祈りを、うたにこめて

祈りうた(原爆  広島平和公園 息子たちのヒロシマ)  

広島平和公園

 

 

1 川柳

子ら直立。平和の碧空(そら)へ鶴放つ

折鶴に黙祷吊るす十二歳

鶴千羽 記念写真の背を翔(かけ)

引率の教師に重い千羽鶴

教員の声張り裂けてドーム揺れ

街に住む。ドームの前を急ぎ足       

自転車で疾駆する朝 ドーム蹴り

広島に「ドーム球場」つくらない

 

2 自註

 その子どもらは広島県のどこかからやってきたのだろう。千羽鶴を手に。平和公園には、全国から千羽鶴が集まって、びっしり。そこに一つ、新たな祈りが加えられる。
 何人もの手、何枚もの折り紙、何日もの時間―それらが一羽一羽となって。
 そう、君もあなたも十二歳? 亡くなった少年少女にも十二歳の子どもたちが居たんだよ、たくさん。

 *

 引率の先生が悪い、とはいえないかもしれぬ。年間の行事予定を組み、準備を重ね、児童たちを連れてきたのだ。記念写真は必須だろう。
 だが、と、その光景を見ながらわたしは思う。「もう少し小さな声で、もう少しおだやかにお願いしたいのです。ここは撮影スポットなのでしょうが、それ以上に子どもたちに戦争の悲惨さを伝える場なのですから。児童たちと同い年のような子どもらが、あの原爆一発で大勢殺された場なのですから。
 先生も、原爆ドームを、慰霊碑を、子どもたちと一緒に見つめていただけませんか、どうか黙って、黙するよりほかに言葉は無い、というほどに」

 *

 広島に住む。住み人にとって、平和公園は通り道なのだろう。原爆ドームも毎日見る景色の一つなのだろう。
 戦後の復興は目をみはる。何十年も緑は生えないだろうと云われた樹々も、生い茂り、蝉が激しく啼く。「奇蹟の街」と呼びたいほどだ。
 わたしは旅人で、この広島に根を下ろしていない。外から見た印象しか言えない。―戦争が終わって長いながい時間が経ちました。でも、本当にすべてのひとに「戦争は終わった」のですか。原爆ドームは景色の一つなのですか。
(翌日、慰霊碑を掃除するご婦人方の姿、ひとり静かに手を合わせるお年寄りの姿とも出会うことができた。ヒロシマと広島、その両面を見た気がした)
 広島の野球場はドーム型ではない。コストがかかる、人工芝は選手にとって良くない、などの理由から、青空のもと、大気を吸いながらのプレーが行われている。
 これはわたしの妄想だが、ドーム球場がもしもつくられたら、市民にもテレビの視聴者にも「広島ドーム」という呼び方が普及することになるだろう。「東京ドーム」などと同じように。
 そうなると、「原爆ドーム」とは全く違うのに、同じようなものが一つ増えた、そんな錯覚を覚えさせてしまうことになるのではないか。原爆を決して薄めてはならない、―そういう強く深い意志が「広島にドーム球場はつくらない」という姿となっているのではないか。
 そう思い続けたい。

 

 

息子たちのヒロシマ

 

 1

 

     学徒らに吾が子重ねて遺影見る

  十二歳 わが子と同じ十二歳

 

 3人の息子はそれぞれ、小学6年の夏、広島を訪ねた。「小学生の卒業旅行」として、また「父子の二人旅」として。
 目的は、夏のヒロシマへ行く事、それも、東京から広島へ、夜行バスで10時間以上かけて向かうという、少し辛い旅をしてヒロシマへ行く事。そして、原爆ドームを見る事、また広島平和記念資料館で原爆の展示物を見る事。それだけの目的だった。

 *

 長男は黙って原爆ドームを見つめた。
 次男は、手渡した小型カメラで撮影して回った。
 三男は、最初にちらっと見たきり、あとは全く見なかった。
 三様の反応を示した。
 原爆についても、原爆ドームについても、当時のヒロシマについても、現在の広島についても、私は何も伝えなかった。行く前に自分で調べるように、とも言わなかった。ぶっつけ本番で、12歳の心をもってヒロシマに触れてほしいと願った。

 *

 三男は、川向こうに渡ったあと、初めてドームを見つめた。それからスケッチ帖を出して描き始めた。今もその絵はある。
 次男は、のちに中学校で戦争について習ったとき、先生から「原爆ドームを見た事がある人は?」と訊かれ、一人だけ手を挙げたと、なんとなく誇らしげに語った。
 長男は、平和記念資料館に入って、被爆した人たちを模した人形に体を震わせた。暗い照明の下で、皮膚の垂れ下がった人たちが生々しく迫ってきたのだ。

 *

 息子たちは、これまでに懐かしい思い出としてこのヒロシマ行きを語った事はない。私も訊かない。ただ悲惨な事実をあの日、全身からはみ出すほどの衝撃で受けとめた心が、平和を希求しつづける心となってほしいと祈るばかりである。

 

 

 長男と「広島原爆資料館」(広島平和記念資料館)を訪れた時のことである。原爆の悲惨な状況を今に伝え続けている資料館には、ぜひとも息子を連れていきたかった。原爆ドームと二つ合わせて「息子の初めてのヒロシマ体験」と考えていた。
 入館する時、窓口で券を買う。当時、大人が50円、小人が30円だったと思う(現在は変わっている)。
 私は、息子自身に券を買わせたいと思った。
 前夜東京を発つとき、小遣いを渡し、今夜と翌日の朝・昼・夜の食事代、飲み物代、資料代、お土産代などを全部それでまかなわせることにした。往復の交通費だけ、親持ちである。原爆資料館の入館料も、その小遣いに含まれていた。
 窓口には結構な数の人が並んでいた。一瞬私は、「大人1枚、小人1枚」と言って、二人分を買おうかと迷った。
 けれど、と思い返す。今度の「旅」はできるだけ子ども自身でする、ちょっと苦しくてもそれを味わう、というねらいをもって臨んだものである。息子と私は、別々に券を買うことにした。
 「お父さんと一緒に買えばよいのにね」
 そんな声が窓口の中から聞こえた。私が先に窓口に立ち、続いて息子が買い求めた時である。窓口の女性は、混んでいる入館者を手早くさばきたいと思い、親子連れらしい私たちに気づいたのだろう。
 私は驚きながら、
 「子どもは初めて広島に来たんです。初めて資料館も見るんです。子どものお金で子ども自身に切符を買わせ、入館させたいと思ったんです」
というようなことを言った。
 彼女は、それ以上言わずに、黙って息子に券を渡した。

 後日、私は、当時の原爆資料館長に葉書を差し上げた。
 このときの窓口の女性の事が忘れられなかった。
 ─混んでいたので、ご迷惑をかけたかもしれません。その反省はあります。けれど、券を買う事も含めて、息子には、12歳の貴重な体験としてヒロシマを刻んでほしいと願ったのでした。
 そのような言葉で結んだように思う。
 返事は期待していなかった。大勢の入館者のたった二人の事である。それもいわばクレームである。私は半ば、自分が気の済むようにしたかったのかもしれなかった。
 ところが、である。
 その館長はお応えくださったのである。しかも手紙で。
 ─このたびのこと、たいへん申し訳なく思います。さっそく全職員を集め、「資料館を訪れてくださる一人ひとりの思いがどんなであるか、どのような準備や心構えで来られているのか、いつの間にか馴れてしまって、それに気づかずにいることがなかったでしょうか。緊張感をもって受け止め、丁寧に応対しましょう」と伝えました。「この資料館の存在意義を再確認しましょう」と。
 次男も三男も、年を隔てて原爆資料館を訪れた。
 そして、長男のときと同じように、自分で券を買った。

 

 

●ご訪問ありがとうございます。

 ヒロシマでG7が開催されます。首相は思いをこめてこの会議に臨んでいるようです。けれど、平和公園内の原爆資料館を各国の首脳に見てもらうかどうか、ぎりぎりまで検討する、というとのこと。政治家の本気度というのは、その程度なのでしょう。
 「息子たちのヒロシマ」は、一年ほど前に投稿しました。今回、もう一度投稿します。当事者であってもなくても、いや、当事者でない立場からの声も、たびたび挙げたいと思うのです。
 原爆資料館がリニューアルされたとのニュースを見ました。当時の人々の目線から原爆のむごたらしさを伝えようということです。元館長がその先頭に立たれたそうです。もしかしたら、ご返事をくださった館長かもしれないと思います。

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