことを覚えておられると思いますが、神様は、そんな私にはっきり示して下さったのは、私は、彼女とまだ一度も一緒にお祈りしたことがないということでした。これはクリスチャンの祖父としてあるまじきことでした。
次に彼女に会った時、私はこう言いました。
「ブリジッドちゃんは天国へ行くと思うかい」
ブリジッドはけげんそうな顔をして、「わからないわ」と答えました。
「どうしたら天国へ行けるか知りたいかね」
ブリジッドの目が光り輝いて、こう言った。「もちろんよ!」そうして、私は彼女をイエスさまに導いたのです。もし彼女が大きくなるまで待っていたとしたら、彼女はこの世のことで頭が一杯になり、天国などどうでもいいと思うようになってしまうかもしれません。
(『聖なる楽しみ』マーリン・キャロザースさん著/生ける水の川出版より)
これが、マーリンさんが神さまにテレビを捧げてのち、最初に受け取った<実>だったのだと思います。
わたしが思うに、ある部分、通りすがりの全然知らない人にイエスさまのことを伝道するよりも――案外、自分の家族や親戚、あるいは友達など、身近な人のほうが語りずらいっていうこと、ありますよね(^^;)
もちろん、マーリンさんの場合は、「ブリジッドちゃんがもう少し大きくなったら……」とか、「わたしが言わなくても、あの子の両親がイエスさまのことを伝えるだろう」といったように思われていたのかもしれません。
なんにしてもこのあと、おじいちゃんからイエスさまのことを聞いて天国へ行くことが出来ると知ったブリジッドちゃんは、このことを弟のエリックくん(当時4歳)にも知らせ、彼はおじいちゃんにこんな電話をしてきたのです!
>>ブリジッドの弟のエリックとも、まだ祈っていませんでした。エリックはまだ四歳でしたが、ある日、うちに帰る途中、ブリジッドがエリックに、「エリックは天国に行くと思う?」と聞いたのです。
エリックは「なあに?」と答えました。
「天国に行くと思うの?」
「僕わからないよ」
ブリジッドは救いの計画を彼に話しました。エリックはまだ私とブリジッドとの会話を聞いていませんでしたが、家につくころには、彼は素晴らしい体験をしたのです。
エリックはその後私に、電話をしてきて、いきなり、「おじいちゃん、僕、行くからね」と言ったのです。
私は、彼が何を言っているのかよく分からなかったので、「エリック、一体どこへ行くんだい」と聞きました。
「僕、行くよ」
「どこへ行くんだい、エリック」
「僕、天国へ行くよ」
そのときの私の気持ちを察してください。私が生ぬるいクリスチャンだと神様に言われたとき、本当に従ってよかったと思いました。もしいつまでもテレビや、映画などにうつつをぬかしていたら、もちろん私は天国へ行くでしょうが、私にとってとても大事な人たちを天国へ導くチャンスを失ったかもしれません。
私が解放されたのには目的があるということがそのとき分かったのです。
(『聖なる楽しみ』マーリン・キャロザースさん著/生ける水の川出版より)
マーリンさんはこうしたお孫さんの救いを通し、さらにはこのブリジッドちゃんが友達やその両親にイエスさまの救いの計画を話したことなどを通して――以前と同じように熱く情熱を燃やして伝道活動する場へと戻っていかれたのでした!
>>この孫娘との体験は、これからの一連の出来事の手始めでした。次の日ブリジッドは自分の友だちに「あなたは天国へ行く?」と聞きました。その友だちのひとりをかなりの説得力で、イエスさまに導いたのです。それから、彼女は、その友だちの両親と話すことを決め、彼らも福音を聞くチャンスに恵まれました。
私たちは自分たちのことで頭が一杯になったり、娯楽ばかり追い求めていると、どれだけのチャンスを逃すことになるでしょう。私自身も長い間、世の楽しみに耽っていたため、次の真理を無視してきました。
>>また、キリストが全ての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。
(コリント人への手紙第二、第5章15節)
確かに、テレビを見るのをやめなさいとだれかに言われたとしても、きっと無視したでしょう。私の休息の時と娯楽の時を、だれのために使うべきか、私はやっと目が開けた思いでした。だれの意見でもなく、神様の生きたみことばによって、私は夢中になっていることから目を離すことができ、一体何に目を向けるべきかを悟ることができたのです。
(『聖なる楽しみ』マーリン・キャロザースさん著/生ける水の川出版より)
おそらく、ノンクリスチャンの方であれば特に、「神さまにテレビを見ることを捧げる」ですとか、「ゲームする時間を神さまに捧げる」、その他「スマホを見る時間を聖書を読む時間にあてる」、「パソコンの前に座るよりも祈りの時間を持つ」……といったように聞いたとすれば、「なんかめんどくせえなあ」、「やっぱりキリスト教って、そういう堅苦しいもんなのね」と感じられるかもしれません。
けれども、今のこの時代、インターネットをまるで神のようにして過ごしておられる方というのはとても多いと思うのです。また、そのインターネットに関する何がしかのことでお金や時間を使っている方というのも物凄く多いだろうと思います(^^;)
前回もお書きしましたとおり、わたしたちの中の心のランキングとして何が第一位にくるかというのは、非常に重要です。もちろん、「じゃあ、神さまよりも家族が大事」とか「子供のほうが大事」っていうのはおかしいのかというと、そうしたことではなく……神さまのことを第一にする時、結局のところ家庭生活のほうも祝福されるわけですし、その他経済的なことでも祝福されることを思えば――という、これはそうしたわたしたちの人生すべてに関わってくる問題といっていいと思います。
このあたりの危険性については、また別の章のほうで後述したいと思いますが、マーリンさんはテレビに夢中になっている時間を神さまに捧げたことで、霊的にも強められ、こののち説教のしすぎで痛めた喉も癒され、旧約聖書の「ヨブ記」のヨブのように「私はいつもあなたに二倍の祝福をしてあげよう」と語られて、「神さまの道を選んで本当によかった!」と、ますます神さまを感謝し讃美するという生活の中へ入っていかれるのでした。
わたしたちの中で、こうした「選び」というのは、その後の人生を大きく左右するという意味でも非常に重要です。
これは、わたし自身何度も神さまの道を選び損なった結果(聞き従えなかった結果)、どのような実を刈り取ったかを知っているのでわかる、ということなのですが、それはまさしくいばらとおどろの道といって良かったと思います(^^;)
テレビのみならず、先のほうの章でマーリンさんは、食べることに夢中になること(飽食)の危険性や、スポーツやフィットネスに関してなど、その他わたしたちが快楽に夢中になることを通して、それらに対し、神さまのことよりも費やす時間やお金が大きくなることへの危険性について述べておられますが、インターネットが現代人の偶像であるように、わたしたちの中でそうした事柄の与える快楽が神さまのことより上に来る時――すなわちそれが偶像崇拝なのです。
わたしもかつて(今よりもっと若かった頃・笑)、大好きな漫画やアニメのグッズなどにお金を費やしたり、また、インターネットを通して同じ漫画やアニメを好きな人のコミュニティに参加したりして、その中で交わされる会話、あるいは二次創作などに随分夢中になっていたことがあります。
もっとも、その頃からすでに聖書を読んだり祈ったりしてから必ずパソコンを開く――といった習慣ではあったのですが、神さまのことに2~3時間時間を捧げたら、残りの時間はすべて自分のもの!といった感じでもあったわけですよね(^^;)
けれどもその当時からわかっていたとおり、そうした「その時熱中しているもの」というのは必ず過ぎ去ります。また、そうしたことが「悪い」とも、個人的には思いません(これはあくまである程度の節度を保って、度を越さない限りは、ということですけれども)。
たとえば、アイドルというのは偶像という意味ですが、あるアイドルの方に夢中になっていて、その追っかけをし、グッズをたくさん買い、その関係で友達もたくさん出来……二十代のあの頃、それがわたしの青春だった、そしてそれは今でもわたしにとって、いい青春の思い出として残っている……といったことはあると思います。
なので、そうしたすべてを否定するということではなく、ただクリスチャンの方の場合は特に、そうした事柄を通して神さまのことを何よりも心の第一位に置く、またもしイエスさまのことが心の第二位に来ているとしたら、その間第一位に来ているものは何なのか――ということについては、それが偶像礼拝にならないために、常に敏感に注意している必要があると思うんですよね。
わたしたちが人生の中でどんなに夢中になったり、情熱を傾けて行ったことでも……それが真に永遠であるということはほとんどないか、極めて稀といっていいのではないでしょうか。また、マーリンさんもおっしゃっておられるとおり、神さまはわたしたちの楽しみのすべてを取り上げようと考えておられるわけではありません。
ただ、わたしたちが目先の快楽や娯楽に夢中になっており、それが最終的に生むもの、残すものが何であるかを(ただ虚しく苦い後悔しか残らなかったということも、わたしたち間違えやすい人間には多々あることですから)、神さま御自身はご存知であられ、わたしたちがそのことに抵抗するであろうことも神さまはわかっていて、あえて教え導いてくださるということなのです。
けれども、たとえばそれがコカインやギャンブルであったとすれば、「やめたほうがあの人のためだ」といったように理性的に判断できるにも関わらず――自分からもしそれと似た熱中できるものを誰かが取り上げようとしたなら、死力を尽くして抵抗する……という方はわたしを含め、とても多いのではないでしょうか。
そして、人によって<それ>に当たるものが何なにかというのは、それこそ本当に様々だと思うのです(ゆえに、わたし自身は麻薬やギャンブルとは無縁の生活を送っているにも関わらず、競馬新聞を握っている人や煙草やお酒をやめられない人と自分というのはまったく同類であるように感じます。何故なら、わたしにも「神さま、それだけはわたしから取り上げないで!」と感じるものはやはりあるのですから^^;)。
けれどもわたしたちがイエスさまの十字架の血潮の贖いによって魂を救われたのは、もちろんそうしたこの世の一時的な過ぎ去る虚しい楽しみのためではありませんでした。そして、そうした(中毒性があるといっていい)この世の楽しみすべてから解放し、神さまの与えてくださる永遠の命、永遠にして不動の礎である方(イエス・キリスト)にわたしたちが目を移し、そこから離れないことこそ――この世の与えるすべての困難、苦しみ、闇、つらさ、孤独、悲しみ……などより、本当の意味で永遠に救われることを意味するのです。
>>私たちから全ての楽しみを取り上げようとは神様のすることではないように思うかも知れませんが、神様から私たちを離そうとするような娯楽から無理にでも離れないかぎり、イエス様のいのちは現実に分からないでしょう。
私は「これこそ生きている証だ」とそそのかすこの世の考えから離れなければなりませんでした。神様が私たちに差し出している信じられないような素晴らしい永遠のいのちを持つためです。そしてもうそれは始まっていたのです!
毎朝、丘のてっぺんに立ちました。主が私にいのちをもう一度注いで下さった時、何年も感じなかったような熱意をもって祈ることができました。「神様、私はイエスさまにあって勝利しました。神様、あなたは私を解放してくださいました!」
私は、すすり泣いたり、笑ったり、歌ったり、少しずつ変えられていくのが分かりました。毎朝私の心の中に新しい力が流れるのを感じました。昔の疲れはなくなりました。御国を築きたいという熱意が新しい方面に湧いたのです。霊的な力がかってと比べて、二倍になりました。少なくとも二倍に!
(『聖なる楽しみ』マーリン・キャロザースさん著/生ける水の川出版より)
こうしてマーリンさんは、ずっとテレビの前に座って、黒い箱が与えてくれる映像を見続けることに時間を使うよりも、神さまのために熱く心を燃やしてイエスさまのために時間を捧げるとのほうがどれほど霊的充足を与えられるかを新たに体験し――そのことを喜び感謝し讃美されたのです♪
この第7章は、次のような言葉で終わっています。>>「私の新しい祝福は、今までこの世の楽しみで満たされ、神様から離れていた時と比べるとはるかに大きなものでした。これ以上良くなるとは思ってもいませんでしたのに!」
以前書き記しました、第5章「自己との戦い」の終わりの2行と、どれほどの違いでしょうか!実をいうとわたし、この本の表紙――マーリンさんがテレビを前にして寛いでおられる絵――に、本を読む前まではそれほど深い意味があると思っていませんでした。
また、普通に考えたとすれば「同じようにテレビの前で寛ぐことを最上の楽しみにしている人など、腐るほどいるのに、それが罪だのどーだの、うるさすぎやしねえか?」と、一般的には感じられることかもしれません。けれども、これはマーリンさんほどの「大きな器」の方であればこそ起きたことであるのと同時に……一番最初にマーリンさんの序章を書き記しましたとおり、「ここまでのことを求めるのは厳しい」と、マーリンさん御自身わかっておられたと思います。
でも、やはり神さまはご存知なのですよね。教会でよく「ひとりひとりが通りよき管としてイエスさまに仕える」ということが言われるように、その「通りよき管」となる前に、わたしたちには神さまとの間に挟まっている邪魔となるものがあるのです。時々、歯と歯の間に物が挟まると痛いことがあるように――それが取り除かれると人がせいせいするように、あるいは、人が何を食べれば病気になり、日常の食物として何を食べたほうがその人にとって最善であるかを当然神さまは知っておられます。
神さま、イエスさまがわたしたちの口腔内、歯や歯ぐきのことにまで(あるいは胃や腸などの消化器官に至るまで)関心をお持ちになられるとは、通常、人には到底信じがたいことです。けれども、イエスさまの十字架の血潮の贖いを教会で信じて救われ、その後聖霊さまを通して神さまと交わることを知るにつれ……イエスさまがわたしたちの「そんなこと」にまでも関心を持ち、わたしたちの人生のひとつひとつの問題をご自身のものとして眺められ、解決や救いを与えてくださろうとする恵み深い方であることがわかってくるのです。
それでは、次回は霊的に再びパワーアップしたマーリンさんの、その後の具体的な御活躍について、第8章「福音を伝える」より、さらに学んでいきたいと思いますm(_ _)m
それではまた~!!
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