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矢沢永吉、2000年代以降の作品を辿る

2020-12-02 00:00:51 | 矢沢永吉
営業の永Tです★

『矢沢永吉、2000年代以降の作品を辿る』

音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出していく。2020年10月の特集は矢沢永吉。第4週となる今回は、2000年代以降の矢沢永吉を作品と共にを辿る。

おまえに / 矢沢永吉

こんばんは。FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」案内人、田家秀樹です。今お聴き頂いているのは矢沢永吉さんの「おまえに」。10月21日に発売の3枚組アルバム『STANDARD~THE BALLAD BEST~』からお聴きいただきます。オリジナルは2000年のアルバム『STOP YOUR STEP』の中の曲です。今日の前テーマはこれです。

今月2020年10月の特集は「矢沢永吉」。1949年9月14日生まれで今年71歳。去年発売したオリジナルアルバム『いつか、その日が来るまで...』がアルバムチャート1位になり、史上最年長記録となりました国民的ロックスター。日本のロックの革命時、風雲児。日本のロックの最先端を走り続け、日本のロックのインフラを作った。そして、日本のロックをメジャーにしたスーパーレジェンドであります。今年がソロデビュー45周年。10月21日に発売の3枚組アルバム『STANDARD~THE BALLAD BEST~』からお聴きいただきます。ロックンローラー永ちゃんとは違うメロディメーカーの姿ですね。今月はそのアルバムの曲を中心にしながら45年を辿っております。今週は2000年代以降の話ですね。 

先週のおさらいをしましょう。1980年の終わりに矢沢さんは日本のファミリーを解散して単身アメリカへ渡って一からやり直したんですね。現地のミュージシャンと親交ができて、一緒にアルバムを作ったり、スタジオを共にしました。そのメンバーの中にはドゥービー・ブラザーズとかリトル・フィートのメンバーなど、西海岸を代表するミュージシャンやシンガー・ソングライターのアンドリュー・ゴールドもいました。彼とは、盟友としてその後もずっと活動を共にしましたね。ロサンゼルスだけではなく、ロンドンでもレコーディングをするようになりました。さらに日本を代表して、ロンドンのウェンブリー・スタジアムで7万人のお客さんの前で、エルヴィス・プレスリーの歌を歌ったんですね。エルヴィス没後20年。その一方で、日本のテレビドラマにも出るようになったというのが先週の話でした。

今週は2000年代の話ですが、大きな変化がありました。矢沢さんは家族でロサンゼルスに移住してしまったんです。なぜそういう始まり方をしたのか? 本人のコメントと共にお送りします。Part4は21世紀編。まずは、2001年のアルバム『YOU,TOO COOL』から「背中ごしのI LOVE YOU」、当時52歳です。

背中ごしのI LOVE YOU / 矢沢永吉

『YOU,TOO COOL』は2001年9月27日発売のアルバムです。アメリカ同時多発テロの直後でした。もちろん制作期間はその前なので、そのことが反映されているわけでないですけど、アルバムが出た時にこの曲を聴いて、"明日はどっちだ"というのが21世紀の僕らの明日はどうなるんだ、という風に聞こえました。ポップ・ミュージックというのは、時にそういう偶然が違う意味をもたらしてしまう、そんな一曲でした。矢沢さんの21世紀の始まりは、やはりこういうタイトなロックンロールというイメージで、『YOU,TOO COOL』はそんなアルバムに思えたんですが、その中にもバラードが入っていて。今回のバラードベストでもそういう一面が強調されてます。矢沢さんは家族共々日本を離れてアメリカへ行った、それが50代の始まりでした。「背中ごしのI LOVE YOU」、2013年発売のベストアルバム『ALL TIME BEST ALBUM』よりお聴きいただきました。

2000年代に矢沢さんはアメリカに移住したわけですが、その頃の話を本人からコメントでお聞きいただきます。それに続いて、アルバム『YOU,TOO COOL』収録の「パセオラの風が」を10月21日に発売の3枚組アルバム『STANDARD~THE BALLAD BEST~』からお聴きいただきます。 

矢沢:僕は2000年に家族共々拠点をアメリカに移すんだけど、これは必ずしも音楽的に行ったわけじゃないのよね。レコーディングはアメリカでもイギリスでもやってましたけど、ちょっと悲しいことに、オーストラリア事件みたいな大きなトラブルに巻き込まれて。それも、何もかも含めて一回日本を離れたいということで離れた。日本の中にいて日本しか知らないのと、外から日本を見て自分の立ち位置を見るのとは景色が全然違うのよね。あれはよかったですね、家族には迷惑かけたけど。家族は異国の地で6年も過ごしましたし、巻き込んで悪いなっていう気持ちはありましたけど、世界的な感覚で自分を客観的に見れるいい機会だったと思うよ。それまではツアーでもアメリカやイギリス、日本の良いミュージシャンとライブはやりまくってるんですけど、色々な見方や考え方が変わってきたかもしれないね。これラジオで言っていいか分からないし、分かる人と分からない人もいると思うから、僕の独り言だと思って聴いてほしいんだけど。アメリカのすごいギタリストや、オルガンがすごいイギリスのミュージシャンがいたとか言っても、この人すごいよね! すごいから一緒にやろうよ! っていうだけじゃあね、日本にもいいプレイヤーがいっぱいいます。だから何人でも関係ない、すげえ奴らともっと積極的に組みたいとか、トータル的ビジョンで物事を見れるようになったとか。2000年以降は、そういうプロデューサー目線も備えたシンガー矢沢永吉も育っていったんじゃないかな。まあ、今年でキャロルのデビューから49年になるんですね。くそっ、コロナが早く明けて、早く皆の前で生ステージで最高のプレイしなきゃいけないな、と思っております。

パセオラの風が / 矢沢永吉

アルバム『YOU,TOO COOL』収録の「パセオラの風が」。10月21日発売の3枚組アルバム『STANDARD~THE BALLAD BEST~』からお聴きいただいてます。ヘッドホンで聴いていると、ドラムが左、ギターが右とか分かるんですよ。ディレクターが言っていたんですが、今ちゃんと音の定位を考えてレコーディングしている人は本当に少ないらしいですね、今回のベストアルバムには、そういう手の加え方がされてます。2000年代に家族でアメリカに行かれたのは、先ほどの事情があった。この話はご自身の本『アー・ユー・ハッピー?』でも詳しくお話になっていて、オーストラリアにスタジオを作る予定だったのですが、そこの間に入った人たちに35億円という金額を詐欺されたんですね。当時は絶望して酒浸りだったようですが、それを救ってくれたのが奥様だったそうです。その後、彼は借金をするんです。35億円を詐欺で持っていかれた後に自分でさらに借金してスタジオを建てて、その後6年で完済したんですよ。当時のインタビューで「俺は実業家になっても成功したかな?」って冗談を言われてましたけど、成功するでしょうね。そういう大胆な冒険心、賭けのできる人なんだなと思いました。今の「パセオラの風が」は、ご家族が当時住んでいたロサンゼルスの前の通りがパセオラという名前だったそうなんです。そして、その道路越しに海が見えた。自分の書斎から海を見ながら描いた曲。やっぱり50代のバラードというのは、20代、30代の狂おしい、張り裂けるんばかりの思いだけではなく、柔らかい感傷的なバラードになっている。それも年齢なのかなと思います。「パセオラの風が」は今回のベストアルバムの聴き所です。 

2000年代のことで触れておかなければならないのは、ライブですね。2002年、YAZAWA CLASSIC 〜VOICE〜というアコースティックライブがありました。2003年はRock Opera、2006年にはRock Opera2 New Standardとしてオーケストラコンサートで全国をまわったんですね。改めて思ったのが、今回のベストアルバムのタイトル『STANDARD~THE BALLAD BEST~』ですが、Rock Opera2 New StandardでもStandardという言葉が使われていたんですね。当時から、矢沢さんの中にはスタンダードという意識があったんでしょう。そして、今回のバラードベストの中にはRock Operaシリーズで演奏されたバージョンの曲が入ってます。1976年のシングル「ひき潮」。

ひき潮 / 矢沢永吉

この曲は、オリジナルアルバムには未収録だったんですね。その曲が、今回のベストアルバムでは2007年に発売されたライブDVDの音で収録しております。さっきお話したRock Opera2、チェコの国立交響楽団と行ったツアーの音源ですね。ツアー当時は57歳です。ずっと矢沢さんのロックへのこだわり方のお話もしてきましたが、こういう面も当時からあったということですね。先週はアメリカやイギリスに行って、色々な新しい出会いや冒険、好奇心や野心を音楽の中にぶつけて自分を高めてきたという話をしました。音楽的な貪欲さで言うと、2000年代には違う方向に向いていたんだということを、この曲を聴いて感じていただけるのではないでしょうか。音楽についての偏見がないというか、クラシックは自分の音楽じゃないと思ったりしないのが矢沢さんなんだと、改めて思っております。自分が経験しなかったことや、魅力的に思ったものには貪欲に取り組んでいく、そうやって50代を過ごして還暦を迎えた。60歳のアルバムの中の曲をお聴きください。2010年6月発売のアルバム『TWIST』、こちらも『STANDARD~THE BALLAD BEST~』からお聴きください。

HEY YOU… / 矢沢永吉

還暦の時のアルバムですね、2009年に還暦を迎えた前後の矢沢さんの活動もドラマチックでした。9月の誕生日の前には、ap bankフェスやROCK IN JAPANにも出て、還暦の東京ドーム公演があったんですね。その公演には氷室京介さんと甲本ヒロトさん、マーシーさんがシークレットゲストでやはり登場して「黒く塗りつぶせ」を歌っておりました。

あ、な、た、、、。 / 矢沢永吉

2012年のアルバム『Last Song』の中の曲です。"お前"という風に若い時に歌っていたロックシンガーが、"あなた"と歌うようになる。これを大人の成熟と言わずに何と呼ぶんでしょう。改めて2000年代のことで思ったことが色々ありまして、矢沢さんがこの2000年代以降追い求めてきたこと、例えばロックと年齢、音楽と時代の音、メロディの普遍性、というようなことなんじゃないかなと思ったんですね。矢沢さんが1980年代にアメリカに行って、アンドリュー・ゴールドのスタジオで打ち込みを見せられた時に、新しい世界が広がった気がした、嬉しかったと仰っていましたが、そういうテクノロジーに刺激された音に惹かれていった時代。これは誰でもあると思うんですが、そういうことだけじゃないのではないか? というのが、2000年代以降の活動のように思えるんですね。Rock Opera2でニュースタンダードっていうタイトルをつけたのもそうでしょうし、2006年から2007年にかけては、YOUR SONGSというリミックスシリーズを6枚リリースしました。ソロになってからの曲に手を加え直して、オリジナルアルバムに縛られずに収録したアルバムだったんです。そうやって彼は時代を越えようとしたんだなと改めて思います。そういう作業の後に出たオリジナルアルバムが、2006年の『ROCK’N’ROLL』、『TWIST』、『Last Song』と続いているわけですけども、その頃のインタビューで彼は「アメリカの何がすごい、イギリスにこんなすごいっていうミュージシャンがいるし、そういう人たちとやってみたかった。でも、それは作り手の自己満足なんじゃないかなとも思ったりした。すごい奴は日本にもいるんだ」という話をしてた記憶があります。言ってみれば洋楽コンプレックスからの解放ですよね。2009年以降のアルバムがシンプルになっていったのはそういう変化でもあると思います。2012年に『Last Song』がリリースされた時に、タイトルから察して引退なんではないか? と囁かれましたね。でも、その次に出たアルバムが去年に出た『いつか、その日が来る日まで…』でした。そう考えるとこのアルバムの意味が違って感じられるのではないでしょうか。この曲をお聴きください。「魅せてくれ」

魅せてくれ / 矢沢永吉

『いつか、その日が来る日まで…』からの一曲。作詞はいしわたり淳治さんですね。伊秩弘将さんなど初めての方とも組んだアルバムです。先日、TV番組「関ジャム 完全燃SHOW」で矢沢さんがゲストに出ていて、音楽の話をしていました。面白かったのが、本間昭光さんなど現役のアレンジャーが、色々訊くわけですが、なぜあの曲であのコード進行なのか? ということを訊かれた時に、矢沢さんが「コードを知っていて作ったわけじゃない。音色が気に入っただけなんだよ。それをあとで訊いたら、なんとかっていうコードだっただけなんだよ」と。つまり、今、音楽を作ろうとしている人たちが、まず知識を先に入れる傾向があるのとは、全然違うところから音楽に入っていって、それを表現しているというとても象徴的なエピソードだと思ったんですね。ノウハウとかマニュアルが全くない。全部が自分の感覚や直感ということで、矢沢さんの身体の中にあるものが全部音楽になっている。矢沢さんも、この番組は面白いと言われてましたが、"成りあがり"とは違う矢沢さんの姿が見れたとても貴重な番組ではないかと思ったりしました。さて、『いつか、その日が来る日まで…』で一番驚いたのが、作詞家になかにし礼さんが参加していたことです。彼が作詞したうちの一曲をお聴きいただきましょう、「海にかかる橋」。

海にかかる橋 / 矢沢永吉

海の中の橋、その向こうに何があるのかは触れていません。孤高のロッカーを思わせる歌です。人生のエンディングというのが感じられる歌。なかにし礼さんは、阿久悠さんと並ぶ大御所ですからね。1938年生まれ。もともとはシャンソンの訳詞をしていた方。彼もGSから世に出ました。でも、アルバムのクレジットを見てびっくりしましたねえ。なかにし礼さんは、週刊誌のご自分のエッセイでその時のことをお書きになっていました。ある日突然電話があったというんです。「矢沢と申しますが、70歳になるアルバムに詞を書いていただけないだろうか? こういう詞で書いていただきたい」、と。"いつか、その日が来る日まで…"というのは、なかにし礼さんの言葉かなと思ったんですが、矢沢さんがお願いした時にはこの言葉があった。プロデューサー矢沢永吉の真骨頂を見た想いでしたね。自分がこの歳で何を歌わないといけないのかと考えて、礼さんにお願いしたんでしょうね。礼さんはライブを観に行って感動したというお話も書かれていました。歌謡曲というのが、1970年代にどういう物だったのか? というのは、この番組をお聴きの方にはなんとなくお分かりいただけるかもしれませんが、こっち側とあっち側という言葉があって。こっち側がロックやフォーク、あっち側が芸能界、歌謡界。なかにしさんはあっち側の大御所ですよ。海にかかる橋には、そういう意味もあるのではないかとふと思いました。礼さんにお願いしたのは、矢沢さんの覚悟だったんだなと思います。そんなタイトル曲を心してお聴きください。

いつか、その日が来る日まで… / 矢沢永吉

矢沢永吉、なかにし礼というコンビで生まれた曲です。礼さんはこの言葉についても書かれていて、語法的に正しいのは、「いつかその日が来るまで」か「いつかその日が来るまでは」ではないか? と書かれているんですね。でもそうすると、言葉がまん丸に収まってしまう。まん丸に収まるというのが、なかにし礼さんの表現なんだなと思いました。でもやっぱりそれじゃつまらないので、矢沢さんはロックしてるんだなと思った、とお書きになっていました。『Last Song』から『いつか、その日が来る日まで…』まで7年間もありました。その間、矢沢さんはどうやって70歳を迎えるのか考えていたのかもしれません。ロックを歌ったまま年をとっていく、そういう歌でもあります。雑誌Rolling Stone Japanの10月号に矢沢さんの巻頭特集インタビューが掲載されていて、今後のこともお話されていました。そこでは、目標がなかったら、探すか無理やり作るしかないと。海の向こうにはミック・ジャガーがいる、でも日本にはいないじゃないか。だったら、俺が70歳の現役ロックシンガーを貫いてやると仰っております。 

そしてもう一つ、2022年のデビュー50周年。この時、ドームをパラパラとやろうと思ってる。つまりドームツアーですね。2022年、矢沢さんのドームツアー楽しみにしましょう。本日最後の曲、『STANDARD~THE BALLAD BEST~』の「A DAY」。1976年、2枚目のアルバムのタイトル曲のライブバージョンです。2017年、68歳のライブです。

A DAY / 矢沢永吉

FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」2020年10月矢沢永吉特集Part4。今年がデビュー45周年、10月21日に『STANDARD~THE BALLAD BEST~』をリリースした彼の軌跡を辿る1ヶ月。今週は21世紀以降編でした。今流れているのは、後テーマ曲で竹内まりやさんの「静かな伝説(レジェンド)」です。

4週間、45年分いかがでしたでしょうか? かなりイメージが変わったと思っていただけると、特集した意味があったかなと思っています。特に洋楽ファンの方たち、矢沢さんをどう見ていたのかなと思うんです。洋楽ファンの方は洋楽に対しての憧れや尊敬も強く、日本のミュージシャンについては額面通りに受け取ってもらえない、入り口で弾かれるケースもあります。そういう人にこそ、矢沢永吉ってそうだったんだ! と思っていただけると嬉しいです。どんな方もあのアーティストには第一印象でやられた! という経験をお持ちでしょうが、私も1972年12月16日、キャロルを初めて見た日を忘れません。もちろん次元も違うし、闘ってきたものやスケールも比較になりませんが、同じ時代を生きてきたな、という感じもあって、こういう特集をできたことに改めて感謝したいと思っております。矢沢永吉は、頑張る気にさせてくれるアーティストです。ロックンロールは永遠です。

※Rolling Stone引用

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