「唯一無二の味方──」
夫が言った言葉を呟きながら、濃姫は返された短刀を胸の上でギュッと抱いた。
心の中が春の陽のような温もりに溢れ、唇の両端が自然と持ち上がった。
姫はそのまま、布団の上で胎児の如く背を丸め、身を縮めた。
全身から仄かに愛しい夫の香りが漂ってくる。植髮失敗
「ええ…お相手致しまする、殿。このように面白き戦ならば、幾らでも」
独りごちる姫の顔に、明日を夢見る少女のような屈託のない微笑が浮かんでいた。
同日の朝五つ刻(午前8時頃)。
朝餉を済ませた信長は、勝三郎ら側近たちを連れて、大急ぎで馬小屋に駆け込むと
「皆急げ!もたもたしている暇はないぞ!」
叫びながら自身の愛馬に跨がり、城門へと向かった。
「開門じゃ!開門ーッ!」
信長らが馬に乗って駆けて来るのを見て、門番たちが慌てて門を開けにかかる。
すると横からサッと政秀が飛び出して来て、両の手足を大の字に広げながら、城門の前に立ちはだかった。
信長は「あっ」となり、瞬時に手綱を引いた。
「爺!!急に飛び出すでない!危ないではないか!」
遺憾そうに眉根を寄せる信長に、政秀は険しい表情で叫んだ。
「殿!またこのような朝早くから、いずこへ参られまするッ!?」
「百姓らの田畑じゃ!昨夜の嵐で作物に被害が出なかったかどうか見て参る」
「なりませぬ!そのような事は家臣たちお任せになり、殿は城での御公務に専念なさって下さりませ」
「百姓らの田畑を見回り、被害に合っていれば手助けを致すのも立派な城主の仕事じゃ!行って何が悪い」
「でしたら、せめて身形くらいはきちんとなさって下さいませ!また左様なだらしのない格好をなされて…。
それでは那古屋城主、織田家ご嫡男としての威厳と品格が損なわれまする!お改め下さいませ!」
「毎度毎度、ほんに爺は口うるさいのう。着物が仕事をしてくれる訳でもあるまいに」
「殿ッ!」
「あー、分かった分かった。話ならば後で聞く故、取り敢えずそこを退け!」
信長はそのまま馬を走らせ、無理やり政秀の横を通り過ぎていった。
その後には側近たちの馬も続き、舞い上がった大量の砂ぼこりが政秀を一気に包み込んだ。
信長を引き止める最後の一声を張ることも叶わないまま、政秀はゴホゴホと咳き込みながら、遠退いてゆく主の背を悄然と見送った。。
その口から、まるで鉛を吐き出すかのような重い溜め息が漏れる。
『 何と情けない…。殿はいつまで、あのような粗暴なお振る舞いを続けられるつもりなのか… 』
額に手を当てながら、政秀はとぼとぼと御殿の方に向かって歩いて行く。
ちゃんと分かってはいるのだ。
信長のやる事にはそれなりの意味があり、日々の外出とて、ただ遊び回っている訳ではないと──。
ただ、政秀は不安だった。
誰もが承知のように、今の信長を理解してくれる者はあまりにも少ない。
美濃と同盟を結んでから暫く経つが、弟・信勝を織田家の後継者に推す声は、減るどころか増える一方である。
このままの状況が延々と続くようでは、織田の家督どころか、一城主としての立場も危ぶまれると、政秀は頭を痛めていた。
「左様に額を押さえられて──つむりでも痛うございますか?平手殿」
政秀は、不意にかけられたその声に足を止め、静かに前を見据えた。
すると、三保野やお菜津を背に従えた濃姫が、御殿の渡り廊下の上からこちらの様子を窺っていた。