台風とかけまして、エコバッグととく
そのココロは、、、
てなお題噺ではありませんが、まぁそのよーなトコロも少し通るかもしれん。
実は、
この歳になって「たいふー」というのに反応してワクワクしちゃう、
とゆーのが未だ残っておりまして^^;
これは“困ったもんだなぁ”という事でチョンなんですが、なぜこういう条件反射がシツコクこびり付いてるか、と言うことを少し掘り下げて考えてみると、現代社会の病巣というところまでたどり着く場合がアル、という話です。
ボクの田舎のうちは脇を小川が通ってて、大雨が降ると結構怖い事になる。
したがって、これは台風が来そうだとなると大事なものはまとめ、一家総出でその備えをします。
窓もサッシじゃないので、ベニヤのカバーで覆うような設えが予め用意してあって、ボクと弟は物置からこれを運ぶ、
と親父がガッとはめ込んでネジで締めていく。
それから、植木鉢を物置にしまう。飛びそうなものもしまう。
物干しの竿は全部下ろしてくる。玄関先の細々としたものを全部中に入れる。釣り忍も、この時ばかりはしまう。
お袋はお袋で食事材料を確保し合羽を物置からひっぱり出す。懐中電灯を出してつけたり消したり、予備の電池も見ておく。そして蝋燭を準備する。
これらの作業は、台風がまだ南海沖にいる時分から早々と進められ、昼間でも家の中は電気を消すと真っ暗け。
夕方から通りにはもう人影はありません。集落に数軒ある八百屋兼魚屋兼雑貨屋さんも早仕舞い。だれも開いてないじゃないかと文句も言いません。コンナ日に普段の調子で買い物や用事に出歩いてる人など一人もいない。
近所中みなウチの周りでせわしなく動き回っているさまは、子供達にとっては
ゴジラか宇宙人が攻めてくるのと同じ感覚なのですね^^;
そして
なぜか、きまって夜中にやってくる台風。
夕刻風が段々強くなって、雨の降り方がアキラカニ普段のそれとは違って、窓にはめ込んだベニヤにバチバチ音を立ててくると、ボクと弟のお祭りが始まるのであります。
そのころはまだ、表の様子を見に行く親父にくっついていっても怒られないので、合羽を着て表に出てみます。
親父は、表で備えをしている近所のおじさんに声をかけ、
「きそうやのー」
「おー、くるのーコレは」
高まる緊迫感^^;
川は枝や葉っぱやなにかと共に茶色の水を押し流し、お社の森の上には見たこともない黒雲が渦を巻いているのですネo(^-^)o ワクワク
この日は当然子供達にチャンネル選択権はなく、ボクらもそのことを当然のように理解し、NHKの台風情報を見ながら弟と二人布団にもぐりこんではハシャギ、時々外の様子を伺い、川の様子を見に表に出る親父を見送りに玄関まで出張って、、、
やがて風の音を聞きながらいつの間にか眠ってしまうのです。
そして、
明ければ真っ青の空。
すでに窓の設えもはずされ、いつもの朝食が並んだ居間から表の川を見ると
そこだけは轟々と台風の落し物がイキオイよく流れ下り、
ボクラは未だ前夜の余韻のまま、いつものように学校に行くのがナニカ釈然としない、そんな気持ちを引き釣りつつ登校の準備を始めるのです。
一夜にして、またいつもの日常に戻っているのが大層不思議に思えました。
ボクラにとっては、夏祭りも台風も同じハレのお祭りでした。
そして、大人たちにしても日常“ケ”の日々とは違う負のお祭りだったのではないか?と
そんな風に小さなボクは理解をしていました。
たとえば、
年に一度の神輿乗りに一年かけて準備をするお兄さんや、
日ごろ話しかけても返事もしない無口なオジさんが、秋の村祭りの日だけは僕らにもヒツコク付きまとい^^;心の底から笑い、酒を飲むような、
“ハレ”の日にマジックで印をつけたような一年のリズム。
農耕民族の営みが染み付いた三重の片田舎で育ったボクにも、そんなリズムが刻まれているでしょうか?
また、
今住んでいる伊勢というところ、神宮の御遷宮というのは正にそのリズムの最たるもので、20年周期でそのことを見据え、日々、毎年の行いをなす人々が暮らしていたのです。
対して、
現代の物質文明社会の進歩は、言わば、無理は承知とばかりに、日々の“ケ”に絶え間のない“ハレ”を追求してきた歴史であります。
365日24時間なんでも買えるチェーン店
快適な室内環境を実現する為、閉ざされたコンクリートの空間
高架の上に築かれた高速道路網
日々垂れ流されるエンターテイメント
狭い国土を埋め尽くす自動車の群れ
大画面の液晶TVモニターやすべての人の懐に進入した携帯電話
外国からやってくる色とりどりの調理済み食品
季節を問わず恥ずかしげもなく並ぶ野菜たち
一月単位で変わってゆく流行品の数々
これら刹那的な快楽と恒常的な利便性を日常に宿した社会では、イザというときの破綻に歯止めもお互いのケアーもなく、人々はタダあたふたとマヌケになるばかりです。
なぜかってメリハリが日々の暮らしから段々になくなっている。
年に一度のお祭りや、避け様のない天災の度ごとに、かつての日本社会はその“イザ”に対応する為のシミュレーションを実は行っていたのですね。
でも本当は、
承知しているはずの無理が時たま、とんでもない悲劇をもたらす事よりも、
ずっとずっと怖いのは、本来退屈である代償にそのかわり穏やかな日常の日々に、小さなササクレのような災厄を絶え間なく撒き散らかしているという事の方なのです。
ハレの継続は社会にスコシヅツ疲弊をもたらす、ということ、
日々絶え間のない快適さに満たされた世界では、その充足の果てに“ココロの勤続疲労”が必ず訪れるでしょう。
それでは、
360日の我慢の代わりに、たった数日のお祭りがあった時代の生活のリズム
これを見直すために必要とされる素養はナニカ?
それは、
退屈を楽しむという心の幅だと思います。
古池にかわずが飛び込んでポションと音が立っても、それがなんなの?という神経の人、
年に一度の花火大会を、春夏秋冬毎月行わないと観光地を楽しめない人、
毎朝玄関から見る空の色や山の木々の変化に気付かない人
こーゆーボクタチが集まって、日々の空虚な祭りにウツツを抜かしている間に、そのお祭りの残りかすに拠って自然や地球はどんどん草臥れてしまったりする。
すなわち
消費文明が席巻する現代、その騒乱的日常にけりをつけるためには、モノからココロに軸足を移した生活をみんなで楽しむことが必要なのですが、
その一歩のシフトチェンジは、じゃあどーやったらできるんだと。
その契機もやはり、実は消費文明からしかはじまらないものなのかもしれない。
この一見矛盾したスタイルは、ボクラ人類という種の進化の論理に基づいており、
たとえば、
一昔前なら暗くて狭いお店にしか置いてなかった無農薬野菜が、お洒落なエコデスという販売店で買える^^;、とか
環境エイドに出演するアーティストは今をときめく人ばかりだ、とか
英国の某有名デザイナーのエコバッグが銀座で限定販売され大混乱になっているとか、(やっと出てきた^^;)
そのタグイのムーブメントが実際最も効率よく消費至上社会に歯止めをかけるものなのでしょー。
そしてそれらのビジネスモデルは、今後最も富を生み出すものだとも言えるわけです。
このように、
後戻りの修正、古ぼけた正義ではケッシテ満足しないのが人間のいいとこでもあり決定的な欠陥でもアル訳で、
はたして、銀座に並んだ数千人の人々がいつまでそのバッグを使い続け、何枚のレジ袋が節約されるのか?
結局買えなくって、お店側の対応の悪さに文句を言う程度の心得では、その効果もたかが知れてる、というのが正直なところではあります。
しかし
かなり危険なラインまで進んでしまってる人類にとっては、今までエコバッグなど興味がなかった人が
使い続けることで、使い古したものを継続して持ち続けることの価値を一人でも二人でも気づけば儲けものだと、
この程度の信憑性・信頼感しか持ち得ない対処療法的な施策に頼らざるを得ない。
あの台風の夜を思い出して、社会のマチガッてしまった仕組みというホトンドみえないような小さな穴に、自分で紡いだ糸を通してみることが求められています。