祈りを、うたにこめて

祈りうた(原爆  峠三吉『原爆詩集』序)

峠三吉『原爆詩集』序

 

 

 二〇二三年の八月六日が来た。必ず思い浮かべるのが、峠三吉『原爆詩集』の初めに置かれたこの詩である。ご存知の方も多いだろうと思う。

 

序    峠 三吉

 

ちちをかえせ ははをかえせ

としよりをかえせ

こどもをかえせ

 

わたしをかえせ わたしにつながる

にんげんをかえせ

 

にんげんの にんげんのよのあるかぎり

くずれぬへいわを

へいわをかえせ

*峠三吉『原爆詩集』 序(『原爆詩集 八月』、合同出版編集部編)

 

 わたしの住む街はいま夏祭りの色が濃い。窓の外からは囃子の音が響いてくる。コロナ禍は終わっていないが、祭りは何年かぶりの全面解禁となった。表通りには屋台がずらりと並んでいるようだ。
 このお祭りも平和を願ってのものだと思うが、この八月六日を最終日と組んだ実行委員会のメンバーは、なぜか「平和祈願」の文字を案内パンフレットに載せてはいない。祭りは楽しいものですよ、みなさん参加しましょう、という誘いばかりがある。この街も戦争被害をひどく受けた所であり、むごい目に遭われた方々も多いのだが。
 *
 お祭りがいけないとは思わない。その土地に暮らす人々にとっては、待ちに待った回復・復興のシンボルでもあることだろう。
 けれど、戦争のことを忘れたかのように、原爆のことを知らないかのように「お祭りさわぎ」をすることは、いかがなものか。戦争は戦争、お祭りはお祭りと区切り線を引くことはできない。
 神輿(みこし)にも鉾(ほこ)にも、踊りの輪にも、その真ん中に「平和への祈り」が込められていてほしいと願うのだ。
 わたしも含めて戦争を知らない世代が毎年毎年増えていく。峠三吉の悲しみ、怒り、叫びが、花火の音に打ち消されず、太鼓の音にかき回されず、一人ひとりの心の奥に刺さることを願わないではいられない。
 *
 戦争はまだ終わってなどいない。
 それどころか、ロシアも北朝鮮も「核」で「にんげん」を脅し、少数の支配者のエゴを通さんとしているありさまだ。平和が「くずれ」ようとしているのである。
   命の何という尊さであることか。病んだ家族とともに生きていると、いっそうその重さが迫ってくる。その命を暴力で奪おうとすることなど、とうてい許されることではない。
    峠三吉は「かえせ」と訴えた。
 わたしたちは「うばうな!」と絶叫しよう。
 争いで、原爆で、父を母を子を老いた人を若者を。暮らしを、自由を、平和を、愛する心を。それらのみんなを「うばうな!」と。

 

 

 

★いつも読んでくださり、ほんとうに有難うございます。

 『はだしのゲン』が広島市の小学校の平和学習教材から削除されました。歴史は曲がって動いていってるなと案じます。

平和をつくる者は幸いです。(聖書)

 

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