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神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

永遠のいのち。

2016年11月11日 | キリスト教




 動画のほうが、「それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです」というヤコブの手紙の第2章17節の御言葉からはじまるので、もしノンクリスチャンの方でご覧になった方がいらっしゃいましたら、ちょっと「ギョッ!」とされるかもしれません(^^;)

 ただ、ペテロ窪田牧師のメッセージの中に「永遠のいのち」についてのお話があって……メッセージ全体、本当に素晴らしい、いいお話なんですけど、自分的に今回はこのことにしぼって何か書いてみたいと思いましたm(_ _)m

 以前にわたし、「年間で三万人自殺者がいるということは、8秒にひとり、人が死んでいるということ。つまり、今この瞬間にも誰かが自殺しているということを意味する」――といった言葉を聞いたことがあって、その時びっくりしました

 で、わたし、馬鹿すぎて計算が出来ないもので、もし仮に1時間にひとり誰か自殺しているとして、1日に24人、1か月を30日として、720人……1か月に720人自殺される方がいたら、×12=8640人……いやいや、待て待て。これだけでも十分自殺する人の数としては多すぎる、みたいに思ったんですけど、確かにこうして計算していくと、8秒にひとりというのは、計算として正しかったんですよね(今、その時と同じように計算し直してはいないんですけど、確かに正しかったと記憶しています)。

 しかもこれは、日本だけの話であって、世界中でっていうことになると、1秒にひとりどころの話ではなくなるんではないかと思います

 もちろん、そんなことを言ったら、今この瞬間にも誰か彼かが凶悪な犯罪に巻き込まれ、あるいは戦争などでも命を落としていることだろう……という話にもなると思うんですけど、今回貼らせていただいた動画のペテロ窪田牧師の言葉の中に、<永遠のいのち>ということが出てきます。

 わたし自身は存じあげないのですが(すみません)、『ピラニア』というパニック映画(ですよね、たぶん)のプロデューサーで、筑波久子さんという方がいらっしゃって、ペテロ窪田牧師がお会いになられたところ、「自殺するのは永遠のいのちを知らないからだ」とおっしゃられたそうです。

 それで、筑波久子さんのウィキのところを見てみると(それにしても、お美しい方ですね)、>>1986年(昭和61年)、旧ソ連でチェルノブイリ原発事故が起こり、感受性の強い一人息子のキースが世を儚んで拳銃自殺してしまう。筑波は一時このショックから精神不安定となり、自殺を試みたこともあったという。……との一文があります。

 その、息子さんが何故自殺されたのか、細かな経緯はわからないのですけれども、きっと繊細で心の優しい方だったのではないでしょうか。言ってみれば、日本の東日本大震災のことで、自身は直接被害を受けなかったけれども、人々の苦しみや悲しみを想像するあまり、世を儚んで自殺してしまった……とか、もしかしたらそうしたことにも近い何かがあったのかもしれません。

 わたしのまわりにも(東日本大震災が起きる前のことですが)、直接ご本人を知っているわけではないんですけれども、そうした方がいました。その方は御自身のことでとても悩んでおられて、長く引きこもり生活を送っていたそうなんですね。親御さんはふたりとも、「息子は将来なりたいもののために勉強している」と言って、そうした息子さんのことを認めておられたそうです。

 けれども、おそらくはいつまでもそうしてもおれないと思ったのでしょう。自分のなりたいもののことは諦めて、突然親元を離れて就職すると言って、全然別の土地へ仕事のために旅立っていくことになりました。御両親はそのことも「息子が自分で決めたことなら……」と思い、見送るということにしたそうです。息子さんのほうでも旅立ちの日、とても笑顔だったと、そんなふうにお聞きました。

 ところが、ですね……その後、その息子さんは自殺されたそうです。おそらく、自殺する場所というのをすでに自分で決めていて、両親と別れる時にはすでに心が決まっていたものと思われます。その……わたしも同じだったからわかるんですけど、一度死ぬとか自殺するって決めると、「生きるか死ぬか」で急に心がピタッと揺れなくなるんですよ。それで、「死ぬ」ということに決まると、突然心から色々な重荷がスーッと取れて、あとはもうただ「両親にせめても感謝して笑顔で別れよう」みたいな心持ちになります。

 もちろん、これから自分がとても親不孝なことをしようとしているという自覚はあります。でも、そこに至るまでにものすごーく長い時間をかけて悩み続けていますから、最後に心が決まると突然実に潔くなるというか、そうした瞬間が自殺者にはあると思うんですよね(少なくともわたしはそうでした)。

 だからわたし、この話を聞いた時にも胸が痛んで泣きましたし、テレビのニュースなどでも、いじめを苦に息子が自殺するというその日、息子がとてもいい笑顔で笑っていたのを忘れられない。「お母さん、ありがとう」って言ってたけど、今にして思えば、あの時もう死ぬことを心に決めていたんだなあと思うと……みたいに聞いた時にも、それだけでもう涙が出てきました。

 これはわたし個人の考えですけれども、自殺する人というのは、精神的に弱いのではなく、強い人のほうがおそらく多いのではないかと思っています。それはいわゆるこの世的な強さではなく、魂の世界では強い、といったような意味合いにおいて、なんですけれども。

 そしてそうした人というのは、何か繊細で心が綺麗で美しいとか、そうしたことのために死ぬことになる……という、そんな気がしてなりません。筑波久子さんはクリスチャンだそうですが、「自殺するのは永遠のいのちを知らないからだ」との言葉は、本当に重い言葉だと思います。

 もしイエスさまにある<永遠のいのち>さえ知っていたら、自殺される方の数というのは確実に減らせるし、あるいはまったくなくすことも出来るかもしれません。また、ニュースなどで多く聞く「父殺し、母殺し、子殺し」といったことも、確実に変わっていくと思うんですよね。

 そして、この<永遠の命>というのは、キリストの内にあって、イエス・キリストを信じるすべての者に与えられるものなのですが、ここで少し聖書から御言葉を引いてみたいと思います。


 ††永遠のいのちとは=キリストを信じる者に恵みとして与えられる霊的いのち。これは神から与えられるものであるから、永遠に続き、決して滅びることがない。永遠のいのちは救いの原因となるというより、救いの結果与えられるものである。(新改訳聖書より)


 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

(ヨハネの福音書、第3章16節)

 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。

(ヨハネの福音書、第4章14節)

 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

(ヨハネの福音書、第5章24節)

 イエスは言われた。
「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません」

(ヨハネの福音書、第11章25~26節)

 罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

(ローマ人への手紙、第6章20~23節)


 永遠のいのちは、イエスさまのことを信じているひとりひとりに与えられるものであり、わたしたちはすでに死から命に移っていると、わたし自身も信じていますし、事実そのとおりであることを聖霊さまが証印してくださってもいます。

 この、聖霊さまを通して「罪が赦されている」、「永遠のいのちが与えられている」、「天国へ行くことが出来る」とはっきり感じ、そうと信じられる魂に証印が押されている感覚というのは、信者にしかわからないことですので、ノンクリスチャンの方に言葉で十全に説明するというのはほとんど不可能だと思います。

 そして、生前イエスさまのことを知る機会なく自殺された方というのは、キリスト教神学的に見た場合、その魂が天国へ行けるとは言えないかもしれません。けれども、わたし自身そうした方(イエス・キリストを知る機会なく亡くなられた方)のために随分祈ってきましたし、おそらく筑波久子さんも息子さんのためにそのように祈っておられるのではないでしょうか。

 前述の、わたしの知り合いの方の息子さんのご両親は、お葬式の時に親戚から「何故気づかなかったのか」と随分責められたそうです。けれども、親御さんと同居していて自殺することを考えてる方って、まず誰よりも親からそのことを隠すんですよ。これはいじめを受けているお子さんが、親にいじめられていることがわからないように隠すのと、まったく同じようなことだと思います。

 わたし自身も、学校や職場などから帰ってきて、親と話してる時はまったくもって「フツー」でした。テレビのお笑い番組を見ながらごはん食べて笑ったり……それで、自分の部屋に戻ったあたりでドッと疲れるんですよね。今もはっきり覚えていますが、わたしがかなり深刻に死ぬことを考えていた時には「もう小指一本動かす力はない」とか、そんなふうに思っていたものでした。

 そして、翌朝起きてくると、また「フツー」なんですよ。普通にテレビのニュース見ながら親としゃべって「いってきまーす!」とか言って、学校なり職場なりへ向かうっていう……それで、自分の心の中で「死ぬ」とか、そう決めた日ですらも親の前では笑顔だったと思います。

「おまえの親は本当に何も気づかなかったのか」と思われるでしょうけれども、わたし自身の見解としては「気づかなかったとしても無理はない」と思っています。けれど、そうは言っても「気づいて欲しい」とか「本当のところを汲みとって欲しい」という気持ちはあったでしょうし、日本の子供はよく「察する能力に優れている」と言いますけれども、自分が親の気持ちを察して「都合のいい子」を演じているように、親のほうで同じように「察して先まわりして助けて欲しい」という気持ちは、なかったといえば間違いなく嘘になると思います。

 前述の自殺された息子さんのお母さんはクリスチャンの方ではないのですけれども、でも「息子を死なせたことで一生の十字架を背負ったようなものだ」とおっしゃっていたそうです。けれど、実をいうとこの<十字架>の言葉の意味はもっと別の深いところにあるんですよね。イエスさまが十字架で血の贖いをなしてくださったからこそ、わたしたち全人類の罪が赦され、わたしたちが天国へ行けることの出来る道をイエスさまは開いてくださったわけですから――そしてイエスさま御自身、今はそのことを喜んでもおられるのです。


 >>しかし、彼を砕いて、痛めることは
 主のみこころであった。
 もし彼が、自分のいのちを
 罪過のためのいけにえとするなら、
 彼は末長く、子孫を見ることができ、
 主のみこころは彼によって成し遂げられる。

 彼は、自分のいのちの
 激しい苦しみのあとを見て、満足する。
 彼が自分のいのちを死に明け渡し、
 そむいた人たちとともに数えられたからである。
 彼は多くの人の罪を負い、
 そむいた人たちのためにとりなしをする。

(イザヤ書、第53章10~12節)


 今年度、主の十字架クリスチャンセンターの群れ全体に与えられた御言葉は「行いのない信仰は死んだものです」という、ヤコブの手紙からのものですが、実際本当にそのとおりだなと、自分としては思います(^^;)

「十字架の血の贖い」とか「イエスさまがそのように苦難を忍ばれたのは、わたしたちひとりびとりのためだった」とか、「十字架にかかって三日後に復活され、その後昇天された」とか……そうしたことを語って変な人だと思われたくないといった理性が働くあまり、神さまの福音を伝えることが出来なかったりするわけですが、これからはもっと大胆に忠実にならなくてはと思われされます。

 ではでは、今回は長くなりましたので、このへんで……。

 それではまた~!!





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