濃姫は不機嫌そうにしながらも、気持ちを入れ替えるように一つ息を吐くと
「ひとまず、お話の内容は分かり申した。 ……私も、お菜津にいつまでも身代わりをさせておくのは忍びのうございました故、それはそれで良きことかと存じます」
と、理解を見せて
「されど、間違えてもご側室方を、ましてや京で新たなおなごに手を付けられるような真似は、お控え下さいませ」
妻として軽く釘を刺した。
「わ、分かっておる!左様なこと。 ……さて、せっかく参ったのじゃ、姫と遊んでやろうかのう」
話から逃れるように、信長は立ち上がろうとして素早く片膝を立てた。
「かような刻限ですよ。姫ならばとうに奥の間で眠っておりまする」
「…な、ならば、寝顔を見に参るっ」
「お好きになされませ」
奥の間に向かう信長を横目で見送りながら、濃姫は二度目の溜息を吐いた。
折を見て、姫の名前の件について信長の意思を仰ごうかと思っていたのだが、
濃姫は気持ちがすっかり冷めてしまい、結局この日は何の相談も出来なかったのであった。
──濃姫の影武者となっていた侍女のお菜津が、信長の要請によって入京を果たしたのは、それから僅か五日後の正午のことだった。
お菜津が乗った豪奢な朱塗りの輿が、大勢の供奉の男たちに護られながら、しずしずと京の街道を進んでゆく。
行列には侍女のも付き従っており、輿の中の人がお菜津だと気付かれないように、常に周囲に気を配っていた。
「開門ーっ!」
やがて行列はとある寺院へと到着し、門を潜った先にある、長い敷石の上へと輿は静かに下ろされた。
古沍は素早く輿の前に駆け寄ると、下りているの前に履き物を揃えて
「ご安着、おめでとう存じ奉りまする。お方様、おし下さいませ」
と、囁くように告げた。
一行がたどり着いたのは、堀川四条のほど近く。
周囲を西洞院、六角、油小路などの通りに囲まれた場所に位置する、法華宗のであった。
先にも述べたが、後に本能寺八世・日承上人にしたのが縁となって、信長が上洛の際(妙覚寺に次いで)宿所としていた寺である。
濃姫たちが起居している妙覚寺の狭い離れに、物々しくお菜津たち一行を招くのはさすがにられた為、
信長の計らいで、濃姫とお菜津たちは本能寺で落ち合い、そこで両者が入れ替わる算段となっていた。
「ささ、お方様。どうぞ外へ」
輿の御簾を巻き上げた古沍は
「本日は陽射しが強ようございます故、これをお被りになられて…」
持参していたの羽織り物をお菜津の頭にかけて、周囲から彼女の顔が見えないようにした。
草履を履き、お菜津がゆっくりと輿から降り立つと
「お方様は長の道中でお疲れじゃ。一時ほどこちらでご休息あそばされる故、暫し控えていよ」
古沍は供奉の者たちに告げるなり、濃姫に扮したお菜津を連れて、そそくさと本堂の中へと入っていった。
両人はそのまま、訳知り顔の僧侶の案内によって、寺の客殿へとわれ、そこにある最も奥まった一室へと通された。
戸襖が固く閉ざされた、部屋の入口の前まで二人を連れて来た僧侶は
「中でお待ちにございます」
そう言って粛然と一礼すると、余計な説明は不要とばかりに、早々と二人の前から去っていった。
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